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Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive06

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除去されたオンライン情報

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印刷されたものであれば、改版で変更されたり、絶版などがあっても、図書館などの何らかの方法で検証可能な場合が多いと思いますが(国内の出版物であれば、最悪でも国立国会図書館には所蔵されている)、オンライン情報を出典とする場合、情報を発信していた会社が倒産や合併したり、その製品や情報が古くなったり、都合が悪くなったなどの理由で、対象の情報がサイトから除去されることもしばしばあると思います。基準をいつにするかによって検証の可否が違うわけですが、このような場合は検証可能と言えるものでしょうか。--Mujaki 2007年12月18日 (火) 16:05 (UTC)

検証可能性は、有無だけで決まるものではなく、より信頼できるもの、加えてアクセスしやすいもの、保存されているものを選ぶことも重要です。サイトの場合は、URLだけではなく閲覧/ダウンロード日時を明示することで、いつの時点で少なくとも執筆者は確認しているとことはわかりますし、適当なところにキャッシュの類が残っていたり、アーカイヴ化されていたりすることがあれば検索が容易になります。そのサイトがオフィシャルだったりするなら、情報の確実さの出典としてサイトを挙げ、保存性・安定性から紙の情報源でも同様の記述があると補うのが好ましいでしょう。検証可能性は満たすけれど、不確かな情報であるかも知れず、即座に除去する必要はないかも知れないけれど、内容の正確性に疑念が生じているのであれば他の出典を探すなどの努力が必要ではないかと考えます。--Ks aka 98 2007年12月18日 (火) 16:30 (UTC)
コメントありがとうございます。
すみません、第三者(?)として検証しようとしたときに示された出典(存在すれば信頼できる情報源であると仮定)が既になくなっていて検証が困難な場合にどう判断するのが適当だろう、という疑問です。昔はあった(現在は除去された)とされる内容をその時から時間が経過してからWikipediaに記載されたケースでその情報が掲載されたことが事実かを検証しようがないので疑わしいのかもしれない、そもそもその他のメディアでも言及されていないならWikipediaに記述する必要性も低いのかもしれない…とも、思ったりもしましたので。Wikipediaに書かれてから時間が経過して、結果として示された情報源などがなくなってしまったのならやむを得ないと思いますが。
情報を記載する時の注意点は、説明されたことに気をつけた方がよいと私も思います。--Mujaki 2007年12月21日 (金) 17:07 (UTC)
んーとね、個人的な考えになってしまいますけれど。自分も見た記憶があるなら実務的には残してもいいのかなと思う。集合的記憶ってやつは、ウィキペディアでは避ける方が望ましいですが、一筋の情報源が残されているのと、そうでないのでは、だいぶ違うと思う。検証困難であり、それ故に重要な情報ではないと判断して編集除去してもよいと思います。その場合は、除去したことについてノートや要約欄への記載があると、後でその内容に触れた本が登場したりすることもあるので、傍証的にその情報を生かすこともできる。振る舞い自体は、自分がその項目にどの程度知識があるかというところで、残す/削るの決断をしたり、触らない=残す/方針上妥当な対処=ノートなどへの記載して除去、またはノートで意見を求めるなど慎重な対応をしたり、というのを決めればよいのではないかと思いました。--Ks aka 98 2007年12月21日 (金) 17:41 (UTC)
  • Web版新聞記事では頻繁に公開停止(オフライン化)しますので、Wikipediaの出典にWeb版新聞記事を指定しているだけの場合は、しばしばリンク切れになっている事例が見られます。常識的な対応としてはリンク切れになったURLをWikipediaの記事から削除し、それ以外で追跡可能な情報源を(例えば○○新聞Web版○月○日)などと記載しておけば、これだけでは本来の意味での出典明記基準としては不十分でしょうが、他の検証可能な方の役に立つかもしれません(たとえば新聞縮刷版で同様の記事を発掘してもらえるなど)。--125.205.189.66 2008年1月7日 (月) 07:20 (UTC)

リンク切れになったURLであっても、執筆当時にそれを出典としたのであれば、そのURLを掲示しておくべきであるように思いますがどうでしょうか? 学術出版物などであれば、URLと、参照した年月日を記載しておきますから、それに準じて考えたのですが。。

もちろん、リンクが切れていることを問題にするなら、URLは記載するもののリンクではなくする、というような措置はあってもいいかなとは思うのですが。

Tomos 2008年1月7日 (月) 14:10 (UTC)

URLだけが残ってもほとんど検証可能性がないんで、記載するときにリンクだけしてすますのではなく、{{cite web}}にあるような「書誌」をひととおり記す、というふうにしたほうがいいとおもいます。そうであれば、リンク切れになったとしても、まったく無意味な情報になってしまいはしませんから、残った情報から別の情報源を探し出す手がかりになります。 --Hatukanezumi 2008年1月7日 (月) 14:39 (UTC)
書き方が悪かったかも知れませんが、基本的にHatukanezumiさんに同意見です。Tomos 2008年1月7日 (月) 14:57 (UTC)


執筆経験があまり無い人にとっての検証可能性

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検証可能性をめぐる議論についての堂々巡りを改善しようと、具体的な事例に絞り込んだ事例研究をやってみましたが、やはり堂々巡りしてしまいました。議論の前提がどっかで食い違っているなと考えて、Dwyさんの投稿履歴を拝見させていただきましたら。ううむ。そういうことか。

Dwyさんは、結構編集歴が長い方ですが、英語記事の翻訳と雑草取り活動とWikipedia空間での議論などは活発ですが、新記事を立ち上げたり、既存記事に大幅に手を入れてご自分で長文の執筆をするということは、やっておられない方なのですね。あるいは、他の編集者の方々と一緒になってプロジェクト的に記事を改善・執筆していくという活動に参加されたことが無いように見えます。そういうことなら、一連の言動は判るような気はしました。執筆者の気持が判らないんだな。

Nekosukiさんが上の方で書いているけど、「どうなれば検証可能性を満たすのか・どこまで書けばよいのか」は実は結構難しい問題です。執筆者は、ネタを集めながらどういう構成で記事を書けばよいのか、どういうスタイルで書くのか、色んなことを考えるなかで、検証可能だと読者が受け取ってくれる「程度」を探っていかなければいけない。「とにかく細かく出典を示せばいいじゃないか」というのは、執筆経験が浅い人の机上の空論だし、執筆者の能力や知力にも大きく制約される問題でもあります。

私は、それほど編集歴は長くないけど、まとまった執筆は何本かやってきました。で、検証可能性という見地からすると、関わった記事毎に対応はバラバラ。文献をきちんと収集した上で最初からがっちり出典明示して書いた記事もありますし、ノートで話し合いながら執筆した記事に対して時間が経ってから「出典が足りない」と招集がかかって出典を付ける作業に動員されたこともあります。参照文献を示しただけで済ませていたら、「ココとアソコは突っ込まれやすそうだからそこだけ文献明示したらどうか」というアドバイスを受けて、その通り対応したこともあります。あるいはアニメおたく達が荒らしに荒らした項目に対して、私の文芸史・芸能史の「常識」の範囲内で加筆したこともあるけど、文献がみつからないまま放置してある項目もあります。その後は荒れることが無くなったので、改善はしたという自負はあるものの、識者の出典加筆を待っている状態。とにかく、関係した記事にはそれぞれの事情があって、それぞれの記事なりに改善させる方向に皆でもっていくよう努力してきたつもりです。

で、「あの記事はそのうち突っ込まれそうだから、あの本は買っておいた方が良いな」とか「あの記事のあのあたりは、補強が必要だから調べておいたほうが良いな」とか、いろんなメンテナンス作業が発生していくなか、明らかにその分野の基礎知識が欠落していると思われる編集者が「検証可能性」の一語で文章を削除してきたら、「何も知らんコドモが手を出すな!」と腹の中で感じます。正直に言ってそう思うのだけど、それを言っちゃお終いだし、そういうことをされるだけの脇の甘さが記事にあることは認めなくちゃいけないので、削除要求者とごく穏便に対話をして、どういう改善が可能かをさぐることになります。

で、そういう執筆者の気持を理解して欲しかったけどDwyさんには理解していただけなかった。背景が違うから、そこは無理なのでしょう。だから、理解しろとは言わないけど、そういう気持があることは知っておいて欲しい。知った上で、たとえ検証可能性に関する指摘であっても、何が問題かを執筆者達にきちんと伝えるという手間をかけていただきたい。

ルーチンで記事を削除していく行為は、真面目に改善に取り組んでいる執筆者達に対して礼儀を失していることは判っていただきたい。その記事は、執筆者達の判断で合理的な別の方法で検証可能性を保証しているのかもしれないし、知力及ばず検証可能性に届いていないけれど、それなりの改善途中かもしれない。そして、記事が無い状態よりも多少不備でも記事を示すことで新たな執筆者を呼び込めると判断しているのかもしれない。原理原則を主張されるにしても、そういう執筆者達なりの思惑を無視する形でルーチン削除するのはコミュニティへの侮辱だと認識していただきたい。そのように思いました。--おーた 2008年1月30日 (水) 16:21 (UTC)

