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Wikipedia‐ノート:検証可能性/打ち切り

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当事者でないことを理由に、信頼できる情報源でないと言えるのか

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Wikipedia:信頼できる情報源向きのネタなのでしょうが、あちらはまだ議論以前の状態のようなのでこちらで質問させていただきます。

ノート:イタダキマン#打ち切り?で、「イタダキマンは打ち切りかどうか」という議論がありました。その際、『別冊宝島 このアニメがすごい』という本の「トンデモ最終回伝説」で山本弘が打ち切りと断定しているソースが見つかりました。ただし、山本弘は関係者ではなく、単なるアニメファンレベルでしかないものなので、信頼性については疑問がつく、というという意見が出されました。

そこで疑問に思ったのですが、具体的な反証がないものについて、どの程度のレベルで信頼性を吟味すればいいのでしょうか? 東スポのようなものであればその媒体自体の信用度は計れるというものですが(笑)、今回のような単体の出版物の場合、アニメファンでしかなく関係者でない人間の記述は信頼性に疑問、として片付けてしまっていいのでしょうか? また、このような出版物の信頼性についてのガイドラインのようなものはあるのでしょうか?

ちなみに件の問題については、別のソースが出たので打ち切りであるとされました。個々の問題は解決済みですので、純粋に総論的な問題として教えてください。--なのこえ 2007年10月31日 (水) 03:18 (UTC)

「当事者ではないから」というのは、いくらなんでも無茶でしょう。そんなのが通用するなら、たいていの情報ソースは「信頼できる情報源でない」となってしまうのではないでしょうか(新聞記者が当事者である可能性はごく低い)。問題にすべきは山本弘が云々ではなく、『別冊宝島 このアニメがすごい』がソースとして信頼できるかどうかだと思います。そして信頼できるのなら「……によれば……」と書けばいいのでは?-- 2007年10月31日 (水) 03:30 (UTC)
『別冊宝島 このアニメがすごい』は複数の人が執筆しているので、それで山本弘そのものにクローズアップされたんだと思います。たとえば新聞では誰かが書いたかはわかりませんからその新聞の信頼度が問題になりますが、今回の場合は書いた人のメンが割れている+単発であるために執筆者が重要になる……という感じかと。
山本弘が単なるアニメファンに過ぎないというのに個人的にはとても頷いているんですが(笑)、Wikipediaでソースの信頼性を考える際に、そういうことが問題視されるのかどうか、というのがわからなかったんです。
ノート:イタダキマン#打ち切り?での意見をざっくりまとめますと、
  • 山本弘はアニメに関しては業界人でも研究者ではない
  • これまでのアニメに関する著作を読んでもファン目線を越えるものはない
  • で、そんな部外者が部外者では知り得ない「打ち切り」を断言した。これは次の2つの可能性によるものだろう。
    1. 打ち切りになったという情報をアニメ雑誌か何かの資料で見かけた
    2. 資料的裏付けはなく、最終回の展開から勝手に打ち切りと思い込んだ
  • 1なら山本弘が根拠とした資料を探し出して出典とすべき。
  • 2の思い込みの可能性がある限り、山本弘の断言は信頼できる情報源と言えるかと言うと弱い。このような判断は資料の吟味であり独自研究には当たらない
ということなんですが、私は「山本弘が根拠とした資料を探し出して出典とすべき」というよりは反対する側が反証を見つければいいことで、提出側が傍証を探す必要はない、と考えています。また、そのソースが信頼できるかはあくまでも(別の)信頼できるソースによって判断すべきで、今までがアニメファン目線だったかどうかはまったく関係ないのではないかと考えています。このあたりはどちらが正しいんでしょうか?
また、「ソースとして信頼できるかどうか」というのをどのように判断するか、というのも悩ましいんですよね……。ノート:イタダキマン#打ち切り?にも書いたことなんですが、「打ち切りである」と書いてあるソースAの信頼性を考えるのに、「打ち切りでない」というソースBを出してくる……これは理解できます。「(打ち切りと書かずに)終了した」としか書いていないソースCを持ち出して、「打ち切りと書いていないから打ち切りとは言えない」と言ってしまうのはどうなんだろう? ということなんです。むしろこれこそが独自研究に当たるからやっちゃまずいだろうと思ってるんですが、どうなんでしょうか?
なんだかまとまりがなくてすみません。--なのこえ 2007年10月31日 (水) 05:38 (UTC)
そもそも「山本弘」なる人物が信頼に足る人物か否かは読者の判断に委ねるべきで、執筆者が判断することではないと思います。(似たような議論として過去にあったものノート:コスタリカの石球もご参照ください)
Wikipedia上では資料に基づき、「公式発表として打ち切りという発表はなされていないが、山本弘は『○○』において打ち切りであると断言している」と資料に基づいた両論を記せばいいだけで、それ以上の執筆者による判断、想像は独自研究にあたると思われます。--赤井彗星 2007年10月31日 (水) 06:20 (UTC)

ご本人も承知しているように、Wikipedia:信頼できる情報源向けですね。

まずこの件については、一次情報源はタツノコ、フジテレビ、笹川ひろしらスタッフです。取材を元に一次情報から得られた情報を研究者や取材者がまとめたのが二次情報です。で、山本弘が発信している情報はというと、資料的裏付けがないのだから、三次情報ですらありません。この場合、情報源を秘匿する意味もないのだから、思い込みによる断定の可能性を排除できないのです。山本弘の文章が思い込みでなく、資料的裏付けのある情報なら、その一次情報なり二次情報を探して、それを明記すればいよろしい。それだけのことです。コスタリカの石球のようなトンデモの記事に関して、トンデモの研究者である南山宏の著作を出典にする場合とは本質的に異なります。

