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Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive02

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「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」について

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クリスマスの項から参りました。標題の件、字義通り解釈すべきか、つまり「出典があることがスタート」なのか、それとも、出典が無くともフィーリングで書いておいて、後日、出典を探せばよいのか、どちらでしょうか?解釈の余地の無いように、明確にしたいと思います。--Album 2006年12月22日 (金) 09:28 (UTC)

明確に前者です。フィーリングで書かれた百科事典を買って読む人はいないでしょう。買わなくても無料で読めるから構わない? いいえ、ウィキペディアは無料どころか、莫大な維持費がかかっています。きちんと調べてから書くようにお願いいたします。 --Kanjy 2006年12月22日 (金) 13:21 (UTC)
自分で書籍を取り寄せて調べて書いていても、時々、出典なしに明らかにフィーリング記述が飛び込んできます。日本の正月準備は12月8日の「お事始め」から始まるのに、「クリスマスが終わると~」とフィーリングで書いてしまう方がいる。個人のブログならばとがめないのですが、本を調べもしないで自分の生活体験からくるフィーリングで百科事典の内容を書いてしまう方が多くて、なかなか合意が形成出来ません。子供達へ間違った知識が広がらないように、要出典、としてコメントアウトするとトラブルになり、困っています。一週間待て、という意見もありますが、期間の明記はありません。間違った記載を一週間放置するという基準は無いのです。このあたりに独自解釈と長い議論を生じるスキが生じています。「出典を伴った異論を提出出来る場合は、『出典無き記載』は即時コメントアウトし、代わりに出典ある記述が出来る」と明記したいと考えています。Album 2006年12月22日 (金) 23:18 (UTC)
「要出典としてコメントアウトすることがトラブルになる」というのは、確かに困った状況だと思いますが、具体的なケーススタディを書くのはまだ待っていただきたいところですね。私も、ある種似たような要件の対処をノロウイルスで行っておりますが、検証可能性については、日本語版でもまだ動きはじめたばかりなので、誰かせっかちな人が生半可な考えで具体的なケースを明文化しちゃうと、杓子定規に解釈する人が現れたりして、後々にいろいろ支障がでてきかねません。できれば、もうしばらく我慢して「明文化されたもの」に頼るような「近道」を探ろうとするのではなく、あくまで「王道」をいく、つまり個々のケースごとに真っ正直に対処していただけないか、と思ってます。
それで「出典提示をいつまで待つか」ということについてなのですが、問題になる記述について、もしAlbumさんが「出典が存在するとは到底思えず、一週間どころか何年待っても無駄だ」と判断するのであれば、待つよりもむしろ、その記述を早く除去するべきです。「検証可能性を満たすため」にはそれが正しい対処です。ただし、その判断が誤っている可能性について、自分自身で十分考慮しておく必要があります(平たく言うと、「出典なんかありっこない」という判断に基づく対処をしておいて、誰かがちゃんとした出典を出してきたならば、その判断を下した人は赤っ恥をかくでしょうね。場合によっては信用を失ったり、非難されるかもしれません)。少しでも無難にすすめるなら、コメントアウトとして「記述を戻すときには出典の提示を願います」と、要約欄やノートに明記しておくとよいでしょう。それに対して、(1)出典の提示なく戻された場合には再度リバートし、3rrに至るようであれば、それに基づく対処を図る。(2)「出典提示の必要はない」という意見については、検証可能性を元に抗弁する。(3)信頼性のない出典が提示された場合には、その出典の信頼性そのものについて議論する。というような流れになるかと。具体的な対処については、上述のノロウイルスのノートや、私が最近見た中だと、ハエのノートからの流れなどが、参考になるかもしれません。
一方、何らかの出典があることが予想されるものであれば、記述を除去するのは間違った対処です。この場合は、該当記述の部分に「要出典」を貼るべきです。早期に解決したいのであれば、さらにノートや利用者会話ページで、当該部分の執筆者に出典を提示することを依頼するとよいでしょう。でもまぁ「出典が出てくるだろう/出て来ないだろう」という予想は、最初からそんなにはっきりしているものばかりではないわけで。結局のところ「検証可能性」に対しては、対処する人が「その記述が将来的に検証可能性を満たせるかどうか」ということを自分で「判断」し、その判断に基づいて対処するべき問題です。誰もが常に正しい「判断」ができるとは限らず、たまには間違ったりもするでしょうが、個々のケースの間違いについては、「他人の失敗には寛容に」ということで、ある程度大目に見ながら対処する方がよいと思います。ただし、故意に問題行動を繰り返す場合や、間違いが多い(総数ではなく比率として多い)人については、「当人の判断力について」を論点として、コメント依頼等での対処を図っていくことも可能かと。まぁ「他人の判断力を問う」なんて行為に出ることも、しばしば「当人の判断力」を疑われなければならないものですから、これこそ最後の手段ですが、きちんと手順を踏んだ後で、その必要があるときはということで。--Y tambe 2006年12月23日 (土) 00:54 (UTC)
ノート:クリスマスを見て感じたのですが、Albumさんは後者のケースを想定するように心がけるべきではないかと思います。 -- NiKe 2006年12月23日 (土) 01:54 (UTC)

有意義なご意見ありがとうございます。kanjyさんは、調べてから書くべき、とのことですね。標題に合ったご意見と思います。さらに明確に書くとすると、「出典が無い記載は違反」となりますでしょうか。tambeさんは個々の対応で、とのこと。とても理解、納得できるもので、現状ではそれしかないかと。。NIKEさんは、特に私は慎重に、ということですね。結果を見ればたしかにそのとおりかもしれません。ですが、それではダブルスタンダードになってしまいます。この人はこう、あの人にはこう、という適用ではそもそも基準を定めた意味がありません。解釈の余地が多すぎることが問題であり、標題の記載に追記して「出典を示さない記載は違反」と明記すべきではないでしょうか。「荒らし」の定義もすでに「基準に従わないこと」が要件の一つとなっており、体系に矛盾も生じません。「本気で調べて書いている人間」にとっては、何の支障も生じません。Album 2006年12月23日 (土) 23:25 (UTC)

えーと、まず「出典がない記載は違反」と考えるのは間違いですし、それを明記することには強く反対します。「出典が必要(だと判断される)にもかかわらず出典が提示されていない記述は、最終的に改善されなければならない」ということです。ポイントなのは「出典を要するという判断」と「最終的に」というところですね。
「出典を要するという判断」ってことですが、これは例えば独自調査の禁止で挙げられる「アップルパイ」などのように、検証可能性についても、出典を要求する必要はない例外の存在を許容しなければならない、ということです。また「最終的には」というのは、例えば「ウィキペディア1.0」などの安定版のようなものを意図しています。出典の書かれてない記述に記述については(1)出典が必要かどうか、(2)必要なのに書かれていないならば、(2-1)将来的に出典を補完された記述になるか、(2-2)出典が存在しない記述であるため除去されるか、を「対処する人が判断して」対処することになります。ウィキペディアの記事の多くは「公開されている書きかけ」であり、「違反と明記」してしまうことは、(2-2)の流れだけに偏重させてしまい、最終的な記事への「健全な成長」を妨げかねません。このあたり、杓子定規に捉える人が多いことを考えると「違反と明記」することは記事破壊の方向に向かう危険性が高いため、許容できるものではありません。
「出典を要するという判断」についてですが、基本的に出典は「記事の信頼性を保証する」ものなので、「これは変だ」と思ったこととか、「何か特別な根拠がないと、こう言いきることはできないはず」というような、信頼性を保つ上で必要になるポイントに適切に書かれていれば十分です。記事の信頼性に影響しないところにまで「出典を示せ」という必要はありませんし、それを理由に「出典がない記述として排除」するべきではありません(これを許容すると、荒しによる記事破壊行為に口実を与えかねませんし)。これが独自研究排除での「アップルパイ」のような例外ですね。出典を要求する側として重要なのは、まずその部分について「出典が必要であると判断した」理由を説明することです。場合によっては(例えば、上述のような荒しを目的とした出典提示要求については)その判断の妥当性や、そのユーザの判断力の正当性が問われることもあるかもしれません。また、「おそらく大部分の人は記述の信頼性に疑問を感じないだろう」というようなケースでは、本文中に出典提示を要求するのではなく、ノートで(やや個人的に)記述の信頼性についての疑義を投げかけて回答を得るという方法もあると思います。--Y tambe 2006年12月24日 (日) 00:56 (UTC)
ちぇすと申します。Y tambe氏の意見に対し多少の疑問点ですが、検証可能性の方針には「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」とありますが、Y tambe氏の意見はこれに対しあまりにも表記的に異なっている。除去されても文句が言えないと書かれていても、あなたは「許容できるものではない」とされる。「出典を示す義務は書き手」となっていても、あなたは「出典提示要求については)その判断の妥当性」として修正側に出典提示と同義のことをさせようとする(出典が必要かどうか判断するためには、修正側にもその事項が正しいかどうかの知識が必要となります。つまり出典を知っていることと同義でしょう)。「ウィキペディア1.0」などの話は初耳なのですが、申し訳ありませんがどこにそういった定義がなされているのでしょうか、お教えいただければと思います。確かに削除荒らしに対応させるために臨機応変な部分が必要、というのは賛成ですが、こうも検証可能性の方針と(表記的に)異なると、このページ自体が日本語版にとってあってはならない項目と感じられてしまいます。以前にY tambe氏は「日本語版独自の事情」と書かれた事があると思いますが、あなたの頭の中にしかそのような事情が記されていなければ普通の人間にはわからない話です。これだけの多量な編集者に浸透してもらう必要がある規則に「言外の言」を察しろというのは、些か以上に問題があるのでは。
またこの項目は明らかに悪意ある編集者に対応するためだけにあるわけではないのでしょう?検証されていない微妙な記述やそれを模した一見正しそうな悪意ある編集に対応できなくなるのは困ります。--ちぇす 2006年12月24日 (日) 02:55 (UTC)
どうもお久しぶりです。クールダウンのためにしばらく時間を置いてからこちらの議論に戻ってまいりましたが、とりあえず私の立ち位置については、以前とあまり変わっておらずにほぼ一貫しております。つまり現在の方針の表記に問題がある、という意見も変わってはおりません。上でも記してますように、私は「検証可能性を満たすこと」という目的自体を重視しており、「出典を示す」「記述を除去する」というそれぞれの手段については、それぞれのケースで適切な、バランスよい形で使い分けることが重要であると考えています。これに対して、現在の方針は「記述を除去する」方に偏重していると考えていますので、それに対して抑制的な方向に動いています。今回は、特に実際に「記述の除去」を行い、そちら側にウェイトを置いているAlbumさんへの応対という側面があるので、そのカウンターパートとして、これまでの私の動きをより強めた方向に動いてますが、これがもし、逆側の意見に偏った側からの意見であれば(つまり「(出典がおそらくないだろう記述も含めて)将来的に出てくることを期待して長期間残しておくべきである」という意見が出れば)、私は今度はそちらを抑制する方向で動くでしょう。
実はここであまり個別事例に踏み込んだ話は避けようかと思っていたのですが、Albumさんの今回の事例を見て、私は「現在の記述には問題がある」という意見をより強めてます。今回のケースについては、Albumさん側に出典がある部分があるため、うまく相手側に打診しながら対処していたら、もしかしたら特に問題もなく、案外スムーズに解決できたんじゃないかな、と思っています。ところが現在の方針でいちばん目立つ「除去されても文句は言えないはず」という形からスタートさせてしまったので、行き違いを生んでしまったのではないだろうか、と。これがもし、上で私が述べているような、いくつかのケースごとのノウハウが集積されていたら、今後、このようなトラブルを減らすのに有用なのではないかと思ってます。
それから「ウィキペディア1.0」についてですが、以前ドイツ語版で配布されたCDの例などがありますし、また日本語版ではまだ正式なプランは出ていないはずですが、一部の有志が時折「安定版を作ろう」ということを口にするケースを何度となく目にしてきたので、つい使ってしまいました。また「日本語版独自の事情」ということについては、僕自身なんどか口にしたことがあったかと思いますが、この手の表現が、自分の意図を伝えるのに不都合がある点を見落としていましたので、ご指摘を受けて気付いた次第です。ありがたく受け止めるとともに、今後注意していきたいと思います。ただ(ご覧のように)もともとが、かなりの長文書きであることと、話を本題から逸らさないために、敢えて細かい解説を避けていることも結構ありますので、もし議論を進める上で共通知を形成しておくべきことだ、など気付かれたことがありましたら、今後もご指摘ご教示いただければ幸いです。--Y tambe 2006年12月24日 (日) 12:31 (UTC)
意図や事情はよくわかります。ただ今回のY tambe氏の発言は、それが既にWikipediaコミュニティの中でコンセンサスがとれた正規の方針であるような語調に受け取れるほど断定的、具体的だったため、くちばしを挟ませてもらいました。--ちぇす 2006年12月24日 (日) 15:11 (UTC)
少し本題から離れますが、見過ごせないので。「 「荒らし」の定義もすでに「基準に従わないこと」が要件の一つとなっており 」というのは、明らかに間違いです。Wikipedia:荒らしはそんなことを言っていません。 -- NiKe 2006年12月24日 (日) 01:06 (UTC)
Wikipedia:荒らし荒らし行為は、Wikipediaの方針を侵害しています。というところを私が見誤ったようです。ある編集を「荒らし」と呼ぶことには慎重であるべきなのですね。私が未熟でした。お詫び申し上げます。--Album 2006年12月27日 (水) 09:08 (UTC)

