谷川寛三
谷川 寛三 たにがわ かんぞう | |
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生年月日 | 1920年6月24日 |
出生地 | 高知県 |
没年月日 | 2015年11月30日(95歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
前職 | 大蔵省官僚 |
所属政党 | 自由民主党(三塚派) |
称号 | 勲一等瑞宝章 |
第47代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
選挙区 | 高知県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1980年7月8日 - 1992年7月7日 |
選挙区 | 高知県全県区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1976年12月10日 - 1979年9月7日 |
谷川 寛三(たにがわ かんぞう、1920年6月24日 - 2015年11月30日)は、日本の官僚、政治家。元自由民主党参議院議員・衆議院議員。元科学技術庁長官。位階は従三位。
来歴・人物
[編集]高知県出身。高知高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業後の1943年、大蔵省に入省。主税局国税第一課に配属[1]。1946年2月、松本税務署長。主計局主計官(法規課)、主計局主計官(運輸、国鉄、専売、電信電話、郵政担当)、主計局主計官(大蔵、文部、科学技術担当)などを経て、1963年5月 国税庁長官官房総務課長。1965年6月18日、関東信越国税局長。1967年8月4日、銀行局検査部長。1968年6月15日、理財局次長(国有担当)。1969年8月15日、東京国税局長。1970年6月16日、関税局長。1971年10月、退官。1976年の衆議院議員選挙に高知全県区から出馬し初当選。再選を目指した1979年の総選挙で落選したため、1980年に参議院議員に鞍替え。当選2回。
自民党内では福田→安倍→三塚派に所属。参議院農林水産委員長、参議院地方行政委員長を経て1991年11月から1992年12月まで宮澤内閣の科学技術庁長官を務めた。1992年政界引退。この時の選挙では、小沢一郎が側近の平野貞夫(同じ高知県出身)を出馬させるために、谷川を出馬断念に追い込んだといわれている。1993年、勲一等瑞宝章受章。
一般財団法人アジア会館会長、東京フード製菓中医薬専門学校の学校長も務めた。
2015年11月30日、老衰のため死去[2]。95歳没。没後従三位追贈[3]。
大蔵省同期
[編集]入省同期に、高木文雄、橋口収、山下元利、木野晴夫(北海道財務局長、衆議院議員)
当選同期
[編集]愛知和男・中村喜四郎・鳩山邦夫・西田司・中島衛・池田行彦・堀内光雄・相沢英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直。
脚注
[編集]- ^ 『自由民主,第296~299号』1980年発行、160頁
- ^ 谷川寛三氏が死去 元科学技術庁長官、元参院議員 日本経済新聞 2015年12月3日
- ^ 故谷川寛三氏らに従三位 産経新聞 2015年12月25日閲覧
外部リンク
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公職 | ||
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先代 山東昭子 |
科学技術庁長官 第47代:1991年 -1992年 |
次代 中島衛 |
先代 山東昭子 |
原子力委員長 第47代:1991年 -1992年 |
次代 中島衛 |
議会 | ||
先代 松浦功 |
参議院地方行政委員長 1987年-19888年 |
次代 向山一人 |
先代 下条進一郎 |
参議院農林水産委員長 1983年-1984年 |
次代 北修二 |
官職 | ||
先代 高木文雄 |
東京国税局長 1969年 - 1970年 |
次代 横井正美(心得) 安川七郎 |
先代 新設 |
大蔵省理財局次長(国有担当) 1968年 - 1969年 |
次代 本間英郎 |
先代 広瀬駿二 |
関東信越国税局長 1965年 - 1967年 |
次代 宮川国生 |