竹内黎一
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竹内黎一 たけうち れいいち | |
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生年月日 | 1926年8月18日 |
出生地 | 青森県黒石市 |
没年月日 | 2015年9月5日(89歳没) |
死没地 | 青森県弘前市 |
出身校 | 東京大学経済学部 |
前職 | 毎日新聞社記者 |
所属政党 |
(無所属→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
親族 | 父・竹内俊吉(元青森県知事) |
内閣 | 第2次中曽根第1次改造内閣 |
在任期間 | 1984年11月1日 - 1985年12月28日 |
選挙区 | 旧青森2区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 |
1963年11月22日 - 1990年1月24日 1993年7月18日 - 1996年9月27日 |
竹内 黎一(たけうち れいいち、1926年8月18日 - 2015年9月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲章は勲一等旭日大綬章。
衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第38代)、原子力委員会委員長(第38代)、衆議院外務委員長・環境委員長等を歴任した。
概要
[編集]青森県黒石市生まれ。旧制青森中学校、旧制弘前高等学校、東京大学経済学部卒業。東大卒業後、毎日新聞社に入社。毎日新聞の政治記者、運輸大臣秘書官を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に、青森県知事に転身した父・俊吉に代わって旧青森2区(定数3)から無所属で出馬し、得票数トップで初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・奥野誠亮らがいる)。
当選後、自由民主党に入党し、元外務大臣の藤山愛一郎が率いる愛正会に入会。その後、藤山派が解体した後も藤山の傍らに寄り添い、1976年に藤山が引退するまで「最後の藤山派議員」を貫き通した。その後は無派閥を経て、木曜クラブに入会。外務政務次官、経済企画政務次官を経て1984年、第2次中曽根第1次改造内閣で科学技術庁長官に任命され、初入閣した。
1990年の第39回衆議院議員総選挙では、旧青森2区から自民党公認で出馬したが、次点で落選した。1993年の第40回衆議院議員総選挙には再び旧青森2区から自民党公認で出馬し、返り咲いた。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、比例東北ブロック単独で自民党から出馬したが落選し、政界を引退した。2000年、勲一等旭日大綬章を受章。
2015年9月5日、弘前市内の病院で多臓器不全のため死去[2][3]。89歳没。叙正三位[4]。
脚注
[編集]- ^ “竹内黎一氏死去”. 東奥日報. (2015年9月6日) 2015年9月18日閲覧。
- ^ “青森)竹内黎一氏死去、県内関係者から悼む声”. 朝日新聞デジタル. (2015年9月7日) 2020年2月29日閲覧。
- ^ “訃報:竹内黎一さん89歳 = 元科学技術庁長官”. 毎日新聞. (2015年9月7日) 2015年9月18日閲覧。
- ^ 平成27年10月7日官報
公職 | ||
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先代 岩動道行 |
科学技術庁長官 第38代:1984年 -1985年 |
次代 河野洋平 |
先代 岩動道行 |
総理府原子力委員会委員長 第38代:1984年 -1985年 |
次代 河野洋平 |
議会 | ||
先代 藤本孝雄 中山正暉 |
衆議院外務委員長 1976年 - 1978年 1982年 - 1983年 |
次代 永田亮一 中島源太郎 |
先代 國場幸昌 |
衆議院環境委員長 1983年 - 1984年 |
次代 辻英雄 |
先代 矢山有作 |
衆議院石炭対策特別委員長 1986年 - 1987年 |
次代 福島譲二 |