「検証可能性」の誤解(あるいは拡大解釈)について

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最近「検証可能性」について誤解(あるいは拡大解釈)している人が多く見受けられます。Wikipedia:検証可能性が言及しているのは、査読済みのものだけを載せている学術誌などの信頼できる情報源に頼らないと記述の真偽が判別できない記述(たとえば、物理学の理論や歴史学の学説)に限るのであって、信頼できる情報源に頼らずとも記述の真偽が容易に判別できるインターネットスラングのようなものは「検証可能性」の対象ではありません。インターネットスラングはある意味自己の内部だけで完結できる情報交換手段なので、そもそも査読制度自体が必要ありませんし、現に存在しません。全く性質の異なるものを強引に適用し、「検証可能性」を理由にしてインターネットスラングに関する記述を除去する行為はアンフェアであり、ウィキペディアンの行為としてふさわしくありません。--春野秋葉 2007年1月16日 (火) 08:44 (UTC)

「誤解」「拡大解釈」の具体例を挙げていただけませんか。 -- NiKe 2007年1月16日 (火) 08:53 (UTC)
そんなことはどこにも書かれていないようですが。どこに「インターネットスラングは検証可能性の対象ではない」と書かれているのでしょうか。--Tamago915 2007年1月16日 (火) 09:05 (UTC)
と言いますか、インターネットから自分で「スラング」を拾ってきて記載することは「独自の調査」という禁止行為です。--Album 2007年1月16日 (火) 09:11 (UTC)
ウェブサイトを作ったり本を自費出版したりした上で、自分がある分野の専門家だと主張することは誰にでもできます。そのため、自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。・・・本文より引用。一番適切な根拠として、これで良いですかね?--Album 2007年1月16日 (火) 09:25 (UTC)

ピザの文中のインターネットスラングの関する記述を、ノートでの合意がないのに削除しようとする人の意見のひとつに「検証可能性」がありました。さて、検証可能性が適用されるのは査読制度を必要とし、現に査読制度が存在する分野の記述に限るのは自明の理です。査読制度を必要としない(ゆえに査読制度が存在しない)分野の記述に検証可能性が適用されることはありません。なぜなら、もし査読制度を必要としない分野をも検証可能性の適用対象とするのであれば、その分野については一切書くことができないという不合理な結論になってしまうからです。ですから、査読制度を必要としない分野については「それが事実であること」が示されれば足りるのであって、第三者が合理的に事実だと判定できればそれでよいのです。--春野秋葉 2007年1月16日 (火) 09:37 (UTC) 一部修正 春野秋葉 2007年1月16日 (火) 09:38 (UTC)

その主張は的を外しています。検証可能性は査読が必須というわけではなく、「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです」(Wikipedia:検証可能性より引用)に従えばよいと考えます。「2典」が広く信頼されている発行元といえるかどうかは、結論が出ていないのではないでしょうか。--Tamago915 2007年1月16日 (火) 09:43 (UTC)
Wikipedia:ウィキペディアは何でないかの観点からも、問題ありですね。「事実だからといって何を書いても良いわけではありません。」・・・ですね。朝鮮人がインターネットで「チョン公」と呼ばれていても、あるいは「肥満」の人が「デブ」と呼ばれていることが明白でも、そんなことを百科事典に掲載しよう、掲載したい、という心根が問題です。--Album 2007年1月16日 (火) 10:02 (UTC)
素朴な疑問なんですが、本当にピザ関連の査読雑誌や研究書って無いんでしょうか。たとえば『パン科学会誌』といった雑誌も有るみたいですし(これには「食事に結びつくピザ」という論文などもある)、「検証可能性」を満たすためにはそういうものも一通り調べ、ピザに関する研究書もできるだけあたってみる必要が有るのではないでしょうか。(もしすでに調べられているのでしたら、無視してください)
ピザから離れると、検証可能な媒体はなるべく紙媒体などの変更が容易でないものでないと、信用性はかなり落ちるのではないかと感じます。ネット上の言説を証拠としても、時がたてば変更されていることは、Wikipedia自身がまさにそうであるように、ままあります。しかしたとえば紙媒体の本だと加筆増訂されても、その痕跡を追跡することは可能です。証拠能力という点で、ネット媒体を根拠とすることには疑問を感じざるを得ません。--210.132.218.90 2007年1月16日 (火) 10:23 (UTC)

2典は書籍として出版されていますね(宝島社ISBN 978-4796647540)。宝島社が「広く信頼されている発行元」と考えられるならば、2典(の書籍版)を典拠とできることになります。ちなみに、検証可能性を真面目に適用する(査読制度を必要とする分野しかWikipediaに掲載してはいけない)とテレビ番組やゲーム、インターネットサイトなどの記事はことごとく削除対象になります。「それらが存在するという事実」だけではだめで、「それらが存在する」ということを論文にしてどこかの査読を経なければならないのですから。たしか飛鳥配列が削除されたのもこの辺にあったのではなかったのでしょうか。また、チョン公という記事はありませんがチョンはありますし、侮蔑の記事内でひと通りの侮蔑語については語られています。それから、ピザに関する査読済みの論文が全くないとは思いませんが、その論文の中にインターネットスラングの「ピザ」の用法が書かれている可能性はおそらくないでしょうね。--春野秋葉 2007年1月16日 (火) 10:39 (UTC)

繰り返すようですが、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか「何を書いても良いわけではない」という観点からすれば、結局、不可ですね。ウィキペディアが「悪魔の辞典」(ビアス)からの引き写しだらけになることが支持されることはないでしょう。「2典からの引き写しを書けないなら保護だ!」というのは、いかがなものかと。ある事柄が単に「検証可能」だからと言って、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。 とも書いてありますね。--Album 2007年1月16日 (火) 11:12 (UTC)
そもそも、話しがあさっての方向に行っていて問題外です。もともと、出典が示されているインターネットスラングに対して「そんな出典は信用ならん」と主張したのであれば「出典の信頼性」の議論になるでしょう。今回はそれすらも提示されていない状態だから削除されただけのこと。出典があったのであれば、提示すれば良いだけのことであって、それ以上でも以下でもないでしょう。春野秋葉氏の問題提起は単なる論点のすりかえで話しになりません。--はま 2007年1月16日 (火) 11:18 (UTC)

