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稲垣平太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲垣いながき 平太郎へいたろう
稻垣 平󠄁太郞
生年月日 1888年7月4日
出生地 岡山県岡山市
没年月日 (1976-04-23) 1976年4月23日(87歳没)
出身校 慶應義塾大学部理財科
前職 富士電機専務
時事新報常務
横浜ゴム会長
所属政党民主党→)
民主自由党→)
(無所属→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等瑞宝章
勲二等旭日重光章
藍綬褒章

内閣 第3次吉田内閣
在任期間 1949年5月25日[1] - 1950年2月17日[2]

日本の旗 第32代 商工大臣
内閣 第3次吉田内閣
在任期間 1949年2月16日 - 1949年5月25日

選挙区 全国区
当選回数 1回
在任期間 1947年5月3日 - 1953年5月2日
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稲垣 平太郎旧字体稻垣 平󠄁太郞[3]、いながき へいたろう、1888年7月4日 - 1976年4月23日)は、日本実業家政治家位階正三位

参議院議員商工大臣(第33代)、通商産業大臣(初代)を歴任した。

来歴・人物

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岡山県岡山市生まれ。岡山中学京華中学第一高等学校中退を経て、1913年慶應義塾大学部理財科を卒業。三井物産に内定していたが、古河財閥当主・古河虎之助から直接入社依頼の電話があり、古河合名に入社する。第一次世界大戦ドイツに派遣され、ジーメンス社との折衝の上、1923年日独合弁の富士電機が設立され、専務に就任した。以後時事新報常務(1932年)、横浜ゴム専務(1942年)を経て、1945年横浜ゴム社長に就任する(1947年より会長)。

1947年第1回参議院議員通常選挙民主党公認で全国区から立候補し当選。党総務会長を歴任する。1949年民主自由党からの連立政権の呼びかけについて党内が分裂すると、稲垣は犬養健保利茂小坂善太郎らとともに「連立派」を形成し、同年第3次吉田内閣において商工大臣(間もなく通商産業大臣と改称)として入閣する。改進党には参加せず、1953年第3回参議院議員通常選挙では、全国区から無所属で立候補し、落選。

落選後は財界活動に専念し、日本貿易会会長、ニッポン放送会長、日本ゼオン会長、中央政策研究所理事長などを務めた。なお、その間、1962年第6回参議院議員通常選挙岡山県選挙区から自由民主党公認で立候補し落選している。

1961年秋の褒章で産業団体要職に就いて貿易振興や商工業の発展に寄与したとして藍綬褒章受章[4]1964年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章[3]1971年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章[5]

横浜ゴム会長時代は政治資金を工面するため、海外展開に遅れブリヂストンに引き離される要因となったといわれている。

1976年4月23日死去、87歳。死没日をもって正三位に叙される[6]。墓所は青山霊園

脚注

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  1. ^ 『官報』第6711号337頁 昭和24年5月31日号
  2. ^ 『歴代内閣・首相事典 増補版』吉川弘文館、2022年、pp.506-507
  3. ^ a b 『官報』第11369号6頁 昭和39年11月4日号
  4. ^ 『官報』第10461号662-663頁 昭和36年10月31日号
  5. ^ 『官報』号外第49号7頁 昭和46年4月30日号
  6. ^ 『官報』第14803号17-18頁 昭和51年5月14日号

関連項目

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公職
先代
新設
日本の旗 通商産業大臣
初代:1949年 - 1950年
次代
池田勇人
先代
大屋晋三
日本の旗 商工大臣
第33代:1949年
次代
(廃止、通産省へ統合)
議会
先代
新設
日本の旗 参議院商工委員長
1948年
次代
小畑哲夫
先代
新設
日本の旗 参議院鉱工業委員長
1947年 - 1948年
次代
廃止
その他の役職
先代
中島久万吉
日本の旗 日本貿易会会長
第2代:1953年 - 1972年
次代
水上達三