(上記おーたさんの御意見、ちょっと長くてきちんと理解できてないかもしれませんが)執筆経験の乏しい者は、それがある(と思っている)人の苦労が判らないのできれいごとを言うのだ、少しは執筆をしてみろということですね。苦労を知らない者のきれいごとはコミュニティーへの侮辱ですか。本気でそう思っておられるのであれば、あなたにはもはやここで申し上げることはありません(申し上げる資格が無いと言ったほうがよいのかな)。
おーたさんへは最後となりますが、特に、既存記事に加筆行為を行った場合、その部分に出典が無いだけで記事全体として信頼性が乏しいとみなされることもあり得るのです。それまで丁寧に執筆、編集をしてきた人達の努力を一発で台無しにする可能性を持つことを指摘しておきます--FXECG 2008年1月31日 (木) 01:00 (UTC)
「少しは執筆をしてみろ」とは書いていませんし、断じて言いません。執筆はしないけど、編集で参加する立場は認めるのはWikipediaの大前提だと思っていますから。その上で言いたいんです。お気軽なルーチン削除は、まじめにやっている執筆者たちを苛立たせる可能性があるんだということを。ある記事のことを心配していただけるのなら、ある記事を良くする事を考えるのなら、まず既存執筆者との対話をお願いしたい。それだけです。対話に応じない執筆者に対しては、皆さんのノウハウを駆使して、やりたいようにどうぞ。それには文句はつけません。--おーた 2008年1月31日 (木) 03:34 (UTC)

『「とにかく細かく出典を示せばいいじゃないか」というのは、執筆経験が浅い人の机上の空論だし』と言ってはばからない人には、いくらでも記事が書ける。「検証可能性」の方針をまじめに受け止めて、半端な記事を書くべきでないと信じている人には、執筆経験が積めない。私から言わせれば、単にそれだけのことです。私としては、いつか自分の時間が自由に使えるようになったときに、図書館に1年くらい通いつめて、まとまった記事を1本か2本書いてみたいと思うけど、今の状況ではそうも行かないから、「検証可能性」の縛りの中でできる範囲内のことで我慢しているわけです。(完璧に遵守できているという自信はありませんが、少なくともルールをあからさまに踏みにじるようなまねはしていないつもりです)

「検証可能性」の方針を字義通りに実行することが、そんなに難しいことなのでしょうか?英語版では普通にやっている(100%ちゃんとできているわけではないかもしれないが、少なくとも守るべきルールとして誰もが尊重している)のに、こちらでは「机上の空論」なんでしょうか?執筆経験の少ない私には、そこのところが、どうしても理解できません。

それから、「まず既存執筆者との対話をお願いしたい」についてですが、既存執筆者の方は、自分の記述に疑問を指し挿む人に対しては、『「何も知らんコドモが手を出すな!」と腹の中で感じている』わけでしょう?よほど人格ができた人でなければ、そんな思い上がった心持ちの人と対話なんかしたいと思わないし、仮に対話を試みたとしても上手くいくわけがありません。

「何も知らんコドモが手を出すな!」
「そういうあんただって、所詮は素人だろうが!」
「専門家が10人読んで誰も問題を感じない記事に対して文句を言うときは、礼儀をわきまえろ!」
「ほう、おもしろい!その専門家とやらが何と言っているか、確たる証拠を出してもらおうじゃないか!」

となれば、結局「検証可能性」に戻るわけです。だとしたら、上に書いたような醜い「対話」は、すっ飛ばして、最初から「検証可能性」を要求する方がよくありませんか?--Dwy 2008年1月31日 (木) 17:13 (UTC)

私としては、以上で言いたいことは全部言ったと思います。というか、同じ事をずいぶん繰り返して何度も言ってしまいました。これ以上付け加えることもそんなにないと思いますので、誠に勝手ではありますが、後の議論は他の方にお任せします。疲れました。ごめんなさい。--Dwy 2008年1月31日 (木) 17:23 (UTC)

セカイ系の改稿とローカルルールの設定に尽力されたおーたさんが、どうしてDwyさんやFXECGさんとここまで対立することになるのかよくわからないです。将来的には、すべての記事に最低でもこのレベルで出典が付いて、出典なき加筆はいちいちローカルルールを設定しなくても問答無用で差し戻して誰にも文句を言われないのが当たり前になってほしいと思っています。

現状ではセカイ系アメリカ同時多発テロ事件陰謀説のように「出典を加筆→ローカルルールでWP:Vの厳格適用を宣言」のような手順を踏む必要があるのは仕方がないかもしれませんが、それをWP:Vのほうで明文化すべきだとは思いません。本来、除去する側に出典を示す義務はないからです。

現状で「問答無用で差し戻し」だけを採用したらほとんどの記事が白紙化されてしまうわけで非現実的なのは理解できますが、だからといってルールの方を緩和してしまっては目標から遠ざかるばかりで本末転倒だと思います。--emk 2008年1月31日 (木) 19:26 (UTC)

emkさんの指摘は「おまえのここでの主張は、おまえがセカイ系でやってきたことと矛盾して無いか?」ということだと理解しました。以下、釈明しておきます。
私の執筆歴の中で、セカイ系はかなり上手く行った方です。言葉の歴史自体が浅いものの、(Webではない)文献収集は簡単にできましたし、それを使って文章をまとめるのもそれほど苦労はしませんでした。ここまで書いておけば、あの記事の過去に起こった「独自研究合戦」を断ち切ることも可能だろうと判断して、かなりきついローカルルールも導入できました。私の改稿に対する反感はまだ消えていないようですが、あの状態になれば誰かが独自研究を書き込んでも、スムーズに議論して除去できるようになったと思います。
ただ、私はサブカル系で他にも大幅改稿した記事があるのですが、どうにも出典が揃わないという事例も多々あり、誰かが「独自研究だから削除しろ」と言い出したら正直ややこしくなるだろうなと思っている記事が数件あります。出典が揃ってないのに、私がその記事をそのままにしている理由は「無いよりマシ」だからです。
全面的な削除になれば、アニメおたく・マンガおたく達が白紙状態から、ぐちゃぐちゃと書き出すことは目に見えるのです。それよりかは、ある程度の文芸史的・芸能史的常識に沿って記事を構成しておけば、おたくたちによる「トリビア集」に発展することは少なくとも抑制できるのではないか。そう考えて改稿しましたし、現にそういう記事はその後、大して荒れませんでした。そして、私の「常識」もクレームを受けていないので、そこそこ認められる程度の記述だったのだろうなと胸をなでおろしています。
もちろん、そういう記事はそのままで良いわけがありません。どなたかから出典が出れば、それに沿って書き換えていただきたい。出典に使えそうな文献に私がぶち当たったら、私が再改稿します。ただし、それまでは「とりあえず」の記事で行くしかない。その意味で私は現実主義者ですし暫定主義者でもあります。--おーた 2008年2月4日 (月) 15:18 (UTC)

「自分でブックレットを取り寄せて調べる意欲も能力もない」などと言いながら議論を吹っかけてくる方には「機械的に削除しないで執筆者と対話を」という提案は理解も納得もできないでしょうなぁ。あと、ルールを緩和しようなどと言う提案も見当たらないんですけど、どっかにありましたっけ?

前に指摘したとおり、問題の本質はルールの問題と言うよりコミュニケーションの問題なんですよね(ネタにされた当人が言ってるんだから間違いない)。それぞれの考える落としどころと違うところに本質があるので、理解できない人はいつまでたっても理解できない、それだけの話です。--Mt.Stone 2008年1月31日 (木) 23:43 (UTC)