ええと、やや一般化して、この方針の解釈としては、まず、ウィキペディアの項目はすべて検証可能性を満たさなければならず、その中でも学術的な分野については、特に査読誌などが必要となる、ということではないかと思います。通俗的な歴史物語などでは不十分だと思え、みたいな。

インターネットスラングについては、辞書的な定義ではなく、定義のリストではなく、語法案内でもないかたちで書くことが困難かもしれません。ピザのスラングとしての用法としては、平凡社の百科事典でも「バナナ」に俗語的用法、暗喩の対象として男性器を指すというような記述はないようです(百科事典の記述としては、フロイトやブルースの歌詞などを縦断して節を立てるというのは可能だとも思いますが)ので、ウィクショナリー向きではないかとも思います。

それはさておくとして、「インターネットスラングのようなもの」の中には、「サイズの制限がなく、リンクを含むことができ、よりタイムリー」な百科事典であるウィキペディアの項目としてふさわしいものもあるでしょうし、たとえば既存の百科事典の項目となっているものの中にも、査読誌に掲載される論文がほぼ見つからないものもあります。いずれにしても、ウィキペディアの項目である以上、「検証可能性」の対象であり、事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源に基くことが困難であれば、信頼性に乏しい情報源にしたがって出典を記し、それを積み重ねていくことで事実確認と正確さを確保する努力をするということになるのではないかと思います。もう一つ、独自研究をクリアするという困難もありますが。GARNET CROWは、参考になるのではないでしょうか。--Ks aka 98 2007年1月16日 (火) 11:41 (UTC)

はまさんへ。「出典がなければノートでの議論なしに削除してよい」とお考えであれば、それは誤解です。それが許されるのなら、ウィキペディアのほとんどの記事に対して厳密な出典が示されているわけではありませんから、ほとんどの記事は「出典がない」ことを根拠に好き勝手に除去されることになり、結果的に荒らしとなることを容認することになります。ウィキペディアのシステム上は「好き勝手に除去すること」を許していますが、「出来ること」と「やっても良い」ことは別です。記述を除去するときはまずノートで議論し、「除去すべきである」という結論が得られてから除去するのが大人のマナーというものであり、それがトラブルを未然に防ぐ手段なのです。--春野秋葉 2007年1月16日 (火) 11:48 (UTC)
どうにも曲解による誹謗がお好きな方ですね。「出典がなければノートでの議論なしに削除してよい」などとは考えておりません。今回の場合、現実のノートで既に問題提起がありましたね。「検証可能性」に記載されているように「情報を書き加えたいほうが、出典を示す義務を負う」とある通りで、提起から2年待っても出典一つ示されないような記載を擁護する方が不当です。削除に不満なら出典を示せばよい(で、貴方はそれを示したので話しは終わりですね)。
また「ウィキペディアのほとんどの記事に対して厳密な出典が示されているわけではありません」は、単に貴方の主観的判断であり、それを元に「結果的に荒らしとなることを容認する」なる極端な想像を振りかざされても、話しになりません。--はま 2007年1月16日 (火) 12:13 (UTC)

査読を受けた人がいないので仕方がないが、××ばっかり。

  1. (理想的状況)長い歴史やよく知られた研究分野では、研究者も多く学会誌もあり査読を受けた信頼できる文献がたくさんあって、これらを引用することで検証可能で中立的な記事が書ける
  2. (多くの研究)人の関心の集まる最新の研究では研究者自身しか知らない事も多く、内容自体の査読は困難、あるいは狭い関心分野のため査読などの機能を備えていない学会誌も多い。また歴史学の分野などでは学者に限らず、ジャーナリストや作家、他分野の学者が平気で大きな発言を行っているし、そうした成果も多い。査読などにこだわらず広く信頼性を判断しべきだ。
  3. (米国の事情)アメリカのWikipediaは新聞(NewYorkTimes)は信頼できる出典としており歴史的事実についてもここでの記述を引用している。日本ではあり得ない。その国や分野で異なることを理解すべきだ。
  4. (物事の記述)専門的研究が存在しない、ただの事物の記述(例えばある小さな会社の概要など)これらは新聞に書かれれば十分信頼できるとすべき。しかし日本のネット上の個人の記した情報は嘘が多い。一方会社や研究者の記したネット上の記事は出版物と同じ意味合いを持っている。ネットの情報でも誰がどのように出しているか判断すべきだ。
  5. (対立する情報)ある項目で対立する情報がある場合信頼性の高い情報を主として扱うべきだ。例えば学者の論文と新聞記事を対等に扱うべきではない。しかし後者もそれが存在する点では確かであろう。F86F 2007年4月22日 (日) 09:36 (UTC)

認ですが、「検証可能性」および「独自研究」ですが、社会科学的な分野などは定性的な(フィールドワーク的な)方法論が基本となる場合もあるのではないでしょうか?

以下、ネット右翼ノート / 履歴 / ログ / リンク元にも書きましたが、例えば、ある一人が2chに「俺は右翼で創造神の化身」と書いてもおそらく一笑に付されるだけですが、これがもし、2chの特定のスレッドにおいて「俺は右翼で創造神の化身」という書き込みで埋め尽くされていれば、それを記述することには一つの客観性を帯びてきます。

改めて言うことではありませんが、ネット右翼ノート / 履歴 / ログ / リンク元の投稿者は私も含め、1つや2つの書き込みを殊更取り上げている訳ではありません。「ある特定のマター(スレッド)においては、こういった反応を示すことが多い」と記述しているに過ぎません。そして、これらは全てネット上での出来事ですので誰でも観測可能な事象です。

「独自研究(を投稿しない)」という一般的な話を持ってして、「ネット右翼現象」の記述を否定したがる向きも多いですが、当たり前の一般論を殊更主張するのではなく、自然科学分野と取り組み方が異なる面があることを認識すべきかと考えます。そして、いわゆる「独自研究(を投稿しない)」というのは、例えば掲示板における1つや2つの書き込みを自分の都合で殊更取り上げないこと、また、検証できないことを記載しないことを指し示していることをきちんと理解すべきかと思います。

社会科学的な記事分野において、必要以上に「検証可能性」および「独自研究」拡大解釈を行う向きが多くていささか対応に苦慮しています。--提督 2007年4月30日 (月) 11:02 (UTC)

「検証可能性を厳密には満たさない記事」に対するテンプレートの提案

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Wikipedia:検証可能性を厳密な意味で満たしていない記事」に貼りつけるテンプレートを提案したいと思います。理由は、Wikipedia:検証可能性を厳密に適用し、「信頼できる情報源によって公表・出版している内容」だけを残すと、非常に多くの記事(少なく見積もっても数万記事単位)で「信頼できる情報源によって公表・出版されていない内容」の除去や、そのような記述のみで構成されている記事の削除が必要になると思われるからです。特に「インターネット上の文化」に関係する分野については「学術誌による査読審査」はおろか「出版物による言及」すらないものがの大部分です。なぜなら、インターネットは自己完結的なものであり、出版物による紹介がなくとも容易に情報を公開することが出来るからです。もちろんインターネット上の情報の内容をすべて信用するわけにはいきませんが、情報そのものが存在するかどうかについては疑う余地がないのが普通です。ところが、これらについて記事を作成するとなるとWikipedia:検証可能性が大きな障害となるのです。検証可能性は「情報そのものの存在」にも適用されるため、「出版物による言及」がない情報は、Wikipediaにおいてその存在についてすら記事として言及することが出来ない原則になっているのです。実際に検証可能性を理由として削除された記事もいくつか存在し、飛鳥配列Wikipedia:削除依頼/飛鳥配列も参照)などは私の判断では非常に有用な記事であったにもかかわらず削除されています。

このような問題に対し、現在のWikipedia日本語版では記事の大量除去・削除を避けるために検証可能性について「少し緩めの解釈」をすることによって記事を救済しているようですが、この「少し緩めの解釈」には根拠がないため恣意的に扱われることがあり、どの分野とは申しませんがある特定の分野に関する記事を排除するという意図を持って「少し緩めの解釈」を適用せずに記事が削除された例もいくつかあるのです。また、この「少し緩めの解釈」は根拠がないため、いつの間にか撤回され、それによって記事の大量除去・削除が起こるかも知れない危険性をはらんでいます。普通なら「少し緩めの解釈」を公式方針化して解決を図るところですが、公式方針であるWikipedia:検証可能性「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」となっており、検証可能性を覆すことになる「少し緩めの解釈」を公式方針化することが出来ないのです。

そこで私が提案するのは、「少し緩めの解釈」を公式方針化せず、なおかつ「少し緩めの解釈」の恣意的な適用除外による記事削除を避けるため、テンプレートを貼りつけることによって「検証可能性を厳密には満たさない記事」を明示し、なおかつそのテンプレートが張られた記事については検証可能性について「少し緩めの解釈」を適用し、その記事の存在を許すという合意を作ってその記事を救済しようというものです。まずそのようなテンプレート自体の存在について議論が必要であると考えましたのでここではテンプレートの文面等を示しませんでしたが、ぜひとも皆さんの意見をお聞かせ願えないかと思います。--春野秋葉 2007年2月4日 (日) 14:08 (UTC)