Wikipedia:検証可能性で、「検証可能性とは信頼できる情報源から」と、信頼できる情報源であることが求められています。一次情報源である笹川ひろしらと、出典も示していないエッセイの類いの山本弘の文章を信頼性において同列に扱うのはおかしいでしょう。また、Wikipedia:信頼できる情報源でも情報源の評価が求められており、信頼性の吟味が「独自の研究」にあたることはありません。

で、この場合、情報源として、笹川ひろしと山本弘を対等に扱うわけにはいきません。監督としてイタダキマン製作を統括していた笹川ひろしと、業界に無関係の大阪在住の一視聴者に過ぎない山本弘とでは、どちらが信頼できる情報源なのかは言うまでもないでしょう。その笹川ひろしがイタダキマンは打ち切りと書かずに終了としている。この段階では、関係者の取材や文献調査を行なう研究者ですらない山本弘の資料的裏付けのないエッセイは「視聴者に打ち切りという印象を与えるものだった」という情報源にはなりえても、「イタダキマンは打ち切りだった」という情報源にするには難しいです。信頼できない情報を除去するのは独自の研究ではありません。--Wing09 2007年10月31日 (水) 10:52 (UTC)

ちょっと待ってください。なのこえさんが議論したいのは、資料的裏づけがあるかどうかとか、山本弘が信頼できる情報源かではなく、あるソース(Sa)ではAと書いてあり、別のソース(Sb)ではB(<>notA)としている場合に、Saの執筆者が当事者ではないことを理由として否定できるか、ということでは?そして赤井彗星さんは、ソースではなく執筆者の信頼性は読者が判断すべきもので、Wikipedia執筆者が判断すべきではないということではないでしょうか。
失礼ながらWing09さんは「情報源」という言葉を二重の意味で使用しているように思えます(出典と執筆者)。Wikipediaで求められているのは「信頼できる出典」であって、「信頼できる執筆者による出典」ではない筈です。そのために「編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。」となっているのでしょう。-- 2007年10月31日 (水) 11:37 (UTC)
読み違えています。前提条件として、「信頼できる情報源」であること、「信頼できる情報源」であれば、「記事の中身が真実かどうか検証する責任」はないということです。中身の吟味でなく、信頼できる情報源かどうかを吟味するのは否定されていません。信頼できる情報源、一次情報である笹川ひろしが打ち切りという表現を使っていないのに、アニメに関してはファンに過ぎない大阪在住の山本弘が信頼できる情報源か、というのを問題にしているのです。一次情報源のフジテレビが全52回と発表していたり、タツノコプロや笹川ひろしが断言したのなら、信頼できる情報源であり、それを真実かどうかを検証などしません。--Wing09 2007年10月31日 (水) 11:55 (UTC)
私が言っているのは「山本弘が発信しているイタダキマンの打ち切りという情報が三次情報ですらない」という指摘が、出典を明示しなければ執筆者の判断(=独自研究)でしかないということです。「公式発表がなされていない」と「山本弘が打ち切りを断言している」と「山本弘はアニメの研究者ではない」という情報をもとに、Wikipedia上に「山本弘は打ち切りと言っているが信用ならない」と記述するのはWikipedia:独自研究は載せないにある発表済み情報の合成にあたります。
Wikipedia上で可能なことは、それぞれの事実を列挙するか、執筆者同士で議論し、当該記述を除去するかのどちらかです。--赤井彗星 2007年10月31日 (水) 22:18 (UTC)
あのー、何を言ってるんでしょうか。歪曲しないでいただきたいものですな。「山本弘は打ち切りと言っているが信用ならない」と自己主張を入れて記述するのは独自の研究にあたるに決ってるではないですか。山本弘がどうたらこうたらと書く必要はない、信頼性に疑問のある情報はそもそも書く必要はない、と言ってるのです。載せないのだから、「Wikipedia:独自研究は載せない」のは触れるはずがありません。信頼性に疑問のある情報源を排除するの当たり前のこと。いつどこで私が「山本弘は打ち切りと言っているが信用ならない」と記事に書くべきと言ったのでしょうか? ありもしない主張をでっちあげて、それを「独自の研究」と反論したところで、議論になどなるはずがありません。反論するなら相手の主張に基づいたものにして下さい。
Wikipedia:検証可能性では信頼できる情報源であることが求められて、クソもミソも一緒にしてそれぞれの事実を列挙せよなどと書いていません。國民新聞は信頼できない情報源として、土井たか子の記述のソースから外されることのどこが「独自の研究」ですか? トンデモの記事を書くのにトンデモの研究家である南山宏をソースにするのとは違います。山本弘のエッセイは「最終回の結末は視聴者に打ち切りの印象を与えるものであった」という記述の情報源であれば、検証可能性を満たしており信頼できる情報源ですが、「公式発表では打ち切りとはされていないが、実は打ち切りであった」という公式発表を否定するような事実の暴露があるなら、関係者に取材しているとか、資料的裏付けがあるかなど、それ相応の信頼性が必要とされるのは当然のことです。--Wing09 2007年11月1日 (木) 10:40 (UTC)
他の方にも言われてますが、「山本弘は『hogehoge』において○○であったと語っている」に対して、検証可能な情報源は山本弘ではなく、『hogehoge』です。山本弘が『hogehoge』で○○と語った事が事実であれば、『hogehoge』が信頼できる情報源となり得る限りこれを理由無く取り除く事はできません。--赤井彗星 2007年11月1日 (木) 13:32 (UTC)
検証可能な情報源であるかどうかと、その情報源が信頼できるかどうかは別問題です。山本弘のアニメに関する事実関係を記したエッセイが信頼できる情報源であるかどうかを問題としているのに、検証可能だからどうとか書かれたところで反論になってません。検証可能なことは否定していないのだから。論点のすり替えですな。当初からこの話は、Wikipedia:検証可能性ではなく、Wikipedia:信頼できる情報源向けではないか、と言われています。--Wing09 2007年11月2日 (金) 11:05 (UTC)