えーと、上のおーたさんの議論展開というのはいただけないな、と私も思います。検証可能性に関しては、私はおーたさん(その他、おそらくKs aka 98さんとか、Nekosuki600さんとか、Tomosさんとか)と近しい考え方をしていると思うのだけど、これは「信頼性のない記述を書きまくる行為」も「出典がない記述を消しまくる行為」もどちらも牽制し、両極端は排除しなければならない、というスタンスなんですね(その中でもどちらかというと「除去しない側より」と言った方がいいかな?)。そういう立ち位置から見ると、上のおーたさんの意見と言うのは(対立論への反論なんでやむをえないと感じる部分は大きいのだけど)「信頼性のない記述を書きまくる」人たちにも濫用されかねない論理なんです。だから同じようなスタンスにある私は(あるいは、同じ側に立っているからこそ)、「信頼性のない記述を書きまくる連中」を調子づかせないためには、そのおーたさんの意見に反論せざるを得ないわけでして。
ただ、おーたさんの「気持ち」はよーくわかるし、心情的な部分を言えば、私も含めて多くの執筆者が感じるものなんだと思います。要するに、そういう部分が「出典のない記述をいきなり除去する」ことに対する反発になっているし、記述を除去するというのは「自分自身がそういう『執筆者の心情』というか『他人の心の痛み』を理解できない人だからにできることに違いない」と思うのは、心理的に仕方がないことだろうと思います。実際、私がそうされても、そういう「執筆者の心がわからない人がやった」んじゃないか、という思いは、まぁ100%ではないにしろ、そういう可能性をいくらか疑い思いはいくらか生じることでしょう。
でも、そういう思いというのは、もしかしたら「信頼性のない記述を書きまくる人たち」も、同様に持っているかもしれない。いや、むしろそういう人たちにはWP:GAKIと呼ばれるような人も多いだろうから、自分を正当化するため記述を削られたことに対する「反論」を求める度合いが高いんじゃないかと思います。「せっかく書いた内容を削るなんて!コイツは執筆の何たるかがわかってない」ってのは、まさにそういう反論の典型的なものじゃないかと。私は、WP:GAKIがそう反論するのを受け入れられないのと同様に、おーたさんの上の意見も受け入れられないし受け入れるべきではない、と考えます。要は、確かに「心情的な問題」に根ざしていることだし、そこを波風立たせないような「コミュニケーション」は大事なんだけど、それ「だけ」で解決しようというのは無理がある、と。
で、まぁDwyさんに関して言うとですね…んーと、Dwyさん個人を批判するつもりはなくて、ある意味「除去する側の人」と相対したときの実例みたいなものなんだと思うんですが…私は一年前と比べると、Dwyさんが随分「除去しない側」に理解を示していただけるようになったな、という印象を持ってます。もし、ここで行って来たような対話がDwyさんのスタンスを変化させるのに少しでも役立ったのであれば、ここの長い議論も全部が全部無駄なものではなかったのかな、と感じたりして。ただ、元々のスタンスが「記述の除去」から入っているためか、未だに「検証可能性を満たす」方法として「記述の除去」をまず取り上げる、という傾向が残っているように感じます。多分、これはDwyさんに限らず「除去する側」あるいは「記述除去厨」に共通してみられる傾向じゃないかと。
これも実は一年前にDwyさんやAlbumさんと議論したときから言いつづけてた(なんかこういうと、Dwyさんと比べて私の方は進歩してないような気がするけど)ことなんですが、「記述の除去」は「検証可能性を満たす」ための方法のうちの一つでしかありません。しばしば「記述除去厨」と呼ばれるような「出典のない記述を消しまくる人」も「検証可能性を満たさないから消した」と、自分の行為を説明(ないし釈明)するようですが、その理屈は必ずしも正しくない。なぜなら選択肢としては「検証可能性を満たさないから、要出典タグをつけた」「検証可能性を満たさないから、ノートで説明を求めた」などの『手段』もあり得るわけで、記述の除去という『手段』を選んだ理由としては、不十分なんですね。逆にもし、記述の除去という手段の方をそのままにして、それに見合う『理由』を挙げるのであれば「『デタラメ』(pseudo-infomation, 偽情報)だから除去した」という論理であれば、それは正しい理屈だと言えるでしょう。
この「デタラメ」って表現は、上でTomosさんと議論してたときに出てた、「出典が存在することが極めて疑わしい、信頼性のない内容」を指してます。Jimboが言ったところの"pseudo-information"(偽情報)ってやつです。以下、私の文中では「デタラメ」をそういう意味で使います。「真偽」の「偽」だと、NPOV的観点と紛らわしくなりそうなので(まぁ「デタラメ」と「偽」の不可分性についての議論もありますけど、ここではオフトピックということで)
しばしば「除去側の人」が持ち出すものに、Jimboの発言の「pseudo-informationに要出典タグを貼るのは間違っている。pseudo-informationは直ちに取り除かれるべきである」ってのがありますが、これはつまりこういう「デタラメ」についての対処を言っていることなんですね。出典がそもそも存在しない記述に、「要出典タグ」を張って待ったところで、出典が出てくるわけでもなく、そんな対処は時間の無駄でしかない。ただし、これは「出典が存在しない」ってのが明らかな、あるいはその可能性が高い「pseudo-information」への対処について言ってることであって、「出典が明記されてないだけの」記述全部について言ってるわけではない。出典が明記されてない記述全部が「デタラメ」というわけではなく、まだ示されてないだけのものもあれば、別の理由で出典を明記してない(出典明記の例外が主張されうる)ものも含まれている…というより、そっちの方が今はまだ多いのが現状なわけです。そういう「デタラメ以外のもの」に対して、もし誰かがいきなり記述を除去してしまったら、そして後から出典が示されてその記述が確かに「デタラメでなかった」ことが判明したのであれば、結果から見るとそれは「いきなり除去した」人の行為の方が間違って「いた」し、その人の行為は一時的に「記事を破壊した」ことにもなるわけです。要するに、いきなり「記述を除去する」ということは「私はその記述がデタラメだと判断した」と言ったものと思われても「仕方ない」(「検証可能性」の要約風に言うならば「文句がいえない」かな? ;P)行為なんですね。だから、そういう行為を乱発する人には、「オマエは自分がやってることを、他人が書いた記述が『デタラメだ』と断じていることだ、という自覚があるのか?」と感じてしまうこともしばしばあります。
ただし、もちろん適切な判断材料が乏しい(出典が示されてない)段階では、そういう「デタラメかどうか」の判断を下すのは難しいし、間違ってしまうこともままあるでしょう。「結果から見ると」なんてのは、出典が出された後から言えることであって、それ以前の、情報の乏しい段階にはどっちが正しいかなんてわからないことがままある。だから、そういう「判断を下した状況」を考えずに、結果だけ見て「ほれ見ろ、お前は記述を削ったけど、間違ってたんじゃないか!」と責めてはいけない。しかし逆に(多分Dwyさんはこの立場だろうけど)「そもそもお前が出典を最初から付けてれば問題ないんじゃないか!」というのも、よくないと思うんですね。削る人には「記述を除去するか、それとも他の対処をするか」という選択をする余地があったのに、「記述を除去する」という対処を選んだということ、自分の判断に対しては「責任」がある。それを棚に上げて、相手だけ責めるのはある意味「開き直り」でしかないです。つまり、そういう結果になったケースでは「最初に出典を付けなかった方」にも落ち度があるし、「いきなり記述を除去するという選択をした方」にも判断ミスがあるわけです。自分のミスを認めるというのはとても難しいことなので、この手のケースでは相手の落ち度だけを責めたり、別の方向に話を逸らしたりして議論になることが多い。これが、検証可能性の議論を巡るいざこざの原因にしばしばなっているのだろうと。双方が自分の瑕疵を認めることができれば(これが結局コミュニケーションの一番難しい部分だろうけど)、大抵の問題は解決するのになぁ、とか思ったりするわけです。
で「記述の除去」についていざこざが起こったとき、しばしば問題になるのは、除去する人が「検証可能性の確保」イコール「出典のない記述を除去すること」と認識してることなんだと思うわけです。これも一年前の議論から指摘してたことなんですが。「検証可能性」というのは『目的』(厳密に言うと、より大きな「信頼性の確保」という目的を満たすための小目的というか)であり、『出典のない記述の除去』というのは、その目的を満たす『手段』、それも複数ある手段の一つに過ぎない、ということが、上手く伝わってないのではないかと。で、そういう「上手く伝わってない」「記述の除去という一手段だけが偏重されてる」理由は何なんだろうな?と考えたときに、「検証可能性」の要約として掲げられてる文章が、やたら「記述の除去」だけを印象づける文章になってるからなんじゃないか、と思ったわけです。で、一年前の議論で、上で再掲したような「修正案」を出した、という風につながっていくんですが。
こういう「検証可能性」から即「記述の除去」に結びつけて考えるのはよくない、というのは、一年前にAlbumさんやDwyさんら「除去する側」の立場であった人に言った言葉でもあったんですが、今回の議論では、おーたさんの意見の中でも混同が見られるように思いました。ここらへんは結構重要な部分に当たるので、できるだけ丁寧に分けて議論していただければと。「執筆者側」から言うと、除去する人が「デタラメ」な部分をばんばん削るのには当然文句を言うつもりもないし、むしろどんどんやってくれ、とすら言いたい。けれども、それが本当に「デタラメかどうか」という判断には、当然責任をもっていただきたい(当然、何の責任も伴わない行為はないんですから)。もちろん人間は間違いを犯すものなのだから、判断を間違ったって構わない。けれど同じ間違いを何度も繰り返さないようにしなければなりません。「デタラメかどうか怪しいと思うんだけど、自分には判断が付かない」という部分については、まず何らかの形で「指摘」してくれ、ということですね。そして「いきなり除去」をそういう指摘の代わりにできるとは思わないで欲しい。Nekosuki600さんの言うように、それは「対話を試みようとしない」という点からいうと「対話拒否」に相当するコミュニケーションの欠落だろうと、私も思います。--Y tambe 2008年2月1日 (金) 03:13 (UTC)
Y tambeさんの御意見、ツマミ食いで思ったことを書きます。
「消しまくり」と「書きまくり」が両極端にあるというのは観念的にはその通りだと思うのですが、両者を放置したときの、あるいはどちらかが消滅したときの結果を考えるとやや異なるのではないかと思います。
ある記述が出典の無いことを理由に除去され、後日それが出典付で復活したというケースで、タグ付けその他の選択肢を採らなかったことでその期間有用な記事を読者の目に触れさせなかったというのが除去者のミスだというのは無理がありませんか。百歩譲っても選択を誤ったという「ミス」でしょう。一方で出典無しの記述をするということは、他者からは信頼性があるかないか判らないのですから、そのことで記述部分、いや記事全体の信頼性を貶めているわけで、さらにはいつまでもそのままで存続し続けるという危険性もあります。しかも出典無しの記述はいけないと知っていて敢えてやっているのだとしたら、それは「ミス」では済まないと考えるのは間違っていますでしょうか。
また、両者のコミュニケーションの問題・欠落といわれますが、基本方針のどこをどう読んでも出典無しの記述で構わないとは書いてない以上、「少しだけ待ってくれ」「一生懸命書いたものだから、除去だけは見逃してくれ」的な懇願ベースの遣り取りを超える議論は発生するとは想像できません(例外として、「これは公知の事実だ」というのがあるかもしれませんが、これは「公知」に関して議論の余地がありそうですが、今私の頭の中で整理できていませんので横へ置かせてください)。削除厨の活動を現在に比べて抑制しようとしたら、何らかの形で検証可能性を犠牲にしなくてはならないのは必至であり、つまりそれは方針自体の改正を避けては通れないのではないかとも思います。
執筆を主としている方々には苦々しいことかもしれませんが、「除去厨」はある一定の割合で存在していることを是認していかなければならないのかと思います--FXECG 2008年2月1日 (金) 09:35 (UTC)
んーと、私もFXECGさんのコメントを読んで思ったことを書きますと、私はいろんなケースというか「対象」を細かく分けて議論しているのに対して、FXECGさんはもう少し大雑把な分け方で議論している部分があるように感じました。こういう議論では、「その言葉が指しているもの」が異なることによる、意見のすれ違いが生じがちなので、そこらへんをまず補足しといた方がいいのかな、と。
  • まず一点目として、FXECGさんが使ってる「出典なし」という表現は、どうも私が言っているところの「典拠に基づかない(=デタラメな)記述」と「出典を本文中で明示してない記述」という両方の意味で語られているように思いました。なので、一意な言葉として意味を取った上で議論することができないというか、そこが上では一番大事なポイントなんで区別して読んで欲しかった、というか。前者はもちろん即刻除去されるべき記述ですが、後者についてはケースバイケースで(要出典タグを貼るとかも含めて)対処すべきものであるため、ここでは、まず両者を明確に区別して話をする必要があると思ってます。この違いは、それぞれ元を辿れば、上で別の議論でも述べた、「検証可能性」と「出典の明記」という、二つの方針の違いに行き着くだろうと考えてます。「検証可能性の例外」は(例外のないものはない、という観点から例外そのものは存在するとして)極めて限定されなければならないのだけど、「出典の明記」の例外に該当するものはそれよりも少し幅広く認めた方がいいだろう、と。これ、実は逆から言うと「出典の明記」と「検証可能性」を別の問題として切り分けて考えることで、「検証可能性の例外」を認めなければならないケースを激減させることが可能だと考えてまして。そのことで「検証可能性」が基本方針として「硬い」、つまり例外が(あまり)存在せず、揺るぎない堅牢な方針となるんじゃないかと考えてます(そもそもウィキペディアでは「出典明記」のための方法論があんまり練られてない部分もあるので、そういう「練り込み」の足りない部分が落し穴になりかねん、と)
  • 二点目として、私は「除去する側」に位置する人と、「除去厨」というのは、区別されるべきだと考えてます。丁度「執筆/加筆する側」に位置する人と、「加筆厨」を区別すべきなのと同じように。まぁ厳密に言うと、どちらも「その行為を行う人」という形で(いわばレッテル貼りのような形で)「人」を中心として考えるべきではなく、あくまで「編集内容」を中心に考えるべきなんでしょうけど、まぁここでは、いわゆる「厨」な、記述除去/加筆を連発する人が、それぞれ「除去厨」「加筆厨」ということで(なお、Dwyさんが上で「削除厨」という言葉を使ったので「厨」という語を継続的に使ってますが、私はDwyさんが「除去厨」だとは思ってません)。私は、執筆者側に近い立ち位置にある者として「デタラメな加筆を行いまくる加筆厨」の存在を「是認」しようとは思いませんし、是認して欲しいとも思いません。それと同様に、もしFXECGさんが除去する側に近い立ち位置におられるのであれば「デタラメでない記述を除去しまくる除去厨」の存在を「是認」はして欲しくないなと思ってますし、私も是認しようとは思わないんですね。いや、ま、FXECGさんが万が一「除去厨」も含めて、皆「除去する側」の仲間同士、全部まとめて擁護するぜ!とか考えてるのであれば、私も考えを改めて、対抗しないといけないんだろうけど(笑)
  • それから三点目として、まるっきり上の繰り返しになるんですが、FXECGさんのコメントを読むと「要出典タグを貼る」という発想がまったく伺えないあたりが気になるんですね。だから全部が全部を「記述の除去」で対処しようとしか考えてないというか、「まず除去ありき」で考えているというか、そういう風に見えたりします。多分、コメントのうち一番の関心事である「その一部分」をツマミ喰いしたからでしょうし、まぁそれはあんな長文投下した私の責任なんですけども、そこが上の私のコメントのポイントでもあったわけでして。こういった「場合分け」についても、一度考えていただければなあ、と思ってます。--Y tambe 2008年2月4日 (月) 13:17 (UTC)

