Wikipedia‐ノート:検証可能性/非文献情報源
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非文献情報源の検証可能性について
[編集]上の方で議論させていただきましたが、「なぜ文献情報が重要視されるのか、そして非文献情報源にはどういう問題があるのか」について、まとめてガイドラインとして提示するべきだと思いました。一部、「信頼できる情報源」とかぶりますが「検証可能性」という観点から書いてみたので、ここで提案します。どんなものでしょうか?
- (文案ここから)
- ウィキペディアではどういった「既存の公表物」によって検証できるのが望ましいのでしょうか。もちろんそれは信頼できる情報源でなければなりませんが、Wikipediaでは「閲覧者は誰でもその気になればその情報がWikipediaの外部に存在していることが確認できてチェックできる」という検証可能性も求められています。もちろん、誰にでも簡単に確認できるのが望ましいのですが、場合によっては確認が困難になるかもしれません。著しく困難な場合は「検証可能性が低い」とみなされるでしょう。
- 文献による検証は常に優先されます。Wikipediaに限らず学問の世界では文献検証が重視され続けてきましたが、それはほとんどの文献は複数の図書館に収められており一般の人にも閲覧可能になっており、長い将来にわたって保存される見込みが極めて高いからです。そして、未所収の書籍でも図書館の間で検索したり、コピーを送ってもらったりするシステムが確立しています。文献で出典明示された記事は検証可能性が最も高いとみなされます。
- もちろん、文献によっては世界中で数部しか残っておらず、限られた研究者にしか閲覧できないという場合もあり得ます。その場合は、その文献に言及している文献で検証できるようにしてください。つまり間接検証ですが、そうした貴重な文献を閲覧できる研究者が書いた文章であれば、十分に信頼できるソースとみなすことができる筈です。
- 言うまでも無いことですが、文献ならば何でも良いというわけではありません。信頼できる情報源とはそのテーマの専門家とみなされている著者が責任をもって書いている文章です。一番良いのは、査読を受けた学術論文や、そうした論文に基づいた解説書や教科書です。認められないのは世間に認められていない著者による自費出版などの著作、あるいはゴシップ週刊誌の記事などです。詳しくはWikipedia:信頼できる情報源を参照ください。
- 文献という場合に問題になるのは、インターネットなどで流通している電子情報化された文献です。検証可能性という点からすれば、インターネット上の電子情報は紙に印刷された文献に比べて、検証可能性がやや劣ります。つまり、インターネット上の情報は書き換えられる可能性や、削除される可能性を抱えているからです。Wikipediaは100年後にも読むに耐えうる記事を作っているのだということを意識してください。100年後も、そのインターネット上の情報はまったく形を変えないで、そのままに保存されているのでしょうか?将来、電子情報のアーカイブシステムが確立されていけば、こうした問題も解決されるのかもしれませんが、現状ではインターネット上の情報よりも印刷された文献が出典としては優先されます。
- もっとも、インターネット上の情報については検証可能性よりも、信頼できる情報かどうかの問題のほうが大きいでしょう。著作責任が問えないような文章が多くて検証可能性以前に、信頼性の問題で出典として認められない場合が多いのです。これも詳しくはWikipedia:信頼できる情報源を参照ください。
- 次に、録画されたビデオや録音された音声情報を参照した場合の検証可能性はどうなのでしょうか。残念ながら、現在オンエアされているラジオ・テレビ放送に対して一般閲覧可能なアーカイブは存在していません。ですから、「何月何日の何チャンネルのこういう番組で××という人がこう発言した」という記述を検証するのは、一般には大変に困難です。もちろん、誰かがその番組を録画している可能性はいくらかはあるでしょう。しかし、誰が録画しているかを検索する手段も無ければ、見ず知らずの他人に録画画像を貸し出してもらえる保証もありません。そうしたテレビやラジオの録画情報の検証可能性は大変に低い、あるいはほとんど無いというのが現状です。