うーん、何か正しく理解されてないように見えます。「厳密には」だろうがなんだろうが、将来的な改善を目的とせずに(つまり警告や改善依頼の意味でない場合)「検証可能性を満たさない」ということを標榜するものですから、そのテンプレートを作ることこそが「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」にぴったり合致し、許容されるものではありません。
検証可能性については「緩めの解釈」が入り込む余地はありませんが、ここでは「信頼できる情報源を出典にせよ」ということが言及されているだけです。つまり「信頼できる情報源」に基づく、ということについて合意が得られるのであれば、検証可能性とは矛盾しません。なので、分野ごとの個別の事情に関しては、Wikipedia:信頼できる情報源についてそういう「少し緩めの解釈」を議論し、その結果として「検証可能性を満たす」ための出典である、という根拠にする。今はまだ、そういう実例を集めるという地道な作業を行うべき段階だろうと思います。--Y tambe 2007年2月4日 (日) 15:32 (UTC)
えーと、春野さんがなんとかしようとしている分野に限らず、ウィキペディアの方針を厳密に守るのは、そうとう難しいものも多いとは感じています。紙の百科事典(あるいは、キーワード集みたいなもの)だと、執筆者の名前の信頼性で担保させて書いちゃうみたいな項目、ていうのは、少なくないわけで。ただ、いちおうでも出典を示しておけば、検証可能性はそれなりに満たされるわけですし、削除となると、百科事典的ではないとか、項目として発達する可能性が低いとかいうことも含めて判断されていると思います。
で、方針のほうに手を出そうとすると、多くの記事が、いろんな方針を満たしていないけど、将来的に何とかなるかなとか、これを削除しちゃうとあれもこれもみたいなことで、削除なり編集除去なりを免れているということが浮き彫りになるだけだと思うんすよ。でね、査読論文誌がないような分野で、あまり百科事典的ではないと思われているような分野については、まず、適切な学会などがあれば論文として通用するような手法とクオリティで、記事を一つ書いてみるというのが、よいと思うのです。ばるぼらさんの仕事とか、ウィキペディアでは紙媒体ではあるけれど秀逸入りしたGARNET CROWとかは参考になると思います。実はこれすんげえ大変な要求ではあるんですが、ここまでなら出来る、というのを示すこと、また自分で実感すること、というのが必要なのでは、と。--Ks aka 98 2007年2月4日 (日) 19:04 (UTC)
私も現在の「検証可能性」が含む矛盾について疑問を持ち、悪意を持った者に恣意的に使われないよう再検証の必要があると感じていますので、春野秋葉氏が言わんとすることは解ります。ですが、本来あってはならない「少し緩めの解釈」を「黙認」することでWikipediaはここまで大きくなったので、それについて明文化することはできないと考えています。国道における法定速度のようなものですね。バールのようなもののように不可解な記事がノートでの議論の末、検証可能性さえ差し置いて将来性を理由に残されることだってあります。ただ、「検証可能性を厳密な意味で満たしていないテンプレート」の提案というのはいただけません。現実的に考えて、出典が定かでない項目は星の数ほどあり、それら一つ一つに対してこのテンプレートを貼り付けていくのは不可能です。上の「検証可能性の誤解(あるいは拡大解釈)について」の議論で納得のいく反応が得られなかったことに対する腹いせにしか見えません。現状、編集者が適宜必要と考えた時に「要出典」などのテンプレートを貼り付けていけば十分かと思います。R93 2007年2月8日 (木) 14:44 (UTC)

インデント戻します。あまりにも文章ごとに「要出典」ばかりで見づらい場合は「未検証」のテンプレートが良いと考えます。下記に貼ってみます。すでに運用中のものです。--Album 2007年2月9日 (金) 02:04 (UTC)

未検証:この記事や節の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。必要な議論をノートで行なってください。

都合により「未検証」のテンプレートをsubstさせていただきました。さて、私の意見はWikipedia‐ノート:独自の調査#ごく小さな少数派についてでも同時進行しておりましたが、そちらのほうにて私の結論を述べましたのでこれで私の主張は終わりにしたいと思います。私の主張するところも「未検証」のテンプレートで概ね代用できるとは思いますが、決定的な手段とはなりませんので、それについては近日中に私の利用者ページかそのサブページで述べたいと思います。--春野秋葉 2007年2月17日 (土) 16:49 (UTC)

英語版における独自の調査との統合と日本語版の今後について

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突然ですが、英語版では検証可能性と独自の調査を統合したAttributionという方針が、この2つの方針を置き換えることになったようです。3大方針が2大方針になったわけで、言語間リンクのリンク先なども含めて、日本語版でも対応を考えなければならいことのように思います。ちょうど日本語版では独自の調査の公式化が遅れていたこともあり、これを機会に方針整備が進むことも期待しています。独自の調査のノートで議論を始めていますので、ご関心のある向きには是非そちらにご参加いただければと存じます。よろしくお願いいたします。同内容の投稿を井戸端にもしたいと思いますので、マルチポストご容赦ください。 --Aotake 2007年2月24日 (土) 02:33 (UTC)

「テレビ番組の検証可能性」の追加提案

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組に分割されています。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:52 (UTC)

Attributionによる置き換えの提案

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先頃より話題にしています、英語版においてAttributionが検証可能性と独自の調査の方針を置き換えたことについてですが、日本語版では、ひとまず検証可能性の記事内容を、現在Wikipedia:Attributionにおいてある内容で置き換えるのがよいのではないかとおもいます。理由は、original researchを禁止する方針をはやく公式方針とすべきと思われる状況があり、英語版のAttributionに相当する方針を導入することでこの必要が満たされることと、Attributionにどのような訳語をあてるのかについての合意形成には時間がかかると思われるので、まずは「検証可能性」という記事名ででも、Attributionに相当する方針をリリースすることがよいのではないかと思うためです。このことについては、上にも誘導の案内をおいてある、Wikipedia‐ノート:独自の調査にて2月27日に提案し、特にはっきりとした反対は出ていないので、今からさらに1週間待って、反対がなければ、実行に移したいと思います(拙速であるということであれば、早めにコメントしてください。)なお、置き換えの手順としては、現在の「検証可能性」の記事を「検証可能性/旧方針」のサブページへ移動し、Attributionを検証可能性へ移動、独自の調査はhistoricalを貼る、というものを考えていますが、他に良案がありましたら、ご教示いただければ幸いです。--Aotake 2007年3月9日 (金) 12:33 (UTC)

こちらの関係(ガイドライン)に立ち入るのは初めてでありまして至らない点もあるかと存じますがよろしくお願いします。上記のAotakeさんの提案は、Attributionを検証可能性に移動するとのことですが、Attributionの訳語が「検証可能性」でよいとは考えられないのと、横滑り式の移動は初心者の方が困惑(ガイドライン系は初心者の方にも読んでいただくことを推奨していますし)するので、新規ページを設立したほうがよいのではないかという気がいたします。
以下は私見で直接関係ないかもしれませんが、「検証可能性」という不可解な日本語のために、解釈を巡って不毛な争いが起こってるケースが多いと感じます。そこで(過激ではありますが)、「検証可能性」のページを廃止する方向で探ってみるのではどうでしょうか。--Ich57 2007年3月9日 (金) 15:41 (UTC)

インデントを追加しました--Ich57 2007年3月9日 (金) 15:45 (UTC)

えーとどこに書けばいいのかな。とりあえずここにしよう。
現在作成中の文書は「attributable、すなわち…」と英語が入っていますので、これを「典拠主義、すなわち…」(「典拠主義」は一例です) というふうに適切な日本語にあらためた上でなら、現行の検証可能性を置き換えることに賛成します (項目名も同様)。そうでない間は反対します。基本方針の呼称が日本語になっていないのはまずいとおもうので。
あと、関連するテンプレート ({{要出典}}、{{独自研究}} など) は運用を継続するという理解でよいのでしょうか。--Hatukanezumi 2007年3月10日 (土) 00:09 (UTC)
Ich57さん、Hatukanezumiさん、早速のご意見、ありがとうございます!こちらこそよろしくお願いいたします。やはりAttributionをきちんと日本語に置き換えないといけないということですね。「attributable」の語を除くことは、私が英語版からコピーした原文との対応をわかりやすくしようとおもって足したものでもありますし、すぐにでも取り去ることが出来ますが、Attributionの内容を「検証可能性」という名前でリリースするのはよくない、という点については、そうなるとやはりAttributionに付ける名前を議論しないといけないですね。いちおう議論は始まっているのですが、「独自の調査」で延々ともめたのを眺めていると、すぐに決まることについてはちょっと悲観的なのです。とりあえず、あちらこちらに議論が拡散してしまいますが、それについては、やはりAttributionのノートでやるのがいいのかな…
ちなみに、関連するテンプレートについては、リンク先の変更が必要ですが、基本的にはそのまま継続することになると思います。--Aotake 2007年3月10日 (土) 01:22 (UTC)
あちこちでお知らせしていますが、Attributionの方針名としての訳語についての意見投票を行っています。4月4日00:00 (UTC)までです。ご協力お願いします。--Aotake 2007年3月28日 (水) 01:52 (UTC)
この記事は、ウィキペディアにとっては軽い衝撃です。ウィキペディア英語版ではその影響があるのか無いのか、要は、verifiability を軽んじて来たその管理体制の甘さが招いた事件とも云えなくもありません。米国メディアでは珍しくない手法のようですが、古いモノに新しい名前を付けて注意喚起する、という手法で登場したのが attribution ということではないのかな?と勝手に思っていますが、要するに、出典をしっかり明記しましょう、ということですよね。日本語版においては、verifiability の和訳の登場がまだ新しいので、見渡すところ verifiability 自体が根付いているとは云えません。その意味では、verifiability が attribution に統合されてもインパクトは大きくないのかも知れません。日本語ウィキペディアの場合は、記事数を増やすのが第一義であった時期もあるのでしょうか。いずれにせよ、verifiability 同様、徹底した管理なくして attribution を根付かせるのは難しいでしょう。今、ウィキペディアは、形じゃなくて実が問われている?!--一般人 2007年3月31日 (土) 20:17 (UTC)

英語版でのAttributionが草案に差し戻されたこともあり、この提案については完全撤回いたします。お騒がせしてどうもすみません。なお、同時にNORの廃案提案も撤回します。もともとNORの趣旨を含む方針の公式化をしたいというのが根本にあることでもあり、一旦、NORの公式化へ照準を戻したいと思いますので、御協力よろしくお願いいたします。--Aotake 2007年4月17日 (火) 05:39 (UTC)