おーたです。誤解も多々あるようなので、私の現在のスタンスをまとめておきます。私は「確認:「出典不明示は削除」は、オールマイティな規定ではない」でY.tambeさんが提案されている、「冒頭のまとめ文の修正案」に賛成しており、それ以上の改正を求めていません。(ついでに言えば明確な反対者がいないのだから、修正を進めていいと思います。)そして、そのルール適用にあたって「検証可能性を盾にとってルーチンワークで削除することは避けよう。Wikipediaの5つの柱であるWikipedia:礼儀を忘れないに則って、既存執筆者との対話を試みる程度のことはしよう」と言っているだけです。

ところが、Y.tambeさんによれば、私の論法は「「信頼性のない記述を書きまくる」人たちにも濫用されかねない論理」なのだという。この指摘は、私も重く受け止めて反省する必要があると思いますが、ここではとりあえず誤解されているらしい私の考え方を釈明させていただきたいのです。私もまた「信頼性のない記述を書きまくる」人たちへの抑制は必要だし、そういう人たちを諦めさせるために(あるいはお引取りいただくための)「検証可能性が欠如していることを理由にした削除」は必要だと考えています。Y.tambeさんはじめ、多くの人が指摘するように「信頼性のない記述を書きまくる行為」も「出典がない記述を消しまくる行為」も似たような行為だし、両者は等しく抑制すべきです。私自身も、ゴミ撒き屋さんの文章をかなり強引に除去した過去はあります。

ただ、「私が分かっていないだけで、実はそこそこ根拠ある記述だった」という可能性が無い訳じゃありません。そういうリスクは、減らす意味で「この記述は問題あると思うんですが?」という対話のステップを入れておくことは必要なんじゃないかと思うのです。で、「検証可能性」という五文字だけで機械的に削除している人は、その辺りもうちょっと考えて欲しいと思うわけで。Y.tambeさんが指摘するように「いきなり記述を除去するということは「私はその記述がデタラメだと判断した」と言ったものと思われても「仕方ない」行為なんです」。そうであれば、リスクを回避する意味で執筆者に声を掛けてみるという手続きはやっておいたほうが良いし、その手間を省くのは良くないと私は思います。

その程度で「ゴミ撒き屋さん」を利するとは思いません。むしろ、一度声をかけた方が、ゴミ撒き屋さんの正体ははっきりすると思う。そして、強引に記事を排除しても構わないと判断できれば、「Wikipedia:検証可能性ぐらい読みなさい」と書いて排除すればよいと思います。履歴から見てゴミ撒き屋さんだとはっきりしているなら、それを告げて排除すればよろしいですし。こんなことを書くのは、私の修羅場体験が少ないせいなのかも知れません。しかし、私は「出典がないことのみを理由に、自分の気に入らない記述を除去する」行為には胡散臭さを感じます。対話するのを邪魔臭がっているのか、勇気が無いようにも見えます。

今回、一連の長い議論を経て感じるのは、「どれだけコミュニティを信頼できるか」ということです。「検証可能性の削除条項をルーチン運用すれば、Wikipediaの質は向上する」というような人間不在の主張がどうして前面に出るのか、私はずっと分からなかったのですが、削除原理主義の方々には執筆経験が乏しい方も珍しく無いらしいということを知って納得できたような気がしています。「コミュニティへの信頼」とはまた別の視点から参加しておられるのでしょう。私は、Wikipediaの参加者たちが形成している執筆者のコミュニティーを素晴らしいものだと思っていますし、このコミュニティーがあってこそWikipediaはここまで発展できたと思っています。で、削除が適当と判断したにしても

  • 機械的な削除は「私はその記述がデタラメだと判断した」と執筆者のコミュニティーに告げているのに等しい、
  • だからそれ相応の覚悟はするべき、

Y.tambeさんが指摘された、まさにそのように編集者の方々が認識していただければ私としては何の文句もありません。--おーた 2008年2月4日 (月) 15:18 (UTC)