- ビデオテープ化やDVD化された番組については、アクセスは多少容易になります。そのDVDが図書館などの閲覧可能なアーカイブに収められれていればなお良いでしょう。しかし、「過去に出たどんなDVDでも誰もが閲覧可能である」という状態に現状は届いていないということは認識ください。たとえ記録媒体に入って市販されていても映像情報よりは文献情報の検証可能性の方が勝っているのです。
- それ以上に、テレビ番組やラジオ番組で流れた多くの映像情報・音声情報は信頼できる情報源どうかの方が大きな問題になる場合が多いでしょう。その問題の専門家でもない人間の無責任な発言、バラエティ番組などでのただの放言などはそもそも参照するべきではありません。また、放送番組は査閲のシステムが確立していませんから、その点でも問題があります。歴史や科学のドキュメンタリー番組などでも、その内容が専門家によって「偏った学説に基づいている」「誇張されている」「かなり以前に否定された学説を紹介している」などと批判されているケースが多々あることは注意ください。
- もちろん、学術分野によっては映像資料、音声資料のアーカイブと参照方法が確立している場合もあり、記事の分野によってはそうした学会の慣行に従ってそれらの資料を参照することは問題ありません。たとえばMLA(米国現代語学文学協会)のスタイルなどに従えば、そうした情報を参照することができるでしょう。ただし、そうした非文献資料は多くが一次情報源であり、Wikipediaで求められているのは二次情報源の参照であることは今一度注意ください。これらは映像・音声以外の非文献情報についても同様です。
- (文案ここまで)
--おーた 2007年8月15日 (水) 02:43 (UTC)
- すごい労力に敬意を表しますが、テレビやラジオの情報は「ヒマラヤの崖に咲く花」です。「ヒマラヤの崖に行って見てみろ、確かに咲いている!」では困るのです(それでも実地調査として学術論文には書けますが)。その意味で、たとえDVD化されたNHKのドキュメンタリーも、「論外」だと考えています。「誰でも検証可能」ではないからです。学術論文の世界(学生や博士未満の狭い村社会。「低い世界」。)に合わせる必要はないと考えます。百科辞典の編纂に、学術論文の話は不適応と思います。--Album 2007年8月15日 (水) 14:06 (UTC)
- えーと。DVD化されていてもドキュメンタリー番組は「誰でも閲覧可能な状態に届いていない」と私も書きましたが、何が問題なのでしょうか?
- 学術論文の生産現場がことさらに美化される世界ではないことは、よく判っているつもりではありますが、あの世界では少なくとも文献参照の方法論が整備されていることは確かなのではありませんか?そういうものを参考にしてくださいと書くのがなぜ不適切なのでしょうか?--おーた 2007年8月20日 (月) 07:06 (UTC)
- 「文献参照」なら良いですよ。(日本のどこに住んでいても、図書館で文献は取り寄せられます。コピーもね。)しかし、実際問題として「あのDVDの1時間29分36秒のところで『我々はネッシーをついに見つけた!』とナレーションが言っている。だからネス湖にネッシーはいるのだ!」と言われても困るでしょ?それを検証するために1万4千8百円のDVDを購入して確認することが「検証可能」と言えるのですかね?学術論文は「不特定多数」が投稿してくることを想定していない基準ですよ。そんな基準を適用したら、簡単に「あなたの隣には宇宙人が住んでいる!」ことにもなってしまう。そういう意味でも、学術論文基準は使えないですよ。--Album 2007年8月24日 (金) 11:05 (UTC)
- 書籍だって、ごくまれな例外を除いて有償です。また、図書館で閲覧できる書籍ばかりではないです (また、有料の専門図書館もあるし、公共図書館の書籍だって税金で購入されたものです)。Albumさんはなにか、図書館の機能を勘違いしていらっしゃるのではないですか。
