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戸叶武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸叶 武
とかの たけし
生年月日 1903年2月11日
出生地 日本の旗 栃木県安蘇郡田沼町
没年月日 (1982-12-25) 1982年12月25日(79歳没)
死没地 日本の旗 東京都新宿区
出身校 早稲田大学
前職 新聞記者
大学教員
所属政党右派社会党→)
日本社会党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
配偶者 戸叶里子(衆議院議員)
親族 父・戸叶薫雄(衆議院議員)

選挙区 栃木県選挙区
当選回数 4回
在任期間 1953年5月3日 - 1965年6月1日
1971年7月4日 - 1982年12月25日
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戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日1982年12月25日)は、日本政治家参議院議員(4期、日本社会党)。妻は衆議院議員戸叶里子

経歴

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田中正造の政治的後継者で、下野新聞社長を務めていた戸叶薫雄の長男として、栃木県安蘇郡田沼町に生まれた。旧制豊山中学校[1](現日本大学豊山高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部へ入学。在学中は、高野実などと社会主義学生団体「文化会」を率いる。また、雄弁会に参加し、1922年(大正11年)には先輩である浅沼稲次郎の推薦により幹事となった[2]

1925年(大正14年)1月24日、学校教練に反対するデモにリーダー格で参加して麹町警察署に一時検束される[3]。同年、早稲田大学を卒業してロンドン大学へと留学した。その後、東京朝日新聞に記者として入社し学芸部に所属。1930年(昭和5年)、国際連盟東京事務所に勤めていた吉田里子と結婚。1940年(昭和15年)、朝日を退職し、福家俊一が社長を務めていた国策新聞「大陸新報」の政治部長兼論説委員長として上海に妻と赴任[2]1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙栃木1区に東方会から出馬するが、落選。戦後、公職追放された[4]。また、宇都宮大学東海大学政治学を講じた[2]

戦後は政界進出を図るも戦前の活動がたたり断念。1946年に行われた第22回衆議院議員総選挙には身代わりとして妻である戸叶里子を栃木1区から立候補させてトップ当選(以後、夫を尻目に25年間落選することなく衆議院議員を勤めた)[5]、続いて自らも1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙栃木2区右派社会党から出馬したが落選。1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙栃木県選挙区から右派社会党から立候補し、初当選。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙日本社会党から出馬し、再選。

1965年(昭和40年)の第7回参議院議員通常選挙では、自由民主党の船田譲田村賢作に敗れ、落選。1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙では、自由民主党の植竹春彦矢野登に敗れ、次点。1971年(昭和46年)1月、第7回栃木県知事選挙に無所属で出馬し、現職の横川信夫に敗れ、落選。同年6月の第9回参議院議員通常選挙当選[2]。同年11月、妻が死去。1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙再選。

1982年(昭和57年)12月25日東京都新宿区戸山の自宅で入浴中に倒れ死去、79歳[2]。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従三位に叙される[6]

脚注

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  1. ^ 豊山中学校同窓会・校友会会員名簿(昭和14年6月5日発行)
  2. ^ a b c d e 第98回国会 参議院 本会議 第2号 昭和58年1月24日
  3. ^ 学生の反対デモ、警官に阻止される『時事通信』大正14年1月25日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p159 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 全日化の結成と産別会議の運動――亀田東伍氏*に聞く(上) 68
  5. ^ 「戸叶里子さん(訃報欄)」『中國新聞』昭和46年11月8日.1面
  6. ^ 『官報』第16790号13-14頁 昭和58年1月22日号

参考文献

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関連項目

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議会
先代
堀末治
日本の旗 参議院運輸委員長
1956年 - 1957年
次代
天田勝正
先代
棚橋小虎
日本の旗 参議院農林水産委員長
1956年
次代
重政庸徳