”山本弘のアニメに関する事実関係を記したエッセイが信頼できる情報源であるかどうかを問題としているのに”とは…。この場合版元の信頼性を論議すべきであり記者の信頼性はウィキペディアでは求められていません。 版元に対する信頼性の話は一切出ていないので、信頼できる情報源であるということでしょう。--220.152.28.71 2007年11月2日 (金) 15:40 (UTC)


Wing09さんに質問です。
1,Wing09さんは当初出典の可否ではなく、打ち切りの真偽を議題にされていました。これは誤りでウィキペディアの方針では、記事の正しさではなく出典の可否を重要とすると言うことでよろしいんですよね?
2,Wing09さんは記事を書いた山本弘氏の信頼性について争っていますが、
①記事を書いた人が当事者である事の方が少ないです。そうすると殆どの記事は信頼できないのでしょうか?
②ウィキペディアは、媒体等の信頼性について言及しています。タブロイド紙やブログは望ましくはないなど。記事を書いた人への信頼性ではなく媒体に対してです。個人を問うのは間違っていませんか?
③個人を問うと言う場合、全国紙の新聞も信頼できなくなります。文化部から政治部に異動してきた人や新人が書いた記事が載ります。新聞記者でも犯罪を犯す人がおり、当然その人も記事も書いています。さらに一般の人は誰がどの記事を書いたか知るケースは少ない。どの記事が不的確な人が書いたか判断が付かず、結果全部の記事が怪しいこととなります。さて、全国紙の新聞は信頼性がないのでしょうか?
--220.152.28.71 2007年10月31日 (水) 22:20 (UTC)
これ私方の議論にも確信核心を突いています。「どこまで考えたら信頼性があると看做せるのか」。かなり興味があります。--Yesterdayforthem 2007年11月1日 (木) 03:49 (UTC)
確信も何もないですよ。Wing09さんは考え違いか独自研究を展開しているだけです。ウィキペディアのどこに”記事を書いた個人の信頼性”を求めると書いてありますか?求めているのは媒体や版元などの信頼性です。Wing09さんは独自研究ではないというのであれば”記者の信頼性”を明確に示したルールを提示すべきです。--220.152.28.71 2007年11月1日 (木) 08:49 (UTC)
確信ではなく核心でした。訂正しておきます。因みに、220.152.28.71さんの質問が核心を突いているということです。良い意味で。--Yesterdayforthem 2007年11月1日 (木) 10:28 (UTC)
一番重要性があり信頼できる情報源が当事者からの一次情報(もちろん都合のよいように事実を捻じ曲げることもあるが)、この場合はフジテレビなりタツノコなり笹川ひろしなりのスタッフですな。もちろん山本弘が一次情報のはずもなく。次が一次情報を元にした二次情報、これは記者や研究者の取材なり警察が事件を捜査した発表などがあたるでしょう。少なくとも山本弘がアニメに関してスタッフに取材をして記事を書いたりしたことはほとんどないはずですし(対談記事くらい?)、打ち切りアニメに関するあの文についても取材をした形跡はない。三次情報は二次情報によるものです。この場合、出典が記されないと信頼性が著しく劣り、三次情報なのか、推測や臆測なのかも確認ができません。全国紙の新聞は、週刊誌の「関係者によると」ような本当に取材しているか疑わしいものと異なり、匿名のソースであっても無記名であっても基本的に取材や記者発表を元に記事を書いているとして扱われています(だから朝日新聞の記者が田中知事に取材せず記事を書いたことで問題になった)。出典を記さず、明らかに取材者でない山本弘(アニメに関しては)と、取材をしている新聞記者とは根本的に異なるものです。話は、Wikipedia:信頼できる情報源に目を通してからにして下さい。「編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません」とあるでしょう。信頼性が危うい情報源を排除するのは独自の研究にはあたりません。--Wing09 2007年11月1日 (木) 10:40 (UTC)
下で指摘されていますが、一番重要性があり信頼できる情報源が当事者からの一次情報 は誤りです。Wing09氏は情報の伝達次数と(ウィキペディアにおける)信頼性とを真逆に捉えているように見えます。Wikipedia:信頼できる情報源を確認して下さい。- NEON 2007年11月1日 (木) 11:23 (UTC)
いえ、誤りではありません。Wikipedia上の話ではなく、研究者から最も重要視され信頼性の置かれるのが一次情報だといったのです。一次情報を覆せるのは一次情報(と一次情報をもとにした二次情報という研究)しかありません。もちろん当事者であるから、事件の当事者など利害関係のあること嘘をつくこともあったり、当事者間の情報でも矛盾はありますが、それについては既に述べています。Wikipediaの話だと断っていないのに、これをWikipediaの話の勘違いしたのなら、書き方がまずかったためにおきた誤読です。で、Wikipediaではどうかというと、一次情報源より二次情報源を重視せよ、とあります。これは一次情報を元にした独自の研究が禁止されており、既になされた研究を反映せよということでしょう。で、今回のイタダキマンについてどうかといえば、山本弘は二次情報源ではありません。一次情報を参照した形跡が皆無なのだから。で、タツノコ、フジテレビ、笹川ひろしなどの一次情報が打ち切りとしていないのに、二次情報源でも二次情報源をもとにした三次情報源ですらない山本弘の情報に頼って、打ち切りと断言してもいいのか、という問題です。ヤマトが1年間予定だったとか、製作会社の倒産でドン・ドラキャラは3話で終了したとか、サスライガーは52個の惑星をまわる予定だったとか、いい加減なことを書いてるエッセイなんですけどね。--Wing09 2007年11月2日 (金) 11:05 (UTC)
やれやれまた間違ってますね。"山本弘は二次情報源ではありません。一次情報を参照した形跡が皆無なのだから"と書いてますが二次情報源とは、ひとつまたはそれ以上の一次情報源または二次情報源を要約したものです。それと、ウィキペディアでは記事の真偽は問題ではありません。ヤマトが1年だろうがドン・ドラキュラが3話だろうがそれが偽であっても、ウィキペディアのルールとして検証可能性の方をとると明記されています。また、対象が版元・媒体であることも記してあるとおりで信頼性も版元や媒体が対象です。そして、上記で”一次情報を参照した形跡が皆無”とか”タツノコ、フジテレビ、笹川ひろしなどの一次情報が打ち切りとしていない”とかあなたが述べているだけで客観的な物は何も出ていない。自己の主張のみを記しており、こういうのを独自研究というのです。--220.152.28.71 2007年11月2日 (金) 15:37 (UTC)
何も間違っていませんよ。山本弘が二次情報源だというなら、一次情報を要約したという痕跡があるはずです。それが皆無なんですから。二次情報として扱うわけにはいきません。記事の真偽などでなく、情報源の信頼性を疑わせるようなことを書いてることを示してるだけです。ホラばかり吹いている情報源は信頼できない情報源を見なすのは当然のことです(山本弘がホラ吹きといってるのではないのは念のため)。信頼できる情報源か信頼できない情報源かを区別することをWikipediaは否定していません。独自研究を記してはいけないのは記事の本文について。情報源を信頼できるかどうかの検証を禁じてないどいません。信頼源の文章をチェックして、信頼できるかどうかを「独自の研究」とみなすという論理は通用しません。「タツノコ、フジテレビ、笹川ひろしなどの一次情報が打ち切りとしていない客観的なものは存在していない」といいますが、実際に笹川ひろしのMSNジャーナルの文章と著書「豚もおだてりゃ木にのぼる」やタツノコ公式サイトを挙げています。私の頭の中にだけある主観ではなく、笹川ひろしの文章は客観として存在します。それぞれを読んでみれば、打ち切りとしていないのが確認できるでしょう。ま、どうせ読もうとはしないんでしょうがね。--Wing09 2007年11月3日 (土) 13:25 (UTC)
出典があり、それを無効としようとしているのですからその無効になる”客観的証拠”を提示するのはWing09氏側のはずですが?あなたは自分の理論を展開しているだけで一切客観的な証拠を提示しておりません。そういうのを独自研究というのです。打ち切りと書いていないのではなく”打ち切りではない”という出典を示して下さい。そしてそれが正しい物であれば両論併記などの手法を取ればよいだけでしょう?--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 00:37 (UTC)

