Wikipedia‐ノート:検証可能性/「利用者同士の合意によって覆されるものではない」との文言に関して
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「議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」?
[編集]こんにちは。mizusumashiです。上のセクションに書こうかとも思ったのですが、ちょっとオフトピックになるかと思い、セクションを改めます。
現在、Wikipedia:検証可能性の冒頭部分には、次のような記述があります:
この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。 — Wikipedia:検証可能性、2010-01-16 13:24:29(UTC)(履歴)
この記述は、概ね、この方針を英語版から翻訳・移入したときにそのまま受け継がれたもののようです[1][2]。しかし、もととなった英語版ではこの記述はいちど改変され[3]、その後、どうも利用者同士での合意によって、除去され、除去された状態でいまのところ定着しているようです[4][5]。
もともと、あるルール自体でそのルールの不可侵性を宣言するというのは、「なんか循環しているみたいでヘンだ」という印象を受ける人は少なくないのではないでしょうか。少なくとも、私はそういう印象を受けます。仮に、ウィキペディア日本語版の利用者の大多数が、Wikipedia:検証可能性というルール自体の正当性・権威性に疑いを持つようになったとすれば、「いや、このルールにはそれが不可侵だと書いてある」といったところで、まさにそのルールに疑いを持っているのに、どれほどの説得性があるでしょう。このようなあまりに短絡的な循環は、わずかかもしれませんが、かえってそのルールの正当性・権威性への信頼性を損なうものであるように、私には思えます。
私は、この記述を除去したほうが良いのではないかと考えていますが、皆さんのご意見をお聞かせください。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 11:45 (UTC)
- コメント 不可侵を宣言すること自体は、論理学的にはおかしいと思われるかもしれませんが、実際にはよく行われている話ですから、そこはそう気にはならないですね。たとえばen:WP:NPOVでは、「This is non-negotiable and expected of all articles and all editors.」と(現在も)記載されています。WP:Vについては、該当のノートをざっと読んだ限りでは、WP:NPOVは不可侵だが、WP:Vはcoreではあっても不可侵ではないのでその記述を除去した、という話のように見えます。そういう経緯なら、WP:Vから不可侵という記述を除去してもいいと思いますが、一方でWP:NPOVやWP:ORと対になるcore content guidelineであることには変わりないので、やはりこの方針の扱いにはそれ相応の配慮が必要になってくるのではとは思います。--Kurz 2010年1月19日 (火) 12:24 (UTC)
- コメント英語版のノートでは、前提としてウィキペディア冒頭で述べられているために不必要、というような理由で外されたように見えます。ただ、この文章では「改変不可能」と捉えられる可能性が高く、過去の英語版の訳文が絶対不可侵のように思われてしまうかもしれませんので何かしらの改善は必要かと思われます。--Type64r 2010年1月19日 (火) 13:57 (UTC)
- Type64rさんへ。コメントありがとうございます。英語のノートページの議論をきちんと把握していないので見落としている可能性が大ですが、「ウィキペディア冒頭で述べられているために不必要、というような理由で」という部分はどこなのかをご教示いただければ幸いです。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月20日 (水) 13:44 (UTC)
- コメント en:Wikipedia:Core content policies#History of the core policiesという文書がありました。--Kurz 2010年1月20日 (水) 03:18 (UTC)
- Kurzさんへ。ご教示の文章を、かなりざっとですが確認いたしました。ありがとうございます。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月20日 (水) 13:44 (UTC)
- コメント英語版のノートでは、前提としてウィキペディア冒頭で述べられているために不必要、というような理由で外されたように見えます。ただ、この文章では「改変不可能」と捉えられる可能性が高く、過去の英語版の訳文が絶対不可侵のように思われてしまうかもしれませんので何かしらの改善は必要かと思われます。--Type64r 2010年1月19日 (火) 13:57 (UTC)
- コメント たとえば「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