(Y tambeさん)昨年10月にこのノートでDwyさんが引用されたジミー・ウェールズの言葉を敢えてもう一度引用します。
「ある事柄が本当に正しいかどうかの有効な判断を下すのは、我々にはたいへん困難です。ある人が提唱する物理学の新しい理論が正当なものであるかどうかを我々が決めるのは適切ではありません—我々はそのような判断を下せるほどの専門知識は持ち合わせていません。しかし、我々はその理論が評判の良いジャーナルや評判の良い情報源を通して発表されているかどうかは、確認できます。ですから、適切な判断能力を備えた人々によって信用できると判断された物事に単に依拠することにより、ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです。歴史(学)についても全く同じ原則が当てはまります。(Wales, Jimmy. "Original research", December 3, 2004)
(一点目)ある記述が「デタラメ」だから削除してよい、とか、「出典を本文中で明示していない(だけの有用な)記述」なので存続させるべき、の判断を、そこに集まったたかだか(自称専門家)数人で行ってよいのかを考えると、どうしても肯定できません。これら二者を「区別して話をする」こと自体ができないのではないかと。だから両者ともに「大雑把」に「出典の無い記述」としか言いようがありません。出典一つ提示する方がよほど簡単(便利)なのではないかと思うのです。
(二点目)「デタラメ」な記述を削除するのが「削除する側に位置する人」で、有用な記述でも何でも削除するのが「厨」だと区別することは、上記の通り「デタラメ」かどうかを判断すること自体ができないだろうと思っている以上、できないのです。「厨」に出くわして、ほとほと困られた御経験を持っておられるのかもしれません。しかし、「厨」だけを正確に分離抽出する名案はなさそうなので、個別ケースで「厨」(と思われる者)をブロック依頼か何かで排除しようという動きがあれば、私は賛成する前にまず「(厨被害者は)出典を出し得なかったのかどうか」を考えるでしょう。そういうのが「擁護」とお考えなのであれば仕方ないです。
(三点目)私は「要出典タグ付け」は有用であると思っています例えばこれ。「出典を本文中に明示していない記述」を見かけたら、(除去ではなくむしろ)まずタグ付けをするでしょう。しかし、その後に誰かが(タグごと)記述を除去してしまったとしても、「タグ付けて充分なのに除去はやりすぎだ」とは言えないと思っています。言えるというルールを作らない限り。しかしそのルールは、何らかの形でこのWikipediaの信頼性を損なうものになるだろうから積極的には賛成できないのです。--FXECG 2008年2月5日 (火) 11:08 (UTC)

どこまでが要出展タグのいらない「常識」なのか

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キムワイプの「目的外利用」の項を読んでいて思ったのですが、この「目的外利用」の項に書かれていることはキムワイプのノートに私が書いたとおり「キムワイプを扱ったことのある人間にとっては常識」「実際に使ってみればわかる(実際に検証しようと思って鼻をかんで鼻が痛くなった人間がいる)」というレベルであり、ここに明記されている「信頼できる出展元」が存在しません。ですが、「眉唾」「本当にそうなのか疑わしい」という情報でもないようです。こういった場合、「常識だから」という理由で出展元を明記しないことは許されるのでしょうか?出展元を明記するのが不可能なので、このまま「情報源を求めています」と書かれ続けるのもわびしい気がしたので・・・--Yamagashi 2008年2月5日 (火) 15:36 (UTC)

項の名前を変更しました。--Yamagashi 2008年2月5日 (火) 15:56 (UTC)

まず、その記述が百科事典に載せるに値するのかどうかから、考えてみるのはいかがでしょうか。ある製造物が製造者が意図した以外の使われ方をして問題を生じること自体は、あまりにも当たり前すぎて記載には値しません。履物として製造・販売された下駄を卓球のラケットとして使用すれば多々問題がありそうですが、そういうことをいちいち百科事典に書く人はいません。
今回の件では、キムワイプを鼻かみに使用することが健康被害につながると認知されている程であれば、確かにそれは百科事典で書いておく重要度が生じていると思います。この場合は、製造元なり公的機関からの警告・注意が出ている筈ですが、それは無さそうです。つまり現時点では、そういう書き方はできません。
しかし「キムワイプ」と「注意」という2語で検索してみたところ、「キムワイプで鼻をかむな」と注意された体験事例はぽちぽちと報告されています。学生時代に経験されている方は、結構いっらしゃるようで。ですから、そういう一次情報があるということまでは辛うじて書けると思います。ただ、Wikipediaが引用すべきなのは二次情報ですから「情報源を求めてます」と書かれ続けるのは止むを得ません。--おーた 2008年2月6日 (水) 15:12 (UTC)

方針への疑問 - 「アップルパイ」は信頼できる情報源か?

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  1. ここの「方針」では、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきだとされています。
  2. ここの冒頭では、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけ とされています。
  3. Wikipedia:独自研究は載せないでは、「考古学的な人工遺物」や「アップルパイ」のような物自体(=一次資料)に基づいた記事も書けるとされています。

私の考えでは、1と3は明らかに矛盾しています。そして、「アップルパイ」のような物自体も「信頼できる情報源」であると考える事で、2と3は両立すると思っています。皆さんはどのようにお考えでしょうか?--Kickaha 2008年2月9日 (土) 15:25 (UTC)

  • アップルパイの事例は「分別のある大人なら」容易に二次資料を発見することが可能だと認識できるものは、一次資料にのみ基づいた投稿の体裁になっていても(例外的に)許容されるでしょう、という文脈ではないですか?--125.205.189.66 2008年2月9日 (土) 15:44 (UTC)
WP:NORの一次資料と二次資料の節では、アップルパイのような例外以外でも、一次資料に基づいて記事が書けるとされていると思います。--Kickaha 2008年2月11日 (月) 09:01 (UTC)
例外は、最後の段落の事だと思っていましたが、「一次資料と二次資料」の節全体が例外だという事でしょうか?--Kickaha 2008年2月11日 (月) 09:49 (UTC)

検証可能性の方針は、全体を読めば、信頼できる情報源ではなくても、記述の方法をわきまえれば、記述はできると書かれていると思いますよ。

ある建築物やアップルパイのような一般に入手が容易で、おおむねその様態が同じ(ような)ものとして認知されているものの場合は、「そのもの」を見ながら書いても問題は生じにくいでしょうし、意見が食い違っても対話は可能でしょう。「アップルパイのようなもの自体」は、「信頼できる情報源」ではないとしても、「信頼できる情報源」に近い扱いができる、ということは言えるかもしれません。ただし「物自体」が常に「信頼できる情報源」にはならないと思います。--Ks aka 98 2008年2月11日 (月) 10:11 (UTC)

たしかに、あの節だけにこだわり過ぎていました。向こうにも「他の信頼できる情報源によって発表された事柄のみ」という表現がありましたね。こうなると、向こうでお尋ねした方が良かったかも……。「直感的にはアップルパイを情報源とはみなしにくいけど、そう考えないと両方針の両立を自分には理解できない」という事がこの節を立てた主旨ですので、「信頼できる情報源」に近い扱い という言葉で少し納得がゆきました。「公表・出版している内容だけを書くべき」という表現にはまだ疑問がありますが、もう少し考えてみたいと思います。
(125.205.189.66さんへ)ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません などの文章です。--Kickaha 2008年2月11日 (月) 11:51 (UTC)
言葉遊びに近いですが、アップルパイ自体は一次資料で、ただ、それと類似したアップルパイがたくさんあって、完全に同一ではない。でも、そこは多少目をつぶれるし、つぶっても、変にこだわらなければ論争には発展しないだろう、あるいは、どこそこのアップルパイはこうだったけど、なんとかのアップルパイはこうだ、という対話が成立する。で、「公表・出版されている~べき」であって、それはひとつの目標なんだけど、「~なければいけない」ではないですね。もし、厳密にやるなら、アップルパイに言及している古い資料などを漁るとか、まあ料理本の類や文化風俗関係とか、事始本とか探すほうが望ましい。でもまあ、そんなに気にしなくても、妥当な書き方をしてれば問題ないし、何か見解が分かれて論争が起こったら、お互い資料を出し合えばよいと思うのですよ。--Ks aka 98 2008年2月11日 (月) 12:30 (UTC)
「……だけを書くべきです」としてみると、矛盾とまでは感じませんね。「~なければいけない」と誤解されやすい文章には感じますが、逆方向に誤解されるよりはましですので、難しいところですね。--Kickaha 2008年2月12日 (火) 12:50 (UTC)
  • なるほど。Wikipedia:独自研究は載せないのノートで「アップルパイ」を検索すると、どうも良く分からない例として話題に挙げられていた経緯もあるようですね。そもそも『「アップルパイとはリンゴのパイのことである」といった程度の自明の一文をWikipediaに記述するのにわざわざ1次資料や2次資料を要求する必要はない』と言った程度のニュアンスだったのかも知れません。あるいはもっと高度なことを含意させようとして結果としてよく分からない例えになってしまっているのかも。--125.205.189.66 2008年2月11日 (月) 13:29 (UTC)
蛇足っぼいですけど、英語圏で「アップルパイ」と言えば、どんなものか、どうやって作るのかはだれでも知っている、という意味ではないかとおもいます。日本語圏だと「味噌汁」なんかでしょうか。この記事の「味噌汁(みそしる)は、だし野菜魚介類などの具(「実」とも称される)を加え、煮て、味噌で調味した日本料理。」といった記述にまで出典を求める必要はない、仮に出典をだせというのなら初歩の家庭料理書でいくらでもみつかるし、わざわざ出すまでもない、ということでは (しかしそうすると卵かけご飯はどうなる!?)
考古学的遺物のほうは、たとえば「ギザの大ピラミッドがかつて存在し現在も存在することについて出典を示せ」とかいうのはナンセンスだ、という話ではないでしょうか。逆に、一柱騰宮は史料に言及があり、実在したことをにおわせる考古学的な発見もないわけではないですが、現存していませんから出典が必要でしょう。また、オーパーツのたぐいは「分別のある大人なら」いちおう眉に唾をつけてかかるようなものですから、(存在不存在のどちらについてでも) 記述したければ出典がいるでしょう。
……というふうに考えています。 --Hatukanezumi 2008年10月7日 (火) 12:52 (UTC)