- ところで、ドキュメンタリー作品が典拠として問題があるとすれば、その理由は、多くの場合言論活動の性格を持つために必ずしも中立的な観点に立っていない (特定の意見や立場を積極的に強調して紹介することも多い) からではないかとおもいます (学術論文とは違った作りのものなわけです)。しかし、ドキュメンタリーそのものは、十分に評判のよい制作者によって制作されており、アクセスの手段が確保されている (つまり「書誌」を確定できる) のであれば、検証可能性の観点からは資料として問題ないだろうとおもいます。ただし、紙媒体やとりわけ学術的な出版物よりは、中立性や信頼性の面で劣るでしょう。
- ネッシーや宇宙人のたとえについては、検証可能性について考えすぎてなにかおかしな方向に行っているとおもいます。落ち着いてください。 --Hatukanezumi 2007年8月24日 (金) 13:01 (UTC)
(インデント戻します)えーと。Albumさんのご意見についてはHatukanezumiさんに書いていただいた通りです。ただ、Albumさんが映像ソースを参照することに拒否反応を示すのは分らなくもありません。はっきり言えば、DVD化されていようが映像ソースは二次情報源としては問題を抱えているものが多いですから。たとえば『ダビンチコード』で使われた荒唐無稽なシオン修道会だって元はと言えばBBCのドキュメンタリー番組で有名になりましたしね。ただ、それは信頼性の見地から却下するべき問題であって、検証性の点で拒否すべき問題じゃないです。(「ネッシーがいた!」とか「宇宙人がいた!」いうナレーション付きのDVDについては信頼性の見地から却下でよいのでは。)
実際、最近のDVD化されたドキュメンタリーにはISBN番号もつけられて国会図書館で閲覧可能な状態になっているものもありますから(多くの公共図書館でも閲覧可能なのではないかと思われますから)検証性という点では、かなりのところまで来ていることは確かです。ただ「他所の図書館から依頼すれば該当部分だけコピーして送ってくれる」ところまではさすがに来ていないのでその点で、文献参照には劣っているというところでしょうね。たとえDVD参照が気に入らなくても、そこは認めるべきではないかと。
DVD化されたもので広く認められて信頼できるものというと例えばデイビッド・アッテンボローのドキュメンタリーなんかを思い浮かべますが、そういうものが公共図書館で閲覧可能でも「検証可能性」の立場から拒否するというのは、私にはちょっと考えられないです。もっとも、そういうDVDを参照せずともそのドキュメンタリーの元ネタ文献を参照するほうが検証可能性の度合いが上がるから文献参照を優先せよという主張は分ります。その場合でも「だからDVDを参照するな」という結論にはならないと思います。信頼性が認められて検証可能性がある程度有るのであれば、とりあえずはDVDを参照しておいて、元ネタ文献が見つかればそれに差し替えればよろしいのではないかと。そのくらいの考え方でよろしいのではないかと思います。
--おーた 2007年8月27日 (月) 14:01 (UTC)
少し、時間があいてしまいましたが、Albumさんからの反論は無いものと考えて宜しいでしょうか?「学術論文基準」云々の話はAlbumさんの誤解もあるかと思います。「そういう出典を引く場合はMLAなどのガイドラインが参考になるでしょう」ということを書きたかっただけで、「MLAでも引用できてるんだからWikipediaでもぜーんぶOK」なんてことを言いたかったわけじゃないです。そのあたりで誤解を招くような文章は直しますので、指摘ください。Wikipedia内のさまざまな編集で取り沙汰される「検証可能性」について文献と非文献の事例あげながら、なぜ「**よりも○○の検証可能性が低いと見なされるのか」という解説をしているだけです。--おーた 2007年9月17日 (月) 04:16 (UTC)