検証可能性を満たしてはいるが、真偽が疑わしい場合について

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Wikipediaでは、ある事象が真であるか否かより、検証可能であるか否かが重視されています。しかしながら、検証可能性を満たしていて、実際に検証してみた結果偽であった場合についての対処法について十分に方針が示されていないように感じます。例えばある公的機関が「1+1=3」であると述べていた場合、放置しておく事がWikipediaとして推奨すべきことなのでしょうか?方針が示されているのに私が見過ごしているだけであったならば、まことに申し訳ありませんが。Fovman 2007年3月22日 (木) 13:30 (UTC)

原則としては、「○○○は『1+1=3』と述べている<ref>出典: △△△</ref>。」と書くより仕方がないことかと思います。偽だ、と述べている別の出典があれば、「○○○は『1+1=3』と述べている<ref>出典: △△△</ref>が、●●●によって否定された<ref>出典: ▲▲▲</ref>。」などと書けます。それを越えたご編集であれば、一度ノートでご提案をされるのがよいかと思います。一般論としてはこんなところでしょう。--スのG 2007年3月22日 (木) 13:59 (UTC)
もしも『否定するソースはちょっと見当たらないが、明らかにおかしいと言えるし、出典があるからといってこんな無茶な記述はまずいだろう』ということでしたら、ノートで他のユーザと合意を形成するくらいしか手は無いと思います(もしノートで誰も同意してくれなかったら、その時は諦めるべきでしょう)。 -- NiKe 2007年3月22日 (木) 14:16 (UTC)
というか、そもそも、「実際に検証してみた結果」というのが「自分で検証してみた結果」という意味であれば、そういう作業は独自の調査ですから、Wikipediaでは禁止されていると思います。他の信頼に足る情報源によって検証してみたら誤りと分かったということなら、その「他の信頼にたる情報源」に基づいて記事を書けばよいでしょう。--Dwy 2007年3月22日 (木) 15:09 (UTC)

提案 2007年3月28日 (水) 00:49

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『例外』の節を設けたうえで、

個別の会話用名前空間における合意事項は、その拘束力において、公式な方針に優越します。したがって、個別の会話用名前空間における合意事項は、その拘束力において、本方針に優越します。

以上の一文を加えることを提案致します。

つまり平たく述べますと、本方針(検証可能性)を満たさない記載であっても、その記事に附するノートページでそれを許容するとの旨の合意が成されれば、本プロジェクトの名においてこれを一律に許容すべきとの意味です。

加えて、この提案に対して異論を呈される方は、同時に、次の一文の記載に対する意見を御提示下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

個別の会話用名前空間における合意事項は、まず公式な方針に従うものでなければなりません。本方針は公式な方針です。したがって、本方針に違反する全ての合意事項は、合意事項としての拘束力を一切持ちません。

なお、この提案の内容については、実行済みの前例が御座いますので、参考としての提示を望まれるのであれば、即座にこれを提示致します。 - 辻斬 2007年3月28日 (水) 01:00 (UTC)

現時点では必要と思えません。こういったことはケース・バイ・ケースであり、そう簡単に一般化できないでしょう。かなり注意深く文面を考えなければならない。そして、個々の事案については、「Ignore All Rules」で事足りてしまいますから。 -- NiKe 2007年3月28日 (水) 01:09 (UTC)
なるほど。では、公式な方針の頁において、『本方針は、場合によっては、無視することも許されます。』との一文の記載を提起したいと考えますが、御賛同意見と受け取って宜しいでしょうか。 - 辻斬 2007年3月28日 (水) 01:16 (UTC)
いいえ。賛同はしません。WP:IARが存在しているだけで十分であると考えます。それに、公式な方針を「無視」することはありませんし(具体的な適用について緩和されたり方法を変えたりすることはあっても、考え方を捨てることはあり得ない)。 -- NiKe 2007年3月28日 (水) 04:26 (UTC)
よくわかっていないのですが、
  1. 検証可能性の問題を論じているはずなのに、他の方針も含んだ「公式な方針」に優先するという表現になっているのでしょうか。公式な方針について論じるなら、Wikipedia:基本方針とガイドラインのノートで議論すべきではないでしょうか。
  2. 個別の合意が全体の方針に優先するというのはあってよいと思いますが、そういった合意は各記事やプロジェクトのノートで取られるべきです。利用者間の会話ページでの合意では足りないと思いますが、なぜ会話ページでの合意としているのでしょうか。それとも、「会話ページ」という表現で指しているものの認識に違いがあるでしょうか。
  3. 上でも論じられていますが、すでにWikipedia:ルールすべてを無視しなさいという方針(草案ですが)もあります。屋上屋を重ねるような表現が必要と考える理由は何でしょうか。
以上の疑問点があります。個人的には、何か記載を追加する必要性を感じませんが、上記の質問に回答いただければ検討する余地はあるかと思います。--Tamago915 2007年3月28日 (水) 04:28 (UTC)
私は上記提案の基本的に言いたいことには賛成いたします。理由はいくつかありますが、「特殊法は一般法に優先する」(これは法律の場合ですが)という趣旨のことは明示すべきであり、個別の合意を優先するべきであるからです。日本人の国民性もあるのかもしれませんが、Ignore all Rulesが存在しているにもかかわらず、「ルールを守れ」と執拗に責める編集者がいるのも事実ではないでしょうか。したがって、より強くこのことを明示するのには賛成します。ただし、Tamago915さんがおっしゃっていますが、「なぜ『検証可能性』にだけその特則を設けるのか」(=公式な方針としてもっと大々的に提案するべきではないのか)という疑問が残ります。あとTamago915さんが指摘なさっていますが、やはり記事の書き方の合意は各記事のノートでとるべきだと思います。文面を「各記事のノート」に置き換えるならば、この提案には賛成します。--Ich57 2007年3月28日 (水) 10:14 (UTC)
辻斬氏の提案は、ここの議論をふまえてのことです。当該合意の有効性を問題にしたいのではないでしょうか?--ろう(Law soma) 2007年3月30日 (金) 00:08 (UTC)
どこから説明すればいいのかわからなくなりましたが……。
Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいというのは、ルールやガイドラインは総論として作られているものであって、個別の記事を発展させるのにルールが邪魔になるのであれば、記事の発展のほうを優先させてよい、という趣旨のものだと理解しています。そういう意味で、太宰府の「俗説」として検証可能性を満たしていない記述を含めることは、一定の範囲内で認めるという方向は間違いではないと考えます。
Wikipedia:検証可能性ですが、査読された論文など、内容においても信頼が置ける情報源から情報を得るように、ということであると認識しています。九州王朝説については、歴史的には有力な説ではないため、論文なども少ない(存在しない?)ようですので、信頼できる情報源の身からの記述では記事が成立しない可能性もあるのでしょう。信頼できるかどうか議論の余地がある出典はありそうですが。
あとはまあ、なんですか、個別の記事における自分の主張を通すために、そのことを隠してメタレベルで合意を取り付けようという動きだったようで(その雰囲気は最初からありましたけど)、あまりまっとうなやり方ではないですね。自信があるなら、正攻法で提案すればいいのに、何か後ろ暗いところがあったみたいですね。--Tamago915 2007年3月30日 (金) 00:40 (UTC)
お前って相変わらずあれだなw しかも微妙に個人攻撃になってるぞヲイ。結論から言えばお前の反論ってのは、この提案者の計画に対して有利にしか働いてない。そこを踏まえて慎重にやれな。
追記しとくと、コメントとしてこの提案に賛成しときます。確か英語版で似たような議論が既にattributionで始まってると思ったが。そっちに任せんのも一考かと。59.128.68.162 2007年3月30日 (金) 06:44 (UTC)

(インデント戻します。)提案自体が間違っていると思います。例えがよくないのですが、憲法を越えるような法律は認められないのと同様に、公式方針を越えるローカル・ルールなどあり得ません。よって、この提案を論議するに値しないと考えます。--Kemonomichi 2007年3月30日 (金) 11:46 (UTC)

>Kemonomichi様

WP:IARをご覧ください。草案ですから、その内容に従う「義務」は存在しませんが、このルールはコミュニティの一定の評価を得ています(当該ページのノートをご覧ください)。確かに上位法は下位法に優先するのはおっしゃるとおりですが、特殊法が一般法に優先するという原理もまた存在します。公式方針を無に帰すのではなく、個々のケースに応じて柔軟に応じることを総意として明らかにしようという提案であり、「議論するに値しない」というのはあまりに言い過ぎではないでしょうか。--Ich57 2007年3月31日 (土) 00:30 (UTC)