Wikipedia:独自研究は載せないで言っているのは、もっぱら一次資料に基づいて「アップルパイ」の記事を書いても良いということだけだと思います。ここで言う「一次資料」は、当然のことながら「信頼できる情報源から出版・公表済みの一次資料」である必要がありますから、アップルパイそのものではダメだと思います。Kickahaさんは「アップルパイ」のような物自体(=一次資料)に基づいた記事も書けるとされていますと仰っていますが、私には、そのように書いてあるとは思えません。 --Dwy 2008年2月12日 (火) 15:39 (UTC)

ノートに書いた文献情報は出典を書いたことにならず検証可能性を満たさない?

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ノート:大分麦焼酎において、ノートに出典を書いたのでは検証可能性を満たしていない、といわれました[1]が、これは公式方針ですか?皆さんに確認させて下さい。--焼酎ファン 2008年2月10日 (日) 12:37 (UTC)

ええと、情報源は、執筆者だけではなく、閲覧者のためのものでもあります。よほどの理由がなければ、ノートに書く必要はないので、本文に書いてください。--Ks aka 98 2008年2月10日 (日) 12:42 (UTC)
指摘したのは私ですが、私も閲覧者のために必要だと考えています。そして、そこでも指摘したようにノートに出典を書いただけでは検証可能性を満たさないと考えています。閲覧者がノートを見るとは思えないということと、該当箇所の出典がどこにあるのかということがそのままでは非常に判りづらいからです。該当部分の脚注として「ノートのXXの節をみよ」とあった上でノートに記載があれば一応は検証可能性を満たせるかなぁ、という気はしていますが、そこまでするなら本文に書けばいいよなぁ、とも思っています。
《公式方式ですか?》ということに一応回答しておきます。公式な方針である「Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に」には《参考文献の書き方について詳しくはWikipedia:出典を明記するを参照ください。》とあります。「Wikipedia:出典を明記する」は考慮すべきガイドラインとなっています。そして出典の示し方については同ガイドラインのWikipedia:出典を明記する#出典の示し方に記載されています。したがって、四角四面に解釈すれば公式な方針ではないということになりますが、考慮すべきガイドラインではあるということを踏まえた上で、今後の行動の判断基準にしていただければと思います。--iwaim 2008年2月10日 (日) 13:15 (UTC)
ノートだけではだめだということがわかりました。--焼酎ファン 2008年2月12日 (火) 12:35 (UTC)

「世論」は記事に反映するのか

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世の中には特定の主義や一方的な論理を押し通す有名人がいます。マスコミや評論家関係の記事を編集する場合、一方としての有名人の主義主張は「メディアに出ている」ことで記事に反映できますが、一方である世論-というより情報の受け手-側はテレビ関係ならBPO、それ以外でもブログなどで世論ができる例があるといえます。しかしこれら世論側は「検証可能性」や「ソースとして認めない」ことから有名人の一方的な見方のみしか記事にできなくなるとおもいますが。世論にしても、メディアや対立する有名人が取り上げない限り記事には反映されないのでしょうか?--たぬき 2008年2月6日 (水) 13:40 (UTC)

最近思うのですが。特に『本人が語った』とかそういう記述を見ると{{誰}}だけでなく{{何時}}{{何処で}}(この2つは現在存在しませんが)ぐらい記述して欲しいと感じることがありますフィギュア萌え族とか……。さておき。『一方的な主義や論理を押し通す有名人』だろうと本人がそう言っている以上は、排除することができないのが現状でしょう。それが適切かどうか判断する立場にありませんし判断が認めらてしまうのであれば極論日本海呼称問題等に影響が出てしまいます。ゲーム脳#ゲーム脳の提唱者に関する誤解のように『反論を、適切な形でぶつける』のであれば心配するのは、サイレント・マジョリティの存在でしょう。彼らの考えは検証できませんが『存在そのものは、誰かが検証できる形で指摘している』はずです。社会的に見て無視できないのであれば尚更。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年2月6日 (水) 17:55 (UTC)
世論にしても発言にしても、具体的であればあるほど、出典があるはずです。その出典を的確に示すことが大事です。そうすれば、それが議論の叩き台になる。必要なのは、そういう基盤を持つことです。--ゆきち 2008年2月8日 (金) 03:33 (UTC)
問題として言いたいのは、片方は「内容がどうであれ出典として認められる」文献などを作成する手段を持っている有名人、もう片方は「内容としては重要だがブログやネットだから認められない」一般人であることです。一般人は活字メディアを近くに持っている例があるかどうか、またメディア側に不都合な情報をメディアが公にするか、といった問題です。--たぬき 2008年2月8日 (金) 05:00 (UTC)
「出典が存在する=掲載に値する」というわけではないのでその「有名人の意見」があまりにも偏った情報なら掲載の是非や表現(一般論のように書かれていないか)を議論すればいいことだと思います。「有名人は情報を発信するのが簡単で、一般人は難しい」というような問題はWPで論じることによって解決できる問題ではないし、だからといってブログや掲示板を出典として認めたって信頼できる記事がかけるとも思えません。というかそんなに重要ならたいてい出典は別にあるでしょう。また、メディアと一言にいっても様々な組織があるので、よほどのことがなければメディア全体が同一の不都合な情報を隠蔽するようなこともないのでは?つまり結論としては「世論でも何でも、信頼できる情報源が取り上げない限り記事には反映できないし、取り上げられないものは基本的には掲載ほどの重要度も無い」です。--KM-0901会話 2008年2月8日 (金) 13:16 (UTC)
むしろ問題としては、例えば出版社を介さない個人出版で『神戸の酒造業と銀行業』の関係を、かなり手広く細かく書いた本というのが実在します(NDL:DF325-H7、西宮・御影の酒造家が創業した神戸貯蓄銀行盛衰記、藤田卯三郎編、2004年)。この人は、酒造と郵便関連でのべ20冊を超える本を出していますが著名人とは言いがたいです。厳密にしてしまうとこのようなものを排除してしまうことになるのですが。基準を緩めても『責任所在が明確である』『書直しが原則効かない(published)』は、最低限守らなきゃいけない部分だと思っています。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年2月9日 (土) 03:18 (UTC)

↓の「ポルターガイスト」と同様のことですが、鳴り物応援という記事で、「なくなるべき」という一方的な評論家の意見のみが載っていました。しかし、現在の応援団の多くは球場で応援団はさまざまな改善を行ったり奉仕活動を行いますが、マスコミは無視し、評論家も自分の知識のなさを棚に上げて不都合な批判を無視している現状です。この記事にファン側の意見を書いたところ「独自研究」が貼られましたが、評論家やマスコミが一方的が故の記事の一方的化ではないでしょうか?--たぬき 2008年2月12日 (火) 03:27 (UTC)