- 申し訳ないけれど、がっかりしているだけです。本当に。百科事典の編纂に、ドキュメンタリーの視聴による記述はNGです。それとも、私「Album」にDVDやドキュメンタリーの報道を元にした記述を無制限に許すのですか?それを考えてみていただきたい。私は東京在住ですから、国立国会図書館をはじめとした大規模図書館に出入りしていますから、所蔵の信頼おける映像を見放題ですよ。地方では入手困難なものを含めて。それらのDVDなどを視聴して、私がMLAなどのガイドラインを使ってバリバリ書いたとして、誰が検証するのですか?上京して何時間も出典部分が画面に出るまで検証のために誰かが画面を見続けるのですか?・・・百科事典は「情報館」では無いんです。--Album 2007年9月19日 (水) 15:44 (UTC)
- 是非、大幅な加筆をお願いします。情報館にするのではなく、百科事典として有用な記述で、その映像資料がもっとも信頼できるものであったり、そこでしか情報が得ることができなかったりするのであれば、極めて有意義な編集とみなされるでしょう。その情報に、本当に関心を持つ人であれば、国会図書館へ足を運ぶということは、それほどの苦労ではありません。国会図書館に所蔵があり、何という題で、何分頃なり何番目のチャプターであるかが書かれていれば、ある記述や映像を求めて網羅的に調査することと比べれば、はるかに容易に情報に辿りつき、検証することが可能なのです。もちろん、より入手しやすい、紙の情報源があるのなら、それも、出典または参考資料として挙げて頂けるとなおよいでしょう。--Ks aka 98 2007年9月19日 (水) 16:12 (UTC)
- では、手始めに「美しい国」の項目に、同概念の「象徴」とされる富士山の写真を掲載してもよろしいでしょうか?実験的に。出典は複数の動画ですけれども。それから「戦史」もののDVDによって、戦争を美化できますけれども。--Album 2007年9月19日 (水) 16:20 (UTC)
- その話はWikipedia:コメント依頼/Albumでやってください。 --Hatukanezumi 2007年9月19日 (水) 16:21 (UTC)
- 両方で続けてはいけないのですか?フェイズが違うと思うのですが。--Album 2007年9月19日 (水) 16:34 (UTC)
- えーと。なんかね、「その資料が検証可能かどうか」という問題と「その資料が信頼できるか」という問題がごっちゃになっているのではないかと。すでに書きましたけど、多くの公共図書館に所蔵されて閲覧可能な状態になっているDVDなら検証可能性はかなり満たしています。でも、そのことは「DVDなら無制限に出典にしてしてよい」にはならないでしょ?これも文案や、それに続く議論で書いたけどほとんどの映像資料は一次情報源だし、二次情報源になっていたとしても査閲を経ていないので信頼性には疑問が残ります。私でも怪しそうなドキュメンタリー番組のDVDを出典にしている記事にはクレームをつけますよ。だって、BBCのドキュメンタリーだって信用できないのがありますからね。--おーた 2007年9月21日 (金) 17:01 (UTC)
- (追記)国会図書館に1冊しか無いような本は出典にできるか?というと、これは出典にできます。ただし、百科事典にとっては良い出典じゃないですから、もうちょっとアクセスしやすい文献を探してそれを出典にすべきことも確かでしょう。それはどちらがマシなのかという問題なのであって、「これはダメ、それはOK」という二者択一の問題じゃないと思います。東京在住者にのみアクセスが圧倒的に有利な資料を出典にしてよいのか?という問いには、「他に見当たらなくて信頼性にも問題が無いならとりあえずそれを出典にしておいてください」としか言いようがありません。東京在住者以外にもアクセスが楽な出典が出てきた時点で、それに置き換えていくというのが現実的な運用なのではありませんか?--おーた 2007年9月21日 (金) 18:02 (UTC)
もう少し、続けてみましょう。ここでは、検証可能性の理解についての議論であり、Albumさんについての議論ではないと認識しています。ここでの議論を参照して、コメントをつけることは、あってよいと思います。