このルールとはWikipedia:ルールすべてを無視しなさいのことであれば、これをご覧下さい。 昨年の末に正式化に反対を表明しております。--Kemonomichi 2007年3月31日 (土) 01:09 (UTC)
横から申し訳ありませんが、Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいに「特殊法が一般法に優先するという原理」が書かれているのでしょうか?確かに「(ケースバイケースで)そのルールを無視してください」とは書かれていますが、無視した結果を固定化しガイドライン等グローバルなルールでは変更できないようにすべきとは書かれていない(つまり優先できるわけではない)ようですが。「優先する」と言い切るようなルールを作成するのはWP:IARから逸脱する新ルールとなるのでは。
もし上述の解釈が間違っているのであれば、具体的に「優先する」とする箇所を示していただきたいと思います。--ちぇす 2007年3月31日 (土) 01:24 (UTC)
Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいは、まだ草案段階ですから、「逸脱する」ということは言えないのではないでしょうか。--Kemonomichi 2007年3月31日 (土) 01:46 (UTC)
「草案だから逸脱しているとは言えない」というのは意味が通りません。草案ならその現在の段階で逸脱しているかどうか内容で示していただかないと。というよりKemonomichi氏の立場から察するに、草案なので今後の完成しだいということならここでの議論の前提に含めてはいけない、ということでしょうかね。
私としてはWP:IARを活用しようとしているIch57氏のご意見が伺いたいところです。--ちぇす 2007年3月31日 (土) 03:48 (UTC)
Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいは、諸刃の剣のように思います。私が公式方針を越えるローカル・ルールは一般に認められないと言っても、あなた方はIARを運用すればルールを無視していいから、認められると言うでしょう。それなら、私もIARを運用してあなた方が言うルールは無視してよいと言うことになり、水掛け論に陥り、建設的論議になりません。
ところで、Ich57さん、ちぇすさん九州王朝説とはどんな説か知っていますか? --Kemonomichi 2007年3月31日 (土) 07:33 (UTC)
???私は「公式方針を越えるローカル・ルールは一般に認める」などとは言っていませんよ。WP:IARのどこにそのような事が書いてあるのか、と聞いている側ですから。インデントだってあなたの下ではなくIch57氏の下(あなたと平行)に書いているように、WP:IARを用いようとしているIch57氏に聞いているのです。--ちぇす 2007年3月31日 (土) 08:10 (UTC)
「特殊法は一般法に優先」は法律の原則として確立しているので引き合いに出してみました。確かに必ずしもIARと同値のものではないかもしれない気もいたします。またIARは、その歴史的経緯から解釈を多様に残したまま、ある意味で文学的・詩的な状態で放置されており、GLとして整備が必要なのは明らかです。
ignoreの主語は必ずしも「ユーザー個人」とは限りません。「記事を執筆するために共同作業しているユーザーの群」が「ルールの精神を尊重するため」に、ルールをignoreすることもあるのです。ルールの精神を尊重するために、ルールをignoreするというのもおかしな話ですが、このルールは欧米特有のjokeをはらんでいること(私は日本語訳として「ルールをすべて無視しなさい」を選んだのが悪いのであって、「例外に寛容に」と解すべきだと思っていますが)を考えれば、飛びぬけたことをいっている規則ではなく、「杓子定規にルールをあてはめるのではなく、ルールの精神にのっとって手段を選ぼう」というのが最もその考えに近いものと理解できます。(余談ですが、IARは「記事の執筆は大胆に」の内容と重複しているので、その内容は「記事の執筆は~」に統一したほうがよい、と私は思っています。)
以上より「手段はルールに従わずとも、精神はルールに従え」がIARの基本的な主張内容だというふうに思われます。
なお、この項での議論ですが、抽象的になりすぎており例の一つ二つもないので、互いに同じようなケースを想定しているのか不安になります。もちろん提案者の方に例を出していただくのがいちばんよいと思います。私の想定しているのは、「ソースはないが有益な内容」、(たとえば卵かけご飯あたりは有名です)を記述することを、ルールの杓子定規解釈によって阻止しようとする動きに抵抗するための提案ではないか、と。

「卵かけご飯」を大学で研究している人はあまりいないでしょうし、それを専門的にとりあげた論文があるわけでもありません。日本では当たり前すぎて問題にならないからです。しかし、Wikipediaは日本語版であって日本版ではありません。それに日本人だけであっても、卵かけご飯を知らない人たちは一定数は存在するはずです。「「卵かけご飯」を記述するのは参考文献がないから禁止する!」という主張によって、卵かけご飯を知らない世界中の人々(何十億人いることでしょう)や、卵かけご飯が消失した時代に暮らす未来の人々が、「卵かけご飯というものが21世紀の日本に存在する(した)」という事実を知る可能性を奪われます。このようなことを防ぐためにIARが存在するのではないでしょうか。

そうであっても、ここで提案するのは門違いで、IARでもっとそのようなことを強く明示するように提案すべきという主張をする人がいることは理解できます。提案者の方にも本当はそのようにしていただければ、と思います。
IARは英語版でも、日本語版でも「不要であり削除しよう」という提案がなされても(特に英語版では制定者自身が撤回しようとしたのですが)、結局コミュニティの積極的肯定によって存続しています。その意味で証拠を示すまでも無く、草案であっても多くの人に受け入れられている、と考えてよいのではないでしょうか。
投稿しようとしたら更新されたようなので追記しますが、九州王朝説というのは、邪馬台国(or邪馬壹國)に続く王朝が7cごろまで九州に存在した、というものでしたでしょうか。--Ich57 2007年3月31日 (土) 07:47 (UTC)
私はあなたの言っている内容そのものには同意します。がだからこそWP:IARを引き合いに出し、WP:IARの一部分を拡大解釈して抜き出したようなルール作り(ここではローカルルールが優先)には反対です。そこにはWP:IARの精神は存在しない。形骸化し、削除厨と自分の考えを押し込みたいだけの編集者との論争に用いられるだけでしょう。もちろんWP:IARにあるケースバイケースという考えが意図的に外されている第2の提案も論外です。--ちぇす 2007年3月31日 (土) 08:42 (UTC)
言われてみればこのローカルルール案はunfairです。恣意的であるとの謗りを免れ得ません。確かに「個々のケースが原則に優先する」のは日常生活においても実に当たり前のことです(そうでなければ明日から世界中の言語で不規則活用動詞の使用を停止するべきです)。IARも「充実した記事を書く」というWPの本来目的のためなら、手段として提示されているガイドラインが必ずしも適切とは限らないことに常に注意して、ひとつひとつの記事に最適な形式で記事をまとめていこう、という、ただそれだけのことです。英語のignoreは強い単語なので、見ただけで拒絶反応を示す人がいるのもわかります。でもこれはルールにがんじがらめになりがちな編集者に対する「よい記事を書くためには、原則や先例ばかりにとらわれずに、記事一つ一つについて、丁寧に手段を熟慮せよ」という戒めなのではないかと思います。
しかしここでルール化するというのは、それこそIARの精神を考えればおかしなことです。ここでルール化してしまえば、これを根拠として振り回して、記事一つ一つについて熟慮を怠らないとは限らないと誰が言えるでしょうか。
IARは内容的にも、形式的にもWikipedia随一の特殊なルールです。ですから提案者の方にはもし力を貸していただけるならば、IARの充実に力を貸して欲しいと考えます。そもそも現在は、提案者とコンタクトが取れない状況にありますが。--Ich57 2007年3月31日 (土) 10:18 (UTC)
いや、感心しました。私のように、「ルールを全て無視しなさい」という言葉をそのまま当てはめて議論を有利に導こうとするのと違い、IARについて、自分の言葉でこれだけ分かりやすく書けるとは驚きです。参りました。
この節の提案の発端は、九州王朝説での「合意」です。その「合意」を覆そうとしている。私に言わせれば、「訳の分からない提案をして、具体的にはどこをどうしたいのか分からない」と言うわけです。詳しくは大宰府九州王朝説のノートでの議論を見て下さい。
Ich57さん、ちぇすさん、ここで議論される皆さん、「議論に値しない」といったのは間違いでした。ご迷惑をかけて、済みませんでした。--Kemonomichi 2007年3月31日 (土) 09:18 (UTC)
いえいえ、事実議論がなされて一定の成果があったのですから、十分に価値があったということです。でここに来て意見を変えるようで難ですが、ちぇすさんのおっしゃるように、このルールの提案者はIARについて十分に理解しているのかどうかが疑問です。IARの拡張を目指すほうが、同じような目的を、より整合的な形で実現できるのではないかという気がしてまいりました。
私自身は、「IARの精神」が広く理解されるように、また論理的なパラドックスになっている同ルールをどうしたら運用できるかを考えていきたいと思っています。しかしKemonomichiさんがこのように問題提起をしてくださらなければ、この問題に気づくことも無かったでしょう。おつきあいいただきありがとうございます。また何かありましたらよろしくお願いいたします。--Ich57 2007年3月31日 (土) 10:01 (UTC)

こういう場合はどうするんですか?

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皆様の彼の気持ちになってお考え下さい。

例えば、ある者が病気を患ってしまい、病院に入院してしまった、とします。そして彼が入院後、医者は彼の病気が重度な病気だった為、その入院した人の家族・友人等に『もう駄目かもしれない。運が悪かったら死に至る場合も…。』と伝えたとします。そうした場合、その家族や友人達は医者に『もう遅い』と聞かされている訳ですから、殆どの人が『彼はもう駄目だ。多分死ぬだろう』と思い込んでしまいました。しかし、彼は運よくなんと奇跡的に病気を克服し、退院します。

しかし、その地域は『幽霊の存在』を“信じていた地域”だと言う事もあり、彼の家族や友人達は『彼はもう死んだんだ。彼は幽霊なんだ!』と思い込みを始めてしまいます。しかし、彼は奇跡的に生還し事実上生きている訳ですから、家族や友人に『何を言っているだ。私はもう病気を克服したんだ。死んでなんかいない。』と発言しました。しかし、そんな事など到底信じてもらえず、ある人が彼に対して『じゃあ生きていると言う証拠を見せろ!』と言いました。

その場合、自分が「生きている」と発言していること自体や「病院のカルテ等」が証拠なのですが、その地域は生憎先程も言った通り『幽霊の存在を信じている』ため、その地域に限ってはそんな事は証拠になりません。その為、不運な事が重なって結局彼は、事実上生きているのにもかかわらず『幽霊』と決め付けられてしまいました。

これは日本語版ウィキペディアにも言える事です。この場合、『検証性が無い事柄』が『彼の生存について』と『彼は幽霊なのかそれとも違うのか』です。彼は事実上生きていて、他の地域に行けば彼は生きている、と皆が言ってくれます

しかし、この地域では彼に様々な事が重なって『彼は生きているのにもかかわらず』『生きていないと言う事が事実に』なってしまっているのです。この話は非常にウィキペディアの問題点と似ています。結局彼も『実際には生きている』のですが、『検証可能性がその地域だけ無かった』為に、『本当は幽霊でもなく、ちゃんと生きている人間』が、結局は『死んだ人』に成ってしまったのですから…。

先程も言ったようにこの様な事は日本語版ウィキペディアの問題でもあります。情報量が増えるに従ってこの様な矛盾的な問題も増えて来ます。

お願いですからこの様な矛盾な問題を無くして下さい。--MasutazuQ 2007年4月6日 (金) 12:24 (UTC)