気持ちは分からなくもないですが、WPの「中立」というのは「事実を中立的に」ということでなくて「公式発表された情報をできるだけ中立に」というものですから、片方の出典しか存在しない場合は残念ながら一方的な書き方しかできませんし、無理に「(WPでの)中立」を装うのは逆によくないのだと思います。ファン側の意見を出典なしで書いたらそりゃ独自研究と言われますし、評論家の意見の正誤を我々が判断することも許されてません。どうしても公平にいきたいなら前回も述べたようにどちらも載せないという手もありますが、編集者間の合意は必須でしょう。--KM-0901会話 2008年2月12日 (火) 05:50 (UTC)
では聞きます。有名人が暴言を吐き、それに世論が非難を挙げる。しかしテレビではBPOに意見が出ますし、ネットやブログなどでも批判する意見が多量に出る例があります。(例・みのもんた細木数子亀田三兄弟&亀田史郎橋下徹)これでも、「非難が出ている」事についてはマスコミや評論家が書かねばダメなのでしょうか?しかも、マスコミが擁護している場合や、マスコミが当事者である記事、暴言を認めない本人でも「有名人だから正しい」「庶民だから意見は信用できない」になってしまいます。漫画など読者がいろいろな感想を持つものの記事(作者が表に出てすべてを解説するなどすれば別ですが)、暴言が売りの有名人の記事、マスコミの記事、事件関係の記事は殆どダメですね。それと、私見ですが、この問題を厳格に判断し、ウィキペディアンの資質を問うなどするなら、ウィキペディアンの9割以上は追放されることになると思います。それに、このままでいくと有名人やマスコミの文章を丸写しでないようにしたコピーしかかけないことになりませんか?文章を書き換えるとその時点で私見ですから。--たぬき 2008年2月12日 (火) 06:29 (UTC)
あの、前々から指摘したかったのですが、Wikipediaで啓蒙とかしたいと考えているのなら、やめた方がいい(というか、できない)と思うんですけど。--meekcharat 2008年2月12日 (火) 06:48 (UTC)
最初の質問の答えは「ダメ」です。現在のjaWPの提示する検証可能の定義に反します。参考までに言っておくとWikipedia:信頼できる情報源(翻訳中)によるとどうやらenWPでは、大衆文化やフィクション関係ではネット検索で一定のヒットを得た情報は記載を容認される場合もあるようですが、jaWPで正式リリースされる時にこの文面が残されるかどうかは分かりません。個人的にはこれなしても記事を書き上げるくらいの努力が必要だと思いますが。
批判する意見が多量に出た場合、特に、上で例に挙げていただいているような人物に関してなら前にも言ったように探せばどこかに出典はある、もしくはこれから作られるはずです。現在ある、もしくはこれから作られる情報源にも載っていなかった場合、世間の人々は掲示板やブログが騒ぐほどその件に関して興味は無いという解釈でよいでしょう。どうしても、今、記載したいのであればたぬきさん自身がその意見を公式の場で発表し、ある程度認められる必要があります。
次。「有名人だから正しい」というのはWPのあり方からしてありえません。WPに記載されているのは、あくまでもその人物がそういう意味の発言を行ったという「検証可能なことがら」のみであり、記載されているという状態がその人の正しさを認めるものとは結びつかないはずです。
三つ目。ほとんどの記事がダメ(書けることが無い)というのはその通りです。逆に言えばWPは、そうまでして沢山の記事を書いてもらわなくてもいいという立場を取っているといえます。
四つ目。「ウィキペディアンの9割以上は追放」に関して。いきなり「追放」というのは穏やかではないですが、検証可能性を満たすための努力が利用者全体で十分なレベルで行われていないということは僕も感じております。しかしながら、それはWPを運営・管理・編集する我々利用者の側に問題があるのであって、百科事典WPそのものに責任はありません。ですので、姿勢を正さなければならないのは我々の方であって、WPの方針規制を緩める根拠にはなりません。今後のjaWPの重要な課題のひとつなのではないでしょうか。
最後。「文章を丸写しでないようにしたコピーしかかけない」というのは、それでいいのではありませんか?もっと言えば、WPは自らの位置づけを三次情報源としていますから、情報量としては原典よりももっと荒いくらいでちょうどいいと思います。逆に編集者がいろいろ情報を肉付けするほうがまずいような気がします。見せるための工夫をするなら表現や構成、レイアウトといった部分になるでしょう。--KM-0901会話 2008年2月12日 (火) 07:31 (UTC)

それならお願いできませんかねぇ。

「ウィキペディアでは真実であるかどうか限らず、メディアや評論家の表現が優先されます。たとえそれが事実と反していても、文章が証拠となる以上、それはたとえ事実であっても一般人のブログなどより優先されます。一見中立に反しているようですが、有名人がメディアを利用して書いたもののみを信用します。これが気に入らなければ追放します。」

とでもどこかの文章に書いてもらえませんか?これは、テレビのドラマで「このドラマはフィクションです」という注記がされるのと同じくらいの効力だと思います。有名人を取り上げたメディアに対するリテラシーという問題もありますが、有名人が絶対で、無名の人なら無視。気に食わなければ追放。とするなら利用者が「記事は真実だ!」などと信じ込まなくてよくなりますし、ウィキペディアを引用する人も減って、「ウィキペディアなんて信用できない」という意見が外部から出ていることも多少は変わるでしょう。有名人のコピーで終わるなら、それですべてです。しかし大部分の人が追放されるし、大部分の記事もなくなるだけです。論争も減るでしょう。--たぬき 2008年2月15日 (金) 10:30 (UTC)

……僕のコメントをいろいろ誤解されているようですね……。「メディアや評論家の表現が優先されます」そんなことは言ってませんよ。ぼくは「WP:Vによって認められていないものは載せる事ができない」と言いました。「一般人のブログなど」はもとより情報源としての使用を禁止されていると何度も申し上げています。気に喰わないのであれば方針変更を、向こうで、あなたが、提案すべきです。僕はこの件に関して現行の方針に不満はありません。「有名人がメディアを利用して書いたもののみ~」これも全く違います。「情報源として認められているもの」というのが正しいでしょうけれども、やはりすでにWP:Vに記載があります。「これが気に入らなければ追放」これも全然違う。僕は「いきなり追放などと言うのは穏やかではない」とコメントしました。ちなみに僕の気持ちを差し置いても「対話を試みずにいきなり強行手段に出ること」は方針で禁じられています。
そういうことですので、上記の草案を僕がどこかの方針文書に提案する事はありえません。まずはここでの議論の経緯とWPの方針その他関連文書を熟読される事です。それでも現在のWPの体制に疑問を感じられるようならご自分で、責任を持って、方針のノートにて、提案を行う事をお勧めします。僕ができるアドバイスはこのくらいです。--KM-0901 2008年2月15日 (金) 11:47 (UTC)
これまでたぬきさんが井戸端でしてきた質疑12345をよく読み返されることです。みなさん仰られているように方針に合致しない記述はできません。メインページにもある通りWikipediaは基本方針に賛同いただけるのであれば誰でも編集できるのであって、たぬきさんが方針に賛同できないのであればWikipediaには参加せず、他のオンライン百科事典にご参加すればよいだけのことです。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないと並ぶWikipediaの公式な方針の一つであって、どれかが優先するというものではありません。もう一度、各方針および関連する文書をよく読んで下さい。--↑PON(ウエポン)
ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です信頼できる公刊された情報源を使うべきですし、自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません
少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありませんし、公正に論争を記述するためには、競合する様々な観点を、その主題についての専門化や関係者の勢力に合わせて提示すべきです。もちろん少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありませんが。
ウィキペディアでは、誰でも記事を編集したり新しく作成したりできますが、基本方針に賛同いただけない状態が続くと、しばしばコミュニティを消耗させる利用者としてブロックされるようです。--Ks aka 98 2008年2月16日 (土) 08:24 (UTC)


Wikipedia‐ノート:検証可能性で根本の部分について議論されていますのでそこに移動しましょう。結構深い議論をされています。「決まりだから」で終わっていません。 それと↑PON氏のような書き方では私が言う「追放」に他ならないと思いますが。--たぬき 2008年2月16日 (土) 01:38 (UTC)

とりあえずWikipedia‐ノート:検証可能性にコピーを出しますので、第三者の意見もいただきましょう。----クッキングボス 2008年2月16日 (土) 03:15 (UTC)署名訂正--たぬき 2008年2月16日 (土) 07:40 (UTC)

えーと。私、たぬきさんの論点が見えません。一般論として、世論は誰かが二次資料として「こんな世論がある」と記述していなければなりませんし、信頼性やら検証可能性やら中立性を満たさなければWikipediaには書けません。「書けないんですか?」と聞かれても、どの皆さんも「書けない」としか答えられないでしょう。この点、上の方でゆきちさんが書いておられるように、具体的な問題なら、なんらかの資料はあるのですよ。多くの人には探し方が分らないだけで。それは、一つ一つの個別の問題として地道に探していくべきものであり、学者さんでも、ルポライターでも、調べ物というのはすごく手間隙がかかるものなのです。そこのところが、もどかしくて端折っているのが、たぬきさんの主張なのかなとも思いました。
たぬきさんの過去の議論も少し拝見させていただいて、もどかしく思う気持も判らなくもなかったのですが、闘い方の方向がちょっとWikipedia的にずれているかなと考えなくも無く。--おーた 2008年2月18日 (月) 16:52 (UTC)
なぜそう言うルールになっているのかについては、本文で次のように解説されています。要するに、不特定多数が編集するWikipediaではどんな人間が記述しているのか分からないから、第三者が内容の妥当性を確認できるように、信頼できる情報源で検証可能な情報に限定しましょう、と言うの趣旨ですね。信頼性を担保するための方針だと思います。なお、Googleが作ろうとしているオンライン百科事典knolでは、信頼性を高めるために、非匿名での執筆となるようです。
なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。読者は、あなたが誰なのかを知りません。世界中の閲覧者があなたに連絡して確認を取れるように、あなたの連絡先を載せるというわけにはゆきません。たとえあなたに連絡がとれるようになっていたとしても、閲覧者があなたを信じる理由がどこにあるでしょう。
さて、(現行方針でダメな)「世論」をどのように検証するのでしょうか。例えば「編集者がネット上の情報を見てそう感じた」ということが根拠になると、「ネットで調べれば分かる」「一部で騒がれているに過ぎない」「調べ方が悪いから分からないのだ」という押し問答になりかねないのではないかと思いますが、どうでしょう。--Mujaki 2008年2月19日 (火) 18:26 (UTC)
あるものを否定する主張は検証可能性よりウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんに反しています。読者は調べ物をする為にウィキペディアを利用するのですから特定層の屑主張を掲載することは読者にプロパガンダを植え付けるのと同様です。したがって中立性とは関係ありません。(本来中立性とは宗教的や政治的なイデオロギーの違いを説明するために作られたものです)人物に対する批判は法に触れる可能性があるため方針で即削除が決まっています。(著作権侵害なんかより名誉毀損の方が告訴を受ける確率はずっと高いです)--125.194.223.107 2008年2月24日 (日) 19:23 (UTC)