あなたが示した信頼でき情報源ですが、公刊されたとか信頼できる出版元と記載されています。記事を書いた個人については問題としておりません。”記事を書いた個人の信頼性”について明確に述べているルールを早く出して下さい。しかもあなたは信頼できるのは一次情報と書かれてますが、参照先は”ウィキペディアの記事は一次情報源に基づくべきではなく、むしろ一次情報源となる資料を注意深く扱った、信頼できる二次情報源に頼るべきです。”とあり、ひどく矛盾してますが?

さらに、取材をしない新聞記者も存在しながら新聞の有効性を認められているのは、新聞社と媒体に寄るところが大きいからでしょう。これは他の文献にも言えることで版元・媒体の信頼性に依存します。また、ウィキペディアは山本弘氏の打ち切り発言が(取材をしているかどうかも含め)正しいかどうかは求めていません。真偽より検証可能性を明確に記載しています。

それよりも、あなたが決めつけている山本弘氏の”取材をした形跡はない”というのはどこからの出典ですか? あなたがここで展開している自論は明らかに独自研究です。独自研究でないのなら、あなたが話したことの出典を明記して下さい。矛盾ばかりでは独自研究にもなり得ないのですが… --220.152.28.71 2007年11月1日 (木) 11:19 (UTC)

取材をした形跡がないというのは山本弘の文を読めば分かるでしょう。インタビューでもない、出典があるわけでもない。これでどうやって取材したと言えるのですか? 逆に取材をしたというなら、それを立証して下さい。取材をしているのを立証するのは簡単です。悪魔の証明って知ってますか? その他のことについては、下でコメントしておきます。--Wing09 2007年11月2日 (金) 11:05 (UTC)
執筆者が出典を明記するのがウィキペディアでのルールです。ですからあなたが自分の書いたことの裏付けを示して下さい。私にはそれをする必要はありません。そして悪魔の証明というのは証明するのが困難という意味であって、”言っていることが正しい”という意味ではありません。あなたは裏付けのない理論を展開されていますがそういうのを独自研究というのです。--220.152.28.71 2007年11月2日 (金) 16:00 (UTC)
何を言ってるのやら。出典は明記しているでしょう。さすが参考文献で明記されている文献を読みもせず馬鹿の一つ覚えのように要出典テンプレをペタペタと貼りまくるだけのことはありますね。あなた、イタダキマンのノートを読んでいるはずでしょ。ちゃんと読んでないんでしょうな。別冊宝島「このアニメがすごい」の「トンデモ最終回伝説」のこと。この文章中に山本弘が取材した痕跡があるなら示すように。「私にはそれをする必要はありません」とは言わせません。悪魔の証明とはないことをないと示すのことの困難さを例えたたものです。取材した痕跡があるというのなら、文章中のどこにあるのかちゃんと示すこと。ないことを示せというのは、「宇宙人はいる。いないという証拠を示せないならいる」と言ってるトンデモさんとあなたが同類ということです。宇宙人がいるなら宇宙人がいる証拠を示せばいいだけのこと。同様に山本弘の文中に取材した痕跡があるなら、それを示せばいいだけのこと。--Wing09 2007年11月3日 (土) 13:25 (UTC)
出典を無効にしようとしているのですから”客観的証拠”を提示するのはWing09氏側のはずです。あなたは自分の理論を展開しているだけで一切客観的な証拠を提示しておりません。そういうのを独自研究というのです。”山本弘が取材した痕跡があるなら示すように”ではなく出典を無効にしようとしているあなたが出典を示して下さい。自分の主張を裏付ける出典は、それを主張する側が示すのがルールのはずです。そしてそれが正しい物であれば両論併記などの手法を取ればよいだけでしょう。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 00:37 (UTC)

