コンテンツにスキップ

塩見俊二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塩見 俊二
しおみ しゅんじ
生年月日 (1907-05-17) 1907年5月17日
出生地 日本の旗 高知県高岡郡戸波村(現土佐市
没年月日 (1980-11-22) 1980年11月22日(73歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科
所属政党 自由民主党大平派
称号 正三位
勲一等瑞宝章
土佐市名誉市民
親族 兄・塩見俊雄(土佐市長)

日本の旗 第49代 厚生大臣
内閣 第1次田中角栄内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1972年12月22日

内閣 第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1966年8月1日 - 1966年12月3日

選挙区全国区→)
高知県地方区
当選回数 4回
在任期間 1956年7月8日 - 1980年7月7日
テンプレートを表示

塩見 俊二(しおみ しゅんじ、1907年(明治40年)5月17日 - 1980年(昭和55年)11月22日)は、日本の政治家位階正三位参議院議員(4期)。自治大臣厚生大臣[1]自由民主党高知県連会長。板垣退助先生顕彰会顧問[2]土佐市名誉市民[1]

経歴

[編集]

1907年(明治40年)5月17日、塩見熊吉の二男として高知県高岡郡戸波村浅井(現土佐市)に生まれる[1]。初代土佐市長の塩見俊雄は実兄。母は塩見良。

1921年大正10年)4月、高知県立第一中学校(翌年「高知県立高知城東中学校」と改称。現高知県立高知追手前高等学校)に入学。この時の同期生に板垣退助の孫・乾一郎がいた[2]。同校卒業後、旧制高知高等学校に進み、更に東京帝国大学法学部で学を修める[1]

将来を嘱望され、1931年(昭和6年)、台湾総督府に入庁。財務局金融課長、同主計課長などを歴任する。終戦に伴い1946年(昭和21年)に帰国。戦後は東京財務局直税部長、熊本、広島、大阪国税局長を歴任。1955年(昭和30年)に退官[1]

1956年(昭和31年)、第4回参議院議員通常選挙全国区自由民主党から立候補し当選。1962年第6回参議院議員通常選挙高知地方区から立候補し当選。以後連続3期、合計4期24年参議院議員を務める[1]。自民党では池田大平派に属し、経理局長、参議院国会対策委員長、参議院幹事長などを歴任[1]、自民党高知県連会長も務めた[1]第1次佐藤第2次改造内閣自治大臣に就任[1]

1966年(昭和41年)、高知の青少年たちに読書の機会を与えようと、私財を投じて自身が長年にわたって収集した蔵書・6万7000冊を寄贈し、高知電気ビル内に「塩見文庫」を創設した[3]

1968年(昭和43年)7月、板垣退助先生顕彰会顧問に就任[4][2]。同年12月8日、東京・品川で「明治維新百年・板垣退助先生五十回忌墓前祭」を挙行。自民党結党の精神を尊び、退助の子孫らを招き、寺尾豊らと共に退助の墓前に「板垣死すとも自由は死せず」の石碑(佐藤栄作揮毫、高知県産岩石を使用)を建立した[2]

第1次田中角栄内閣厚生大臣に就任後、1972年(昭和47年)には、自からフィリピンルバング島に渡り、小野田寛郎救出のために尽力した[1]。大規模年金保養基地構想を打ち出し、各地にグリーンピアが建設された。

1978年(昭和53年)、積年の功績を賞せられ勲一等瑞宝章受章(勲五等からの昇叙)[1][5]土佐市名誉市民となる[1]

1980年(昭和55年)、病気により政界引退[6]。同年11月22日肝硬変のため死去、73歳。墓所は土佐市浅井[1]。死没日をもって従五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った[7]

人物

[編集]

読書家であり、謙虚で飾り気のない人柄とともに無類の酒好きで、豪放な面もあり、土佐人の性格を代表する政治家だった[1]。飾り気のない人柄とともに無類の酒好きで知られた[1]