さて、ノート:美しい国の意見を踏まえて、出典とされる「複数の動画」がBBC製作のドキュメンタリーと同程度に信頼でき、その内容が「美しい国」と「富士山」を直接に強く結びつけているなら、掲載すべきでしょう。イメージ映像として使われている程度であれば、掲載する必要はないと考えます。また、戦史もののDVDを利用して、当時の戦争賛美を適当な項目に記述することは可能でしょう。より推奨されるべきは、当時のフィルムを検証した二次資料を基に記述し、その原資料として閲覧可能なDVDを対応させることになると思います。戦史もののDVDを素朴に受け止めて、当時の戦況を事実として記述するのは適切ではないと考えます。これら二つの例においては、映像ではなく、紙の資料であっても同様ではないかと思いますが、いかがでしょう。映像資料と紙の資料の違いが問題ではなく、個々の資料の信頼性の評価が問題になっています。あるいは、爆弾三銃士の報道を元に、事実として記述するのならばよい、という考えでしょうか。--Ks aka 98 2007年9月19日 (水) 16:38 (UTC)
- たぶん爆弾三勇士のことだとおもいますけど、その時代にウィキペディア日本語版があったら、主流の説として記述されるでしょうね。後世 (つまり現代) のウィキペディア日本語版では、爆弾三勇士の伝説が成立した過程が加筆されるでしょう。話がそれたかな。 --Hatukanezumi 2007年9月19日 (水) 17:13 (UTC)
- 失礼しました。三勇士です。当時なら、新聞報道などを信頼できる情報源として、事実として記載されたでしょう。書籍もいくらかでています。小野一麻呂『爆弾三勇士の真相と其の観察』の扱いを巡ってノートで議論、でしょうか。--Ks aka 98 2007年9月19日 (水) 18:38 (UTC)
- Ksさんの論点に賛成します。Albumさんが指摘するダメな映像情報というのは「検証可能性が無いからダメ」なのではなくて、「信頼性が低いからダメ」だとか「単なる一次情報源だからダメ」のような別の理由によるダメなのではないかと。そこの議論をはっきりさせないまま、何でもかんでも「検証可能性」を盾にとってダメを出そうとし続けるのはやはり無理があると思います。--おーた 2007年9月21日 (金) 17:11 (UTC)
- 失礼しました。三勇士です。当時なら、新聞報道などを信頼できる情報源として、事実として記載されたでしょう。書籍もいくらかでています。小野一麻呂『爆弾三勇士の真相と其の観察』の扱いを巡ってノートで議論、でしょうか。--Ks aka 98 2007年9月19日 (水) 18:38 (UTC)
専門家なり世間なりから広く受け入れられているわけではない資料に依拠して、その主張内容をあたかも主流派の説であるかのように書くのは、中立性の方針に反するように思います。信頼されている情報源であっても、その内容に即した記述が必然的に中立的な記述になるというわけではありませんから、この検証可能性や情報源の信頼性にだけ配慮して中立性を考えなくてよいという風に考えるのはよい案ではないと思います。
Albumさんの挙げている幾つかの例は、これらの方針は満たしているかも知れませんが、中立性の方針は満たさないことが明らかな例のように感じました。富士の写真の例についてはちょっとよくわかりませんでしたが。。
Tomos 2007年9月20日 (木) 08:53 (UTC)
- ウィキペディアの示す「中立」とは「両論併記」なので、例えば自民党の意見を書いたら共産党の意見も書く、というのがウィキペディア上の中立です。もちろん、富士山が「美しい国の象徴」だと明言する動画もありならば、共産党集会の動画も出典として、アリ、ということになろうかと思います。「もしも、動画を出典に認めるならば」、ですよ(笑)。(もちろん安倍の「美しい国」は過去の遺物と化しつつありますから、もはや百科事典的には、「その他の死語」と同様に、より抑えた記述で良いのではないかと思いますが)。--Album 2007年9月20日 (木) 14:29 (UTC)
- 安部内閣の提言する美しい国と風景などいわゆる日本情緒の美しい国とをはき違えてませんか?少なくとも安部内閣の提言する美しい国には富士は出てきません。--220.152.28.71 2007年9月20日 (木) 21:41 (UTC)