掲載期間超過によって閲覧できなくなったオンラインニュースの扱い

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利用者:Chiether/便利物/参照不可となったオンラインニュース出典にあるように、wikipedia上で閲覧できなくなったオンライン記事へのリンクがいくつか放置されていますが。 『出典としている部分ごと除去可能』『リンクを除去し、出典と日付だけ残し、該日前後の新聞記事を参照してもらう』がパっと思い浮かんだのですが対象範囲が広すぎるため手をつけるのに躊躇いました。 「私ならこうするかな」程度で構いませんので意見を頂ければと思います。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年3月8日 (土) 18:13 (UTC)

私でしたら、他にないか探した後、なければ出典をコメントアウトして{{要出典}}をはりますね。そもそもそんなすぐに参照できなくなる情報源を出典として使っていいのかどうかというのも微妙なところです・・・。もちろん、「永久に」とは言いませんが、少なくとも数十年単位では保証されるものがほしいところです。--青子守歌会話/履歴 2008年3月8日 (土) 18:20 (UTC)
紙媒体を発行している新聞なら、出典と日付だけ残しておけば図書館で縮刷版や新聞そのものを確認できるので除去やコメントアウトする必要はないと思います。オンライン専業のニュースサイトでは、主要なニュースしか残していないところもあるようで(ざっと見たところではJ-CASTとか)、議論の余地はありそうですが、印象では「残っていないものは価値の低いもの」として出典から除外するのも方法かもしれません。--Mt.Stone 2008年3月8日 (土) 18:47 (UTC)
新聞社によってはオンライン記事と印刷記事が異なる場合があるので、縮刷版を参照させるのも問題があるかもしれません。朝日新聞は私が見る限り文面は同一ですが、ニューヨークタイムスなどはオンライン記事の方が長い(印刷版では端折られている)場合があったりします。私だったら、出典はそのまま残して「現在閲覧不可」と付け加えておくのかな。削除するかどうかはケースバイケースだなぁ。--おーた 2008年3月9日 (日) 02:44 (UTC)
参考として、少し以前にも同様の問題提起があったようです。--隠者 2008年3月9日 (日) 06:14 (UTC)
「少し前」の質問者でございます。「その時点では存在したらしい」ことが調べて分かれば残しておいても良いかなと思いました。「あったかどうかわからない」場合にどうするかは残りますが。こちらでHatukanezumiさんが書かれていた{{cite web}}を使った表記に変更(○月○日閲覧と記載されていたものを変更しただけですが)してみました。--Mujaki 2008年3月13日 (木) 19:53 (UTC)

執筆者が、何を情報源として書いたのか、この場合なら、第三者的な媒体から一定期間は検証可能な情報として提供されていたものであるということがを示し続ける必要があると思います。コメントアウトや編集除去はしないほうがよいと思います。まずは、リンク切れであることを付記する。これによって、必要と思う執筆者は、日付から対応する紙媒体の情報を参照し、加えていくこともできますし、閲覧者にとっても、クリックひとつで情報源にたどり着けないとしても、他の情報源を求める際に重要な手がかりとして機能します。

それとは別に、オンラインニュース(およびその他のオンライン情報源)が、どれくらいの期間、どういう基準で、残るのかということをまとめた文書があるといいのかなと思いました。ウィキペディアにおいては、同等の情報であれば、将来においても閲覧可能な状態にあるオンラインの媒体を重視するということを明確にすることで、閲覧者に情報の選択の指針となりますし、同時に各媒体に対しても、後日検証が可能であるということが重要な価値基準となることをアピールできるかもしれません。--Ks aka 98 2008年3月9日 (日) 12:14 (UTC)

日本の新聞社が時代遅れで古臭くて保守的なのがすべて悪いのです。211.135.194.144 2008年3月17日 (月) 02:58 (UTC)

(データベースで参照可能な場合)G-search日経テレコン21のようなデータベースは有料ですが、かなりの新聞雑誌記事を検証できます。縮刷版なら東京版だけかもしれませんが、G-searchや新聞社データベースなら時期と記事見出しがわかれば地方版や大阪版夕刊までチェックできます(コラムや特集記事は対象外のこともありますが)。そのため、たとえオンラインではリンク切れになっても削除せず、日付と紙名、見出しを出典として書いておいていただきたいと思います。もちろん、それに代わる出典があれば併記で。--miya 2008年3月17日 (月) 07:56 (UTC)

補足の提案

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ノート:OECD生徒の学習到達度調査 などを踏まえて(ノート:OECD生徒の学習到達度調査 で起こった転記は許容範囲内かもしれません)。現在、#出典を示す責任は掲載を希望する側に の節に「その記述をノートページに移動するとよいでしょう」とあるのですが、引用の要件(主従関係、同一性保持)を満たさない形で記事本文からノートへ文章を移動し、かつ履歴の継承がおこなわれなかった場合に不備が生じる可能性があります。「その記述をノートページに移動するとよいでしょう(必要に応じて履歴の継承を行ってください)」と補足するほうが多少なりともトラブルを減らせるのではないかと思います。いかがでしょうか。--スのG 2008年4月15日 (火) 05:27 (UTC) - むしろ Wikipedia:井戸端/subj/本文の記述を検討する際のノートへの転記・移動 のほうと関係が深い提案でした。--スのG 2008年4月15日 (火) 05:31 (UTC)

補足を付与すること自体には賛成です。ただ、「移動」という表現で思い浮かぶ行為だと履歴の継承は必須だと考えられるため、《必要に応じて》というのは削った方がいいのではないかと思います。あと、Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順へ誘導するのも一案かと思います。--iwaim 2008年4月21日 (月) 22:58 (UTC)
履歴の継承がいらないとき、例えば自著作部分の転記や、著作物性がないものを移動/転記するときなどを想定した「必要に応じて」なのですが、そこが分かっている人には「必要に応じて」と書かなくても履歴継承しないでくれますかね。--スのG 2008年4月22日 (火) 04:11 (UTC)

(移動の際は、Wikipedia:ページの分割と統合#一部転記の手順 に従って履歴の継承を行ってください)と加えました。--Su-no-G 2008年5月2日 (金) 05:51 (UTC)

要出典について(修正)

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「要出典」に拘り過ぎているような気がします。「信頼できる資料」「信頼できる情報源」からの情報が変更される事があるのが現実です。中には完全に覆される事だってあります。
また、個人ではないにしろ「独自研究」の延長のような「資料」という物もあります。
そういった事を踏まえて、「真実に近い」考察は、注意書きや署名付きで記載されても良いのでは無いかと思われます。
その考察については「ノート」等を用いて内容をより深めて行くのが、理想の姿ではないかと考えます。
利用者が増えれば、「要出典」で揉めるという事は始めた当初からある程度予測できていた思われます。それについて、早期にしっかりとした舵取りが出来なかった運営側にも多少の非があると思われます。極論ですが、対応しきれないのなら端からWPを開設しなければ良かったのでは無いかとも思います。(本当に収集が付かないのなら、一度閉鎖して貰った方が良いかもしれません。基礎がしっかり出来上がった段階で再開すべきではないでしょうか?)--Non-name 2008年4月21日 (月) 17:43 (UTC)
えっと、こういう場で質問されるのなら、先に、他の方の書き方とかをしっかり見ておいて欲しかったです…(見出し修正しました)。一言で申し上げれば、Wikipedia:独自研究は載せないを熟読してくださいとしか。それと、<「信頼できる情報源」からの情報が変更される事>と、貴方のご要望とは、関係ないかと思います。Wikipediaに参加されるのなら、基本方針にご賛同ください。ご賛同されないままですと、編集をお控え願うことになりかねません。そうなると悲しいので、よくよくご賢察ください。--アイザール 2008年4月21日 (月) 18:19 (UTC)
「百科事典を執筆する」というスタンスではなく、表題に関する資料をみんなで持ち寄って整理・コレクションする場所がWikipediaだという感覚がつかめれば、むしろあやふやな記憶を頼りに自分の言葉でゴニョゴニョ書くよりよっぽど楽しい作業になりますよ。欲しい資料がなかなか見あたらなくてガッカリして執筆を見送るのもまた良し、運良く見つかったり(!!)、他の投稿者に教えてもらったり(!!!)。得体の知れない自筆投稿をして、得体の知れない人にリバートされて論争になったりするなんかよりよっぽど(´▽`)です。CiNii検索サイト[2]みたいな論文検索サイトも利用してみて下さい。--ネコバット 2008年5月12日 (月) 10:47 (UTC)