2つの銅像建立

[編集]
  • 1991年平成3年)、塩見俊二の十三回忌を翌年にひかえ、翌年4月に「塩見文庫」が高知県に移管されることが決定したため、財団法人小津図書館は、塩見俊二の功績を顕彰して銅像の建立を計画[1]。銅像は腰を下して読書する塩見の姿となった[1]。同年11月22日除幕。原型の作製は高知市在住の塑像家濱田浩造による[1]
塩見俊二先生頌徳像(碑文)
塩見先生は、高知県選出の参議院議員として二十四年に亘り活躍され、その間、自治大臣、厚生大臣を歴任されて国会の要となられると共に、自由民主党高知県連会長として郷土の発展に誠心を尽されました。殊(こと)に知識を尊び読書を愛された先生は、和子夫人の協力のもと「塩見文庫」を開設。「読書推進賞」に輝かれる等、郷土の文化振興に多くの貢献をされ、昭和五十三年には、国政への偉大な功績を讃えられて、勲一等瑞宝章を授与されました。清廉にして豪放磊落。国を想い県民郷土を愛し、少なからず酒を愛でる先生の土佐人気質は、今日(こんにち)尚、県民をして父の如くに敬慕されて止まぬところであります。思い出多き此の地、文庫の前庭に、文人政治家・塩見俊二先生の頌徳像を建立し、永く後世にその徳を伝えます。
平成三年十一月二十二日

上記の銅像建立を受け、1992年(平成4年)、塩見俊二の故郷の有志たちによって「塩見俊二先生顕彰事業期成会」が組織され、翌1993年(平成5年)、籠尾市長を会長に迎え「塩見俊二先生銅像建立実行委員会」に発展[1]。市内外、団体から浄財を募り、市からの助成を受けて銅像を建立[1]。「庶民派でクリーンなイメージを…」との意を受け、燕尾服姿で右手を腰に当てた立像で製作された[1]。除幕は俊二の令甥・塩見昭彦、題字揮毫は内閣総理大臣宮澤喜一。銅像原型は、濱田浩造が作製した[1]

塩見俊二先生像(碑文)
一九〇七年、土佐市浅井に生まれる。官界を経て一九五六年、参議院議員に当選。以来二十四年間在任され、予算委員長、党幹事長等、院の要職を極め、閣内にあっては自治大臣、国家公安委員長、厚生大臣を歴任された。想えば、先生のその生涯は、天の啓示を享けた政治への強い使命感にあり、尽きることのない教育に託した情熱とされなる理想への追求にあった。私財のすべてを投じて創設された塩見文庫。その広大な施設と永年に亘って先生自ら選ばれた貴重な文献・六万七千冊余の蔵書を高知県に寄贈されるとともに、県ならびに本市に青少年教育と文化振興のために巨額の資金を贈られている。清廉にして高邁、義に厚く、文化をこよなく愛した近代稀に見る政治家。豪放、冷徹、秀抜にして不世出の大人・塩見俊二とその不滅の遺跡を永く後世に伝えるため浄財をもってここに巨星の像を建立する。
平成五年(一九九三)十一月二十二日

参考文献

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『土佐人の銅像を歩く』岩崎義郎著、土佐史談会、2003年
  2. ^ a b c d 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年8月13日閲覧。
  3. ^ この文庫は小津町に移転し、昭和53年、財団法人小津図書館となったが、1992年(平成4年)、高知県に移管され建物は「小津青少年ふれあいセンター高知県立塩見記念青少年プラザ)」となり、書籍は高知県立図書館(現・オーテピア高知図書館)に移管された。(『土佐人の銅像を歩く』、174頁)
  4. ^ 板垣退助先生顕彰会:名誉総裁佐藤栄作、名誉会長溝渕増巳、最高顧問山内豊秋らの構成で「財団法人板垣会」会長寺尾豊により設立された。
  5. ^ 昭和53年5月2日付『官報』号外第34号4頁
  6. ^ 塩見 俊二」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』https://kotobank.jp/word/%E5%A1%A9%E8%A6%8B%20%E4%BF%8A%E4%BA%8Cコトバンクより2023年1月2日閲覧 
  7. ^ 昭和55年12月3日付『官報』第16160号14-15頁

関連項目

[編集]
公職
先代
斎藤昇
日本の旗 厚生大臣
第49代:1972年
次代
斎藤邦吉
先代
永山忠則
日本の旗 自治大臣
1966年
次代
藤枝泉介
先代
永山忠則
日本の旗 国家公安委員会委員長
1966年
次代
藤枝泉介
議会
先代
西郷吉之助
日本の旗 参議院予算委員長
1968年 - 1970年
次代
堀本宜実