もしかしたら、実はその人は死んでいて、自分で「生きている」と思い込んでいる自縛霊かもしれませんね(笑)。冗談はともかく、「信頼おける情報源」に「生きている」とあれば生きているし、そうでなければ死んだも同然、というのがウィキペディアですね。「真実よりも検証可能なことを」という、一見受け入れがたいルールがありますが、検証可能性本文の「X理論」の例えをよく読んでいただければ納得がいくのではないでしょうか?--Album 2007年4月6日 (金) 12:59 (UTC)

(ここに書いた発言は井戸端に移動します) --Hatukanezumi 2007年4月6日 (金) 13:14 (UTC) リンク修正 --Hatukanezumi 2007年5月20日 (日) 10:59 (UTC)

あまりに不適切な例で内容自体がわからなかったぜ。F86F 2007年4月22日 (日) 09:43 (UTC)

何をもって公開されたとするのか

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/何をもって公開されたとするのかに分割しました。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:51 (UTC)

不存在の証明

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不存在の証明というのはなかなか難しいと一般に言われています。となると検証可能性の観点からWikipediaではなかなか「○○は存在しない」とかけないことになってしまいます。そこで「○○の存在は確認されていない」と書くのはどうでしょうか?出典無しで。よろしくお願いいたします。--Phew 2007年4月30日 (月) 18:15 (UTC)

一般論として採用することはできないことです。あくまで個別に考慮する必要があります。
原則として『○○は存在しない』と書かれた『信頼できる情報源』がない場合には、それは執筆者自身の判断(広義の「意見」の一種)であり、独自研究に該当する可能性があります。理想から言うと、まずは「○○は存在しない」と書かれた情報源を見つけることです。それができれば(そして、それが『信頼できる情報源』の条件を満たすことを周囲に納得させることができれば)、執筆者自身が不存在をウィキペディア上で「証明」する必要はありません(というより、逆に「ウィキペディア上で、不存在を『証明』しよう」ということ自体が独自研究に該当しますし)
そのような情報源が探せなかった場合に「○○の存在は確認されていない」というような書き方ができるかどうかについても、重要なのはその記述が「信頼できる情報源」に基づくかどうかです。仮に、その分野において『信頼できる情報源』と認められているもののすべてにおいて、それが「存在する」ことを認める記述が書かれていない場合には、「存在は確認されていない」と書くこともできるでしょう(ただし文章表現は、状況に応じて厳密に推敲する必要があります)。そのような場合、通常の<ref>などを用いて出典を明記することはできませんが、脚注の形で(ただしrefを脚注として用いることには賛否両論があります)またはその記事のノートで、「存在すると書かれていないことを確認した」情報源を列記して、その部分の記述が「典拠に基づく」ものであることを主張することが望ましいでしょう。この作業が唯一の正解というわけではありませんし、それが必須であると主張することはできませんが、仮にその部分についての出典を求められたときの対応として、あるいは事前にそのような議論が生じることを抑制するための配慮としては、有効なやり方だと考えます。いずれにせよ、ケースバイケースの判断を要します。--Y tambe 2007年5月1日 (火) 01:11 (UTC)
お答え、どうもありがとうございます。加筆依頼に「○○の存在について加筆をお願いいたします」とかき、加筆依頼テンプレートを該当記事に貼れば、「○○の存在は確認されていない」と出典・情報源無しで書いた場合、文句をつけられても大丈夫な様に思いますがいかがでしょう?あるいは加筆依頼にだしてからある期間たったらもっと大丈夫ではないかと思うのですが。--Phew 2007年5月1日 (火) 01:35 (UTC)
それでは「ウィキペディア上で、不存在を『証明』しよう」としたことになるのでは? -- NiKe 2007年5月1日 (火) 01:46 (UTC)
コメントありがとうございます。証明することは出来ないので、「存在は確認されていない」という表現にとどめたということでどうでしょうか?「不存在の証明」のは困難ということで特例として方針化してもよいかなと思ってるのですが。--Phew 2007年5月1日 (火) 02:07 (UTC)
信頼できる情報源がない場合、「○○の存在は確認されていない」は、百科事典にふさわしくないあいまいな表現だと考えます。「確認した確認していないと結論付けている」のが「誰か」を明記すべきです。こうした記述は、「意見の記述」に当たると私は考えています(意見の記述を許容するかどうかも議論の対象ですが)。たとえば、「ツチノコの存在は確認されていない」という場合、これが専門家の一致した見解ならば信頼できる情報源を示すべき(示せるはず)です。そうでないならば「確認されている確認していない」というのが「誰の」意見なのかを明記し、「UMAの研究者として知られる○○は、ツチノコの存在は確認できないとしている」のようにすべきだと考えます。どちらもできない場合は、依頼をもらっても加筆しないべきでは。j8takagi 2007年5月1日 (火) 02:50 (UTC)、2007年5月1日 (火) 03:48 (UTC)修正
なるほど。ご意見承りました。--Phew 2007年5月1日 (火) 03:56 (UTC)

だいぶ結論が出ているようなので蛇足かもしれませんが、2点指摘したいと思います。間違ってたら、ご指摘ください。

  • Wikipediaでは「不存在の証明」は必ずしも難しくありません。「○○は存在しない」と書いてある信頼に足るソースがあればよいだけです。そのソースが通説であればそのまま「○○は存在しない」と書くことになり、通説ではないが有力説であるということなら「Aによれば、○○は存在しない」と書くことになりますが、いずれにしても必要なのは信頼に足るソースだけです。逆に、信頼に足るソースが無ければ、何も書いてはいけません。それが検証可能性のルールです。
  • 「○○の存在」を確認したソースがあるかどうかをWikipediaの執筆者自らが調査し、その結果として「○○の存在は確認されていない」と書くのは独自の研究に当たります。「○○の存在は確認されていない」と書いてある信頼に足るソースがあるなら、「○○の存在は確認されていない」と書いてよいことは言うまでもありません。

--Dwy 2007年5月1日 (火) 06:27 (UTC)

テンプレートについて

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テンプレート関連のお知らせです。

  • すでにお気づきのかたも多いかと思いますが、コンパクトサイズの Template:出典の明記STemplate:未検証S が作られています。ほか、独自研究について Template:独自研究S もあります。
  • Template‐ノート:未検証 にて、説明文の改訂の提案(検証のための議論をテンプレート貼付にあたり必須とするかどうか、など)があります。また、そのノートから派生した記事中ピンポイント型テンプレート Template:要検証 の新設の提案が試作品のノートにてなされております。

これら改訂や新設の妥当性についてご意見をお持ちのかたはよろしくお願いします。--スのG 2007年5月3日 (木) 12:20 (UTC)

ウィキペディアの記事は「二次情報源」によること。(一次情報で記述しない)

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Wikipedia:信頼できる情報源に「一般に、ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。」とあるとおりです。たとえば、『ジャンプの最新号(一次情報)が出たからといって、その最新号からストーリーの概略などを書いてはならない。それは禁止行為である独自の調査です。』ということです。書くならば、後日、その作品の評論書(二次情報)などが出た場合、その書を出典として書け、ということですね。「検証可能性」の項目に、この旨、記述したいと思います。--Album 2007年5月24日 (木) 13:37 (UTC)

「一次情報源」の定義をもう一度確認して下さい。その論理展開だと学術原著論文(研究者が自ら実験して得たデータを、自分で報告したもの)を出典として別の人が書いた記述も、政府刊行の統計などを出典とした記述も、「一次情報源に基づくもの」なので軒並みアウトになりますよ。もちろん、そういったものを総括した総説や教科書の方が、ある程度枯れた情報の寄せ集めとなりますし、「より望ましい」二次情報源にはなりますが、すべての分野にそういったものがあるわけではありません。一次情報源を「禁止」するというのは、そういった分野に大きな影響を与えるものなんです。だから、あくまで二次情報源を使うことは『推奨』レベルなんです。(ここらへんは、私よりもよりマイナーな学術分野関連で活躍されてる方、例えば利用者:ウミユスリカさんあたりならば、もっと切実な問題として捉えるだろうな、と思ってみたり)--Y tambe 2007年5月24日 (木) 14:00 (UTC)
統計などは、すでに二次情報です。たとえば産婦人科で「今年は男の子が多いと私は観察したのです。私は見た!」が一次情報でこれは記述不可。それをまとめて出版して誰もが満足に検証できる段階(統計)で二次情報でしょう。言葉を変えれば、研究対象物をウィキペディア編集者がじかに観察したものが一次(×ジャンプを入手して俺は見た!×)、ジャンプ(対象物)に対して論評や統計が出た時点でそれらが二次情報であると言えましょう。--Album 2007年5月24日 (木) 16:58 (UTC)
それは私も困ります。化学ぐらいの分野でも、原著論文(=一次情報)を否定されては書けることが激減します(たとえば化学物質の物性データがほとんどアウトになります)。分野を亘る文書ですので是非ご再考をお願いします。--スのG 2007年5月24日 (木) 17:11 (UTC)
スのGさんに言われると、もう少し考えた方がいいのかな、と反省しますが、一応本文に、「ウィキペディアの記事は、事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源に基いて書くべきです。学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。」とありますので、この「なるべく」をどう解釈するか、ですね。考えてみます。(本日これまで)--Album 2007年5月24日 (木) 17:20 (UTC)
ええと。もしかして「一次資料」と「二次資料」の話をしているのではないですか。たとえば生物の標本や、それについての記載は一次資料です。だから、「Otopteryx volitans の耳は羽ばたいて飛ぶのに適している。標本を見ればわかる」と書くのはまずいです。が、その生物について論じた書物の記述にしたがって同じことを書き、出典としてその書籍を示すのなら、かまわないのではないでしょうか。
「一次情報」と言った場合、どの情報でも起点になりうるので、どの段階の情報にもそれに対する「二次情報」がありうるようにおもいます。 --Hatukanezumi 2007年5月24日 (木) 17:36 (UTC)
おおむねスのGさんに賛成です。そして翻訳段階かどこかでHatukanezumiさんが指摘する間違いがあったのではないかと思います。さらに一次資料の使い方ということについてなにか誤解があるように思います。一次資料を否定されてしまうと、たとえばイマヌエル・カントの記事でカントは「○○」といったということをバイエルン学士院版の全集やあるいは理想社版や岩波版全集から引用して述べるのは駄目だが、日本語の解説本から引用するのはいい、ということにもなりかねません。もちろんその場合に、その箇所の解釈についてさらに踏み込んだことを述べる際は、投稿者が自説をかくよりも、信頼できる二次資料を紹介するというのがウィキペディアらしい行き方だとは思いますが。そういうレベルの違う話が、なにかひとまとめにされている印象を受けます。--
そのへんは方針であるWikipedia:独自研究は載せないも確認してください。一次資料となる情報を書くことは禁じられています。一次資料を基に書くことは可能です。ただ、一次資料だけに基づいて書くのは、例外として限定的に認められているに留まりますし、可能な限り二次資料に基づいて書くことが望まれます。
Otopteryx volitansの骨格図を見て、耳骨は胴体に比べてかなり大きな箆状で、蝶番様の関節で頭骨と連結する(+出典)なら、まあ、大丈夫。これを、「飛ぶのに適している」と書くなら、そのように書かれている出典が求められる。
ジャンプ自体を見て、ストーリーの概略を書くことは独自の研究にはならない。「話題になった」とか、「問題作」とかは書けない。というような線引きになっていると認識しております。
上で既に指摘があったと思うのですが、発売日直前に回収になった場合などを除けば、発売日前に購入したものであっても、それを情報源とすること自体を、検証可能性や独自研究を理由に問題とするのは難しいと思います。--Ks aka 98 2007年5月24日 (木) 18:16 (UTC)

