コンテンツにスキップ

加藤常太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加藤 常太郎
かとう つねたろう
生年月日 1905年4月30日
出生地 日本の旗 香川県高松市
没年月日 (1990-10-11) 1990年10月11日(85歳没)
出身校 奉天外国語学堂支那語科卒業
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
分党派自由党→)
日本民主党→)
自由民主党河本派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
親族 娘婿・関谷勝嗣(元衆議院議員、元参議院議員)
娘婿・大野功統(元衆議院議員、元防衛庁長官)
孫・大野敬太郎(衆議院議員)
孫・加藤秀樹(元大蔵官僚)
孫・加藤宏一郎(瀬戸内海放送社長)

日本の旗 第34代 労働大臣
内閣 第2次田中角栄内閣
在任期間 1972年12月22日 - 1973年11月25日

選挙区 旧香川2区
当選回数 13回
在任期間 1952年10月1日 - 1986年6月2日

選挙区 香川県地方区
当選回数 1回
在任期間 1947年4月20日 - 1950年5月2日
テンプレートを表示

加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年明治38年〉4月30日[1] - 1990年平成2年〉10月11日)は、日本実業家政治家位階正三位加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。

経歴

[編集]

香川県高松市出身[1][2]。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する[3]高松商業を経て[3]、奉天外国語学堂支那語科を卒業[1][3]

父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる[4]海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した[4]

1947年(昭和22年)の第1回参議院選挙香川県地方区において、日本自由党は適当な候補がいなかったため、県連や三木武吉に出馬を進められ[5]、当選[1][2]。1952年の第25回総選挙旧香川2区にて、自由党衆議院議員に転じ、以来13選[1][2]

1956年(昭和31年)の自民党総裁選では、石橋湛山をかつぎ、見事当選させた立役者の1人である[6]。党では河本派に所属した[1][2]

1972年(昭和47年)第2次田中内閣の労働大臣に就任し[1][2]、1975年秋の叙勲で勲一等旭日大綬章受章[7][8]

1986年(昭和61年)6月引退[2]

1990年10月11日死去、85歳。死没日をもって正三位に叙される[9]

瀬戸内海放送の設立に尽力

[編集]

平井太郎四国新聞社西日本放送社長)とは、小学校の同級生で、参議院議員になったのは一期早いが次の選挙で平井が当選。加藤は落選の憂き目に遭う。その後、衆議院議員に返り咲いたが、政敵の平井とは何かと因縁が深い[10]。平井が地元に帰ると西日本放送が熱心に報じるのに対し、加藤はまともに取り上げられないことに業を煮やす[10]。国会の逓信委員会に所属して委員長を務め、立法府における郵政・逓信族の実力者となり1967年(昭和42年)、郵政省にねじ込んでテレビ免許を獲得、瀬戸内海放送を設立する[10]。初代社長は弟、次は息子と加藤一族のテレビ局とすることを成功する[10]

地方の放送免許は県単位が基本だが、加藤・平井と電波行政に睨みをきかせる政治家が2人もいる香川県の高松地区は違う[11]1979年(昭和54年)に、瀬戸内海を挟んで岡山・高松地区が一つの区域に合算される準広域地区となり[11]、最終的にテレビ局(香川2局、岡山3局)でパイを分け合うことになった。岡山までエリア、商圏を拡げられたのは、無理筋を通す加藤の政治力によった[11]。瀬戸内海放送の売上は、岡山まで電波が延びたとたん倍近くまで急増した[11]

家族・親族

[編集]

加藤家

[編集]
香川県高松市東京都
  • 妻・キヨ(宮武保平次女[3]
  • 養子・達雄(多田羅正俊三男[3]
  • 長女・鎮子(達雄妻[3]
  • 長男・芳宏[3](瀬戸内海放送会長[2]
  • 次女[3]
  • 三女[3]
  • 四女[3]
  • 五女[3]
  • 叔父・加藤忠義(加藤海運社長[3]
女婿

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 『政治家人名事典』142頁。
  2. ^ a b c d e f g 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』165頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 第二十一版 人事興信録(上)』か一七頁。
  4. ^ a b 田々宮 1958, p. 122.
  5. ^ 田々宮 1958, p. 121.
  6. ^ 田々宮 1958, p. 118.
  7. ^ 加藤 常太郎https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%20%E5%B8%B8%E5%A4%AA%E9%83%8Eコトバンクより2022年12月22日閲覧 
  8. ^ 『官報』第14654号6頁 昭和50年11月7日号
  9. ^ 『官報』第489号12-13頁 平成2年10月20日号
  10. ^ a b c d 中川 2019, p. 107.
  11. ^ a b c d 中川 2019, p. 108.

参考文献

[編集]
  • 第二十一版 人事興信録(上)』昭和36年。
  • 田々宮英太郎『新・政界人物評伝』中央経済社、1958年。 
  • 『政治家人名事典』編集・発行 - 日外アソシエーツ、1990年。142頁
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』編集・発行 - 日外アソシエーツ、2003年。165頁
  • 中川一徳『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』講談社、2019年12月。ISBN 978-4065180877 
公職
先代
田村元
日本の旗 労働大臣
1972年 - 1973年
次代
長谷川峻
議会
先代
森下國雄
日本の旗 衆議院建設委員長
1968年
次代
始関伊平
先代
本名武
日本の旗 衆議院逓信委員長
1963年 - 1964年
次代
内藤隆
先代
竹山祐太郎
日本の旗 衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 次代
辻寛一
学職
先代
新設
宇部工業短期大学学長
第1代:1961年 -
次代
山縣清