「打ち切り」という表現を用いようとするからややこしくなっているのではないかと思います。放送局が放送を打ち切った、という場合、放送局が動作主体であり判断主体となります。「打ち切り」という表現がさす意味内容を考えるなら、放送局の意思あるいは契約状況として、まだ放送する予定があったけれども何らかの理由で途中で放送の継続を取りやめ、かつ(少なくとも短期的に)中断や延期する意思がないということになるでしょう(以下、「打ち切り」という表現のさす意味内容を今述べたものであると了解していただけるとして話を続けます)。たとえば局側は、放送期間延長の可能性を持たせながらもその時点で放送を終えることも想定していたけれど、製作側は、延長されることを前提に作業を続けていたというような場合は「打ち切り」という表現を使うべきではないでしょう。「打ち切り」という表現を、百科事典の中で使おうとするならば、そのような内容を確認するか、そういったもろもろを含めて放送局が「打ち切り」という表現を用いていると推定できる資料が必要かと考えます。ここで紹介されている範囲から推察するに、山本氏の文章では上記のような内容は確認されていないようですから、山本氏の表現として「(事実上の)打ち切り」という形で「打ち切り」という言葉を使っているのではないかと考えられます。これは、情報源の信頼性というよりは、その情報源で用いられている表現の厳密さの問題であり、単に情報源にその表現があるからといって、内容を吟味せずに同一の表現を用いるべきではないという、資料の読み方の問題ではないかと考えます。 記事のノートでは、ほかに資料も出てきているようですが、ここで書かれていることから判断すると、「打ち切り」というう表現を使わずに、放送がいつ終了したかということ、その内容に不自然な点があるということ、「打ち切り」と判断している評論家/ライターが存在するということ、を書くのが、実際起こったことを客観的に描写していることになるのではないかと考えます。それを超えて、「打ち切り」という表現を用いるのであれば、契約内容や放送局の意思に関して、直接の情報源のない推測ということになりますから、独自研究として表現を改めるべきではないかと考えます。 情報源の信頼性は、どのような分野の記事か、どのような記述に用いるか、他に情報源があるかどうか、といったことによっても左右されます。特に学術的な分野ではない記事であれば、一般化するのは難しいと思いますから、慎重に、また、複数の情報源を用いることが望ましいと思いますですよ。--Ks aka 98 2007年11月1日 (木) 15:37 (UTC)