一次資料の使用がどの程度制限されるのか(されないのか)については、複数の箇所に記載があり、それぞれ表現の強弱が異なるので、結構分かりにくくなっているように思います。私としては、英語版のNORに書いてある“Any interpretation of primary source material requires a secondary source.”「一次資料の解釈(を書く)には、二次資料が必要です。」あたりが、妥当な線ではないかと思います。

でも、漫画のあらすじを書く人には声を大にして言いたい。「解釈を交えずにあらすじをそのまま書くというのは、口で言うほど簡単ではありません。あしたのジョーのラストシーンの解釈が人によって大きく別れるのは良く知られた例ですが、それほど極端ではなくても、同じ作品でも見る人によって理解に微妙な差があるのはごく普通のことです。小学校の宿題で読書感想文を書いたときのことを思い出してください。ある作品のストーリーの概略を書くことと、その作品の感想を書くことは、ひょっとしたら同じことなのかもしれません(Dwyはそうでした)。そしてWikipediaであなたの感想を書くことは「独自の研究」として禁止されています。そうならないようにするには十分注意が必要です。できることなら、おやめになる方がよろしいかと思います。」(こんなのじゃ納得してくれないだろうなぁ(TT))--Dwy 2007年5月24日 (木) 19:08 (UTC)

Y_tambe・スのG両氏がおっしゃっていますが、原著論文に基づいて執筆する事が多い分野から見れば、この提案は致命的なものです。感情論を加えるなら、致命的な提案をいきなり公式な方針である検証可能性に「記述したいと思います。」と断言される事自体たまったものではないです(実際には議論の猶予があるにせよ)。

二次(以上の)資料の参照が推奨されるのは、資料の次数が上がる際に情報の取捨選択、あるいは査読に相当するプロセスを経ており、信頼性が高まるという推定に基づくのだと思います。重要なのは情報源の次数ではなく信頼性だが、それを定量的に表現するのは難しい。信頼できる情報源では、その判断基準の一つとして primary source、secondary source に言及していると考えます。逆に言えば、情報の伝達次数ごときで信頼性を評価できるなら、信頼できる情報源はあれほど難解で冗長な文書にはならないでしょう。

その背景を無視して、情報源を本来重視されるべき要素とは別の部分で足切りするという宣言はいかにも拙速です。検証可能性は公式な方針であり、広範な影響が容易に予想できるものです。マンガ記事の速報を封じたいなら、もっと下流の方針、例えばプロジェクトのガイドラインの策定と遵守から着手すべきでしょう。大原則を改変せんとする方には常に慎重であって欲しいと思います。- NEON 2007年5月25日 (金) 03:44 (UTC)

基本的な質問をさせてください。「原著論文」は常に一次資料となるのでしょうか?私は、今まで、一次資料・二次資料の区別は論じるテーマとの関係で決まる相対的なものだと理解していました。つまり、「雇用・利子および貨幣の一般理論」という資料は、マクロ経済を語る際には二次資料だが、雇用・利子および貨幣の一般理論自身の記事を書くときは一次資料だということです。上の漫画の例でも書きましたが、「○○の内容は、要約するとこういうことだ」と書くときに自分の解釈・評価を全くいれずに書くことは事実上不可能に近いと思います。ガチガチのルールにしなくても良いかもしれませんが、「二次資料による解釈・評価を待って書きなさい」が「致命的」だとは思いません。(「一次資料」「二次資料」の解釈が間違っているなら私の理論は崩壊ですが・・・)--Dwy 2007年5月25日 (金) 04:39 (UTC)
私は原著論文は一次資料であると理解しています。出していただいた例の場合、「雇用・利子および貨幣の一般理論」はマクロ経済を語る際には一次資料、「雇用・利子および貨幣の一般理論」自身の記事を書く際には対象物そのものであって資料では無いと思います。0次資料とでも言うべきでしょうか。
具体的に書くと、「雇用・利子および貨幣の一般理論」がその中で論述対象とした事象、つまり雇用利子貨幣などに対しては一次資料たり得ますが、この本の出版形態、使用言語、ページ数、内容の構成や概要といった情報に対しての資料とはなりません。この本からこれらの情報を得て記述する事は独自の研究であると考えます。この場合はモノが書籍ですので、ページ数を数える事くらいは「検証可能性を満たす独自の研究」だと思います。
同様に、ジャンプを読んでその中の漫画の記事を起こす事は独自の研究(一次資料の作成)に該当するでしょう。対象物自体が書籍の形態をとっている点が混乱の元なのでしょうが、動物園で動物を見て、その特徴をつらつら書く事と何ら変わりはありません。開園前に侵入しようがしまいがどうでも良いのです。漫画の書評が出てようやくそれが一次資料です。
という訳で、私から見れば「ジャンプの最新号(一次情報)」が既に誤りです。他の方々が実際にどう判断されているのかは不明ですけれども。いずれにせよ、この辺の定義や解釈論を差し置いて「一次情報禁止」を主張するのは短絡だと思います。- NEON 2007年5月25日 (金) 05:56 (UTC)
なるほど、「一次資料」の定義にもいろいろあるのですね。。。であれば、言葉の選び方が確かに間違っていたかもしれません。私が言いたいことを例えると、「頭だけ白いカラス」を編集者が見たからといって、「カラスの頭は白い」と書くな、ということです。同じように「ジャンプ最新号のストーリーを見た」からといって、その概略を編集者が自分でまとめて書くな、ということです。「生の対象物を編集者が観察して書くな」ということを言いたいのです。(その意味に限定すれば、ここでは「原著論文」は二次と考えたい(専門的には間違った解釈でも))。週刊少年ジャンプは出版物ですから話がややこしいのですが、この場合、「頭の白いカラス」と同様、「生の観察対象物」だと考えています。「映画を見てきたからといって、その概略を編集者がまとめて書くな」、「小説を読んだからといって、編集者が勝手にまとめるな」ということです。極めてシンプルな話だと思いますが、いかがでしょうか?一次、二次の用語の解釈で議論になってしまうならば、その言葉を使わなくともかまわないのですが。。。たとえば、「編集者は、観察対象物に関して、自分の観察報告を書いてはいけません。」などの表現はどうでしょうか?--Album 2007年5月25日 (金) 14:27 (UTC)
それは正にWikipedia:独自研究は載せないが担保しているのではないでしょうか。ジャンプの話はそもそもそっちの管轄だと思います。- NEON 2007年5月25日 (金) 16:23 (UTC)
『雇用・利子および貨幣の一般理論』のような古典については話がややこしくなるのですが、この中でのべられている「理論」そのものを記述するために使うのなら、これは一次資料ではないでしょう (この場合、一次資料になるのは作中で触れられている経済統計などでしょう)。「『雇用・利子および貨幣の一般理論』の成立過程について記述したい」というのなら、一次資料でしょうから、ほかの資料によって記述しなければならない。
後の場合、『一般理論』という書物を、論文としてではなく、資料として扱っているわけです。
『週刊少年ジャンプ』の掲載作について同じことをあてはめようとすると、なにかの理論や主張を述べているわけではないですから、一次資料として扱う以外のことが考えられません。たとえば『幽☆遊☆白書』を出典として「幽助は魔界統一トーナメントの開催を主張した」なんて書くのは、ナンセンスですよね。結局、これが出典になると主張するかたというのは、ストーリー紹介をしたいだけなんでしょう。
いっぽうで、この記事の話題となった連載終了の節なんかは、適切な二次資料を典拠として記述ができるはずなんです。「作者のへろへろの原稿をジャンプ編集部がやむなく掲載してしまった経緯」については、調査したり論評したりしている書籍がありますから (しかも、同人誌レベルではなく立派な商業出版で)。それなのに「噂された」「話題になった」と主観的な記述しかできていないので、このままでは独自研究として除去されても文句は言えないところです。速報競争より、そっちにエネルギーをつかってほしい、とおもう。 --Hatukanezumi 2007年5月25日 (金) 18:33 (UTC)