大木正吾
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大木 正吾 おおき しょうご | |
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生年月日 | 1922年3月26日 |
出生地 | 日本 千葉県山武郡松尾町(現:山武市) |
没年月日 | 2004年3月17日(81歳没) |
出身校 | 日本大学法律科中退 |
前職 |
全逓信従業員組合中央執行役員 全電通書記長 全電通委員長 総評幹事 総評事務局長 |
所属政党 | 日本社会党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 |
選挙区 | 旧千葉3区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1990年2月18日 - 1996年9月27日 |
選挙区 |
(全国区→) 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1977年7月10日 - 1989年7月9日 |
大木 正吾(おおき しょうご、1922年(大正11年)3月26日[1] - 2004年(平成16年)3月17日[1])は、昭和から平成初期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。
来歴
[編集]1937年(昭和12年)東京浅草寿町郵便局勤務[1][2]。その後、日本大学法律科に入るが、1943年(昭和18年)に中退し[1][2][3]軍務に就いた[2][3]。
1948年(昭和23年)全逓信従業員組合中央執行委員[1]。1950年(昭和25年)日本電信電話公社関東電気通信局に移り[1]、1953年(昭和28年)に全電通書記長になる[1][2]。1958年(昭和33年)委員長に就任[1][2]。1962年(昭和37年)総評幹事[1][2]。1970年(昭和45年)から6年間事務局長を務めた[1][2]。
1977年(昭和52年)第11回参議院議員通常選挙で社会党から全国区に立候補して当選[4]。1983年(昭和58年)第13回通常選挙(比例区、社会党)でも当選し[5]参議院議員を2期務めた[1][3]。1989年(平成元年)に参議院議員を引退。翌1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙で郷里の旧千葉3区から立候補して衆議院初当選[6]。翌1993年(平成5年)の第40回総選挙(旧千葉3区、社会党)でも再選され[6]、衆議院議員を2期務めた[1][2]。この間、参議院逓信委員長、同産業・資源エネルギーに関する調査会長、社会党中央執行委員、同労働局長、総評顧問、全電通政治局員などを務めた[2][3]。
1996年(平成8年)の第41回総選挙に出馬せず引退[1]。2004年3月17日死去、81歳。死没日をもって正四位に叙される[7]。
栄典
[編集]著作
[編集]- 『三千万人の春闘論 : 生活闘争から国民春闘へ』総合労働研究所、1976年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『議会制度百年史 貴族院・参院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会 | ||
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先代 田中恒利 |
衆議院内閣委員長 1995年 - 1996年 |
次代 伊藤忠治 |
先代 八百板正 |
参議院逓信委員長 1983年 - 1984年 |
次代 松前達郎 |