直接の情報源”というのは1次情報に当たります。ウィキペディアでは2次情報を用いるべきとし3次情報でも記載は可能としております。また、記事を書いた個人の信頼性は問われておらず版元・媒体の信頼性が問われていることは先に述べたとおりです。打ち切りという出典が存在する以上(誹謗中傷等の問題を含む場合でないかぎり)記載できるのがルールです。そして記事の真偽より検証可能性を求めていることも。ルールからすれば打ち切りの真偽は関係なく、版元や媒体の信頼性が重要なのです。そしてそれは記事を書いた個人は問われておりません。
打ち切りではないというのであればその出典を明記しウィキペディアの中立性に基づき両論併記をすればよいだけです。思いこみでだけで(出典もなく)”打ち切りではない”とし、出典有りの打ち切り記事の掲載を行わないようにすることはウィキペディアの活動に反することでしょう。Wing09氏やKs aka 98氏の打ち切りではないという理論も裏付け(出典)があって行うのならまだしも、無い場合は自己の推測・独自研究です。ご自身が客観的に書くことをかかげられているのですから、打ち切りという記事と出典を客観的に載せればよいだけのことです。また、1次情報についてはご自身が示された項目を再度勉強して下さい。--220.152.28.71 2007年11月1日 (木) 22:29 (UTC)
ようはWing09さんが
・検証可能性などのWikipediaのルールを把握していない。
・一次情報、二次情報、三次情報も理解していない。
・打ち切りではないという主観が先にあり、他の情報を認めようとしていない(自分に都合の良い出典以外は却下)。
・独自研究に気づいていない。
・出版社、Webなどの信頼性をルールにもない記者の信頼性で置き換えようとしている。
が原因でしょ?出典があるんだからルール通り処理しておしまい。--Wingman11 2007年11月2日 (金) 03:42 (UTC)
ん? Ks aka 98氏や私がいつ「打ち切りではない」などと言っていますか。少なくとも私は打ち切りかどうかは不明だとという言っています。つまり、打ち切りでないという挙証責任はこちらにありません。悪魔の証明になるので、打ち切りと書きたいのなら、打ち切りだという出典を示さないといけません。そして、山本弘が出典となりうるかというと、信頼性に欠ける情報源だということです。
それとまだ無茶苦茶な勘違いしているようですが、「信頼できる出版元から公刊」というのは出典として使うのための最低条件です。出版されていれば、クソもミソも出典として用いられるという意味ではありません。Wikipedia:信頼できる情報に次のように書いてあり、あなたの言う「記事を書いた個人については問題としておりません」というのは出鱈目。以下、Wikipedia:信頼できる情報より引用。「彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください」と、ちゃんと記事を書いた個人を問題にしておりますなあ。「編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません」ともある。「信頼できる出版社が出版したものを報告するだけ」なのは自分の意見を付加するな、ということです。「もっとも権威のある情報源を探すべき」なのは否定していません。情報源とはもちろん版元だけを指すものではないでしょう。
研究者は一次情報を最重要視します。信頼性でも二次情報よりも上におきます。これは事実です。ですが、それが独自の研究を禁じるWikipediaでは二次情報を重視する、というだけの話です。もっとも山本弘が二次情報源でもなく、三次情報源なのかも怪しい、というのは再三繰り返したとおり。二次情報源というのは、こういうのを言います。--Wing09 2007年11月2日 (金) 11:05 (UTC)
飛んだらリンク切れなんだけど?情報源のほうでいいんでしょ?都合のいい箇所を切り出して居るみたいだけれど”「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです”というのが前文にある。信頼性の低いWebでの話じゃないか。公の出版物とは信頼性のレベルが違う。
それと”研究者は一次情報を最重要視します”というように独自研究をしたいならほかでやってくれ。ここはWikipedia。Wikipediaの主旨や方針に沿って書き込む場所だ。Wing09君の研究などに興味はないよ。--Wingman11 2007年11月2日 (金) 12:08 (UTC)
追記しておくと、信頼性がどうしても劣るWebのような箇所から記事を持ってくる場合、修士以上とかの目安を付けているだけだよ。Wikipediaは昔から”「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。”がルール。信頼性は出版社等が対象。ちなみにこれも君がリンク切れさせたところから持ってきた。付け焼き刃じゃぼろが出るだけだぞ。--Wingman11 2007年11月2日 (金) 12:15 (UTC)
”「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです。ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。”とあるのでWebでの議論の時に学位などの修士を判断基準とすると言う事みたいですね。日本のウィキペディアではWebでの議論を出典とするケースは少ない(まとめられたサイトは信頼性が劣りながらも可ですが)ので余り関係はないでしょう。それより自分の都合の良い箇所のに切って持ってくるのは、果たしてどうなんでしょう?それにWingman11さんでも指摘されてますが、ここは研究所でもないですし研究者が集う場所ではないので、その人達が一次情報を最重要視しようが何を重要視しようがウィキペディアのルールには何ら影響はありません。そんなに研究者が重要視することを尊重したいならご自身でサイトでも本でも出版されたらどうでしょうか?ウィキペディアにはウィキペディアのルールがあり、Wing09氏の研究者がなんとかには全く関係がありませんから。
Wing09氏はおそらくウィキペディアでの日が浅いようですから、これをきに検証可能性などのルールを一読することをお勧め致します。--220.152.28.71 2007年11月2日 (金) 14:43 (UTC)
リンクの失敗とのことで、失礼。こちらが正しいリンク先です。http://animesama.cocolog-nifty.com/animestyle/2005/05/post_5e4c.html 。執筆者は業界歴20年以上のアニメスタイル編集長。これは情報源を明記しており、二次情報源、三次情報源として扱えるものです。山本弘だって南京大虐殺についての記述( http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin00.htm )のように参考文献が明記してあれば、三次情報として扱えるんですけど、イタダキマンの件については参考文献もなし取材した形跡もなし、ところどころ間違った記述があり、と視聴者の印象という以上の域を出るものではありません。査読制度があり、重要な知見が論文の形で学術誌で発表されたり、学術出版を行なう出版社で出される学術ではWebでしか発表されないのは情報源として怪しいというのはそのとおり。Wikipediaの扱いが正しいのです。ただしサブカルチャーの分野では山本弘の出版された文章よりも、業界人が書いた情報源を明記したWeb上の文章の方が信頼性が高いという逆転していることがしばしば。Wikipedia:信頼できる情報源の「大衆文化やフィクション」では個人のウェブサイトを情報源として使用してはいけないとありますがね。小黒祐一郎はその分野のプロの記述であり、Wikipedia:信頼できる情報源でウェブを情報源としていい「自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者」に該当するもの。そして、「信頼できる情報源では、情報を集めた手段を再現あるいは検証できます」とあるように情報源を明記している。山本弘のにはそれがない。ちなみにWingman11氏が言ってる「信頼性は出版社等が対象」というのは学術分野では成立しても、サブカルチャーでは成立しない。修士がどうこういうのもそうですな。それにWikipedia:信頼できる情報源の「情報源の評価」の節で、「利用できる一次情報源を彼ら自身で見ており、評価するに当たっては彼ら自身の判断を使っている」「編集者の監視や、事実の検証プロセスを経ている」などで情報源を評価すべきとあるように、出版社でなく個別の情報を評価するように求めている。山本弘の文が学術分野のように「事実の検証プロセスを経ている」なら、ヤマトが1年放送だったとかドン・ドラキュラが3話だったとかはチェックされているはずです。--Wing09 2007年11月3日 (土) 13:25 (UTC)
>ウェブを情報源としていい…中略…山本弘
なぜWebの時のルールを書籍に適用させるのですか?
>それにWikipedia:信頼できる情報源の「情報源の評価」の節で…中略
その彼らとは執筆者のことですか?それと出版元、編集者、いずれのことですか?ご自身で「編集者の監視」と書かれていますから記事を書いた個人ではないということを認められているのでしょう。出版元が信用ならなければ出版元に対して信用の無い理由を挙げるべきです。
>略…が3話だったとかはチェックされているはずです。
”…はず”とか言う言葉が多いですね。裏付けのない理論を振りかざしても独自研究にしかなりません。我々に出来ることは出典を元に記載・まとめをすることであり自身の理論を記載・用いることではありません。あなたの主張に沿った出典を明示して、それが相反する物であれば両論併記をすればよいだけです。それが出来ないのなら独自研究でしかありません。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 00:37 (UTC)
一点。Wikipedia上に「○○は打ち切りであった(出典:hogehoge)」と書くのと、「山本弘は『hogehoge』において○○は打ち切りであったと語っている」と書くのは違います。なんかこの辺から勘違いしてそうなのでいちおう確認。--赤井彗星 2007年11月2日 (金) 14:52 (UTC)
そうでしょう。参考資料を示していない二次情報源としての体をなしていない、アニメの専門家でもない、同文中で誤りがいくつもあり、もちろんアニメの制作関係者でもなく、取材の形跡がない視聴者に過ぎない山本弘を情報源として扱うのは危なっかしいということです。つまり、に「イタダキマンは打ち切りであった(出典:山本弘の「トンデモ最終回伝説)」と事実関係の根拠に使うべきでなく、「その最終回は視聴者に打ち切りという印象を与え、山本弘は「トンデモ最終回伝説」においてイタダキマンは打ち切りであったと語っている」と書くのなら視聴者の感想のソースに使うならアリ。とは既に述べていることです。--Wing09 2007年11月3日 (土) 13:25 (UTC)
ああよかった、話が通じた。つまり私を含めたほぼ全員ははじめっから後者(「山本弘は『hogehoge』において○○は打ち切りであったと語っている」)の話をしていると思うのですが、Wing09さんは前者の話を持ち出して議論を引っ掻き回していた、という事でよろしいですか?--赤井彗星 2007年11月3日 (土) 14:23 (UTC)
>”事実関係の根拠に使うべきでなく”
あなた本当に分かっているの?検証可能性に記事の真偽ではなく検証可能性を取ることが明記されていることを。事実関係の根拠(真偽)はルール上関係ないんだよ。事実関係を示したければそのことが載っている出典をあげるしかないんだよ。よく勉強してくれ。
>”「その最終回は視聴者に打ち切りという印象を与え、山本弘は「トンデモ最終回伝説」においてイタダキマンは打ち切りであったと語っている」と書くのなら視聴者の感想のソースに使うならアリ。とは既に述べていることです。”
なぜそう書く必要があるのか?打ち切りと書いて(出典:掲載本名)を書くだけでしょ?まず、否定ありきで記事を作るのは独自研究以外の何者でもない。自分の言を主張したいのならその出典を明示して下さい。もしくは自分の主張を信頼のおける出版社から出版してもらったからにして下さい。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 00:05 (UTC)