- 出てきます。現在、同項目においてコメント依頼をしており、第三者が集まれば披露すると明記しております。検証可能です。--Album 2007年9月21日 (金) 15:40 (UTC)
- 出典は他の執筆者を納得させる為のものではなく、読者に検証可能性を与える為のものです。記述を記事に加える段階で出さなければ意味を成しません。何を勘違いしているのでしょう。- NEON 2007年9月21日 (金) 16:50 (UTC)
- 「美しい国」のノートにおいて、「動画」により出典を提出しました。よろしければ、議論にご参加下さい。--Album 2007年9月30日 (日) 14:20 (UTC)
「美しい国」の動画出典は、検証可能性の要件に欠格があるとして棄却しないと同種の(動画出典の)編集が多発する可能性が予見されます。私には。--FXECG 2007年10月1日 (月) 07:23 (UTC)
- ウェブ上で誰でも閲覧できる状態にある動画は、十分に検証可能だと思いますよ。むしろ、なぜ検証可能性の要件を満たさないのかを教えていただきたいところです(もっとも、あれは検証可能であっても出典ではないので、出典としては認められないと思いますが)。--Tamago915 2007年10月1日 (月) 09:29 (UTC)
- Albumさんの提出した出典が完璧ではないことは当人も御承知なのだと思います。それでも全く無関係だともいえないので、出典として適正かどうかで議論が発生するわけです。そして、結果的に、富士山の写真は不適、という結論にでもなったら、ではそういう議論すらできないような、出典も何も無い記述、というのはどうするのだ、あなた方は甘すぎやしませんか、ということになります。--FXECG 2007年10月1日 (月) 15:02 (UTC)
(インデント戻す)富士山の件は美しい国で議論するとして、元の話題に戻します。
ごく少数の人しか確認ができないであろうことが予想される、あるいは確認に高額の費用が掛かるような出典を安易に認めた場合、この種の出典を挙げて検証可能性のハードルをクリアしたうえで全くのウソやデタラメを記述し、除去されるまでの時間を稼ぐ、もしくは誰も確認ができずに当該記述がずっと存在し続けるといった事態が予想されませんか。さらには「自分には検証できない」を理由に除去を行う人が現れたときに仲裁が難しくなりそうです。
多くの人がデタラメだと思うような「トンでも」記事ならまだマシで、むしろ、一見しただけでは何とも判断の付きかねるような「まことしやか」な記述だと一層ややこしくなるでしょう。
相互信頼を原則としたいですが、「これは常識なので出典などはなから不要」などという論理が通用するWikipediaになりつつあるように感じられますので、真っ赤なウソをつくような者に無力というのではいけない。--FXECG 2007年10月11日 (木) 10:30 (UTC)
検証可能性とは
[編集]「私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」とは一見わかりやすい原則ですが、具体的に考えたときどうでしょうか。
1.文献 出典が示されたとき利用者はそれが書籍でれば購入するか図書館などで調べるのでしょうか。では絶版になっていた場合はどうか、さらにその書籍が稀覯本だったらどうなのでしょう? 新聞記事であれば縮刷版を参照するのでしょうか。ではニューヨーク・タイムズの記事であればニューヨークの本社を訪ねるのか、日本支社へ行って、「この記事を検証したいので、コピーをファックスで送って貰いたい。」などと要望するのでしょうか。さらに日本に支局などないようなチリの新聞などを出典にした場合はどうなるのでしょうか?
2.実物は検証可能か 例えば、「日本橋の欄干は高さXXセンチ。」と記述した場合、だれでもスケールを持って日本橋へ行けば検証可能です。これはウィキペディアでいう「検証可能」に該当するのでしょうか。それでは対象物件が外国にあった場合はどうなのでしょうか。南極に設営されている昭和基地の食道の幅が何メートルであると云った場合は?
極端な例かもしれませんが、判りやすいガイドラインが欲しいです。--小金井猫(会話) 2013年2月6日 (水) 03:46 (UTC)