(インデント戻し)以下、上のIP氏と編集競合してしまったのですがそのまま書き込みます。

ずっと議論を眺めていたのですが、Wingman11氏、IP氏(可変IPの可能性があるのでアドレス明示は控えます)そのほかがWing09氏の意見を打ち切りという表現そのものの否定であると曲解、もしくは誤解していたというのが実態なのかもしれません。Wing09氏も具体的な表記方法について言及があればここまでこじれることもなかったと思います。--VZP10224 2007年11月4日 (日) 00:34 (UTC)

ここから競合に気づいてのちの追記。つまりどうしてもIP氏は「イタダキマンが打ち切りであった」と表現したいわけで、そのためには山本弘を「単なる一アニメファン」ではなく「別冊宝島に寄稿できるに足る編集者」にする必要があるのでしょう。そのようにすれば山本弘個人ではなく別冊宝島が総体として信頼できる情報源なのかを吟味すればいいわけで、山本弘個人の論評分野は吟味しなくてもいいということなのでしょうか。

私個人の考えとしては別冊宝島関連は全てにおいて信頼できる情報源とはみなしていないので、スポーツ紙・タブロイド紙のように一括して信頼できる情報源でないとはできないものの、個々の著作やその著者に関する吟味を経なければ情報源として採用できないという考え方なのですが、それまで独自研究とされてしまうとあらゆる資料の吟味が独自研究になると考えます。信頼性に乏しい情報源への付け加えの項目も参照。--VZP10224 2007年11月4日 (日) 00:34 (UTC)

おーい、書き込みを良く読んで下さい。私は信頼性は記事を書いた個人ではなく版元にあると言っているのです。別冊宝島が信頼性に乏しいというのであれば、それを示せばよいと言っているのです。そして、打ち切りではないとするのであれば反証を示すべきなのに、反証はなく自己の理論を展開するのみであることを問題としているのです。それは独自研究です。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 00:48 (UTC)
追記
版元に信頼がおけないということは、Wing09氏は一切述べておりません。そうであれば検証可能性に基づいて”記事の正しさではなく検証可能性”より記載可能としているだけです。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 00:54 (UTC)
なにも山本弘が該当著書において「打ち切りである」と断言していることまで否定するものではありません。だからと言って、「山本弘が打ち切りと言っているのだから打ちきりだ」とWikipediaの文章として表現することには疑問符がつく、と言っているのです。この点は赤井彗星氏やKs aka 98氏の指摘と同種のものであると理解しています。「その最終回は視聴者に打ち切りという印象を与え、山本弘は「トンデモ最終回伝説」においてイタダキマンは打ち切りであったと語っている」のどこをどう読んだら「イタダキマンは打ちきりではなく、通常の放送終了だった」という解釈になるのか説明していただきたい。ちなみに自分も、2007年11月時点の当該記事における状況ではなく、山本弘の表現だけで「打ち切り」と断言されれば上記のような表現に直したでしょう。
別冊宝島への信頼性に関する批判ですか。ネット検索すれば当事者からのものを除いてもそこそこ出てきますよ。ついでにここを見ていただくと、自分の文章に対する批判は宝島社ではなく自分が引き受けることを明記する文章が掲載されています。なので、版元の信頼性さえ検証すれば執筆者の信頼性は不問とされる、というケースばかりではなく、版元とともに執筆者の信頼性を検証しなければならないケースもありうる、ということでOKかな。--VZP10224 2007年11月4日 (日) 01:44 (UTC)
>イタダキマンは打ちきりではなく、通常の放送終了だったという解釈になるのか説明していただきたい
どこを読めばそのような解釈になるのでしょう。上記では信頼性は版元にあること、版元に信頼性がないのであればそれを議論すればよいこと、Wing09氏は反証もなしに自分の理論を展開していることしか書いていませんが?
>自分の文章に対する批判は宝島社ではなく自分が引き受けること…
版元の監視責任を今回執筆者が自主的?に引き受けただけのような文章ですが。記者との契約がこのような物であればもちろん困りますが、その場合、やはりそのようなことを行う版元が信頼できないこととなります。
>別冊宝島への信頼性に関する批判ですか。ネット検索すれば…
ネットの情報がウィキペディアのルール上どこまで適用できるかにもよりますが、信頼に足りないというのであれば別冊宝島についてそれを議論すべきです。
最後に資料の吟味ですが、我々に出来ることは私見を交えず出典に基づいて記事を書くことです。資料まとめることは認められてます。信頼できる資料かどうかの吟味は自己主張などで行うべきではなく、何故信頼できないか客観的な裏付けをもってなされるべきです。出典がありそれを無効とする場合ウィキペディアのルールに基づくか、信頼できない理由を客観的に示すべきです。個人がダメと騒いでるだけでは独自研究でしょう。
信頼できる情報源では下記のような記載があります(仲裁事例)。
大衆文化やフィクションに関する記事も、信頼できる情報源による裏付が必要です。これらの分野では、その性質上、科学や法や哲学などと同レベルの学術的な資料は、それほど存在しないかもしれません。…中略…この点について、英語版ウイキペディアでは、次のように述べた仲裁事例があります。
Wikipedia:検証可能性およびWikipedia:信頼できる情報源は、芸能ゴシップ等、大衆文化に関して要求される情報の信頼性について特別な規定を置いていないが、これらの分野で査読済みの研究を期待するのは現実的でない。従って、例えば "bisexual" "James Dean"をキーワードにしたGoogle検索のように[10] 相当量の情報源が存在するときには、その中で最良の情報源は許容可能であり…
実際にGoogleでウィキペディアからの転載を除くとイタダキマンの打ち切り記事は500弱のヒットでした。ジェームスディーンのような世界的な物ではなくほぼ日本内であることを差し引けば少ないヒット数ではありません。相当量をどの程度に見積もるかにも寄りますが。参考事例ですが。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 02:25 (UTC)
なぜそう書く必要があるのか?打ち切りと書いて(出典:掲載本名)を書くだけでしょ?まず、否定ありきで記事を作るのは独自研究以外の何者でもない。と自分で言っているではないですか。これは「山本弘は『トンデモ最終回伝説』においてイタダキマンは打ち切りであったと語っている」という記述の仕方を否定するものではないのでしょうか。「○○は『××』においてhogehogeであったと述べている」という表現方法がいかにして独自研究に該当するのかご教示いただきたい。
別冊宝島の信頼性についてはここで詳しく取り上げるものではないと考えるのでこの発言をもって終了としたく思います。特に近年刊行されている別冊宝島Realについてはアンチの側からのPOVに基づいた告発本の様相を呈しているため、少なくとも中立的な観点から全面的に信頼できる情報源としては使用できず、出典を文中に明記して(「○○は『××』においてhogehogeであったと述べている」という形式で)使用されることが望ましいものであると考えます。それに、版元の信頼性を言われるのであれば、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の原則に基づき、「別冊宝島は著者・内容を問わずに信頼できる版元である」ことを検証可能性を持って説明していただけませんか。--VZP10224 2007年11月4日 (日) 16:40 (UTC)
(ウィキペディアで望ましくない出版元と定義されていない版元からの)出典があるのだから文と出典を記載する。そして出典を記載するのは掲載を望む側ですが、それをはじくというのであれば、はじく側が理由を明記すべきです。個人の私見ではなく客観的な物をね。また検証可能性では発行元などとは記されてますが記者個人については信頼性を記しておりません(Wing09氏はWebでの議論中の例にすぎず出版物のことではない。また草案)。版元に対して信頼性の欠如を謳うべきです。また”別冊宝島への信頼性に関する批判ですか。ネット検索すれば…”と言われますが例えば全国紙の朝日新聞とてNet批判は多くます。
まぁ、ここでの議論は”当事者でないことを理由に、信頼できる情報源でないと言えるのか”と言うことでしたので、それは1次情報でありウィキペディアでは歓迎しないこと、研究者は1次情報うんたら…は研究したければ他のサイトに行ってやれば良いということですから、最初の議題に対する回答は”「当事者ではない=信頼性出来ない情報」ではない”となります。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 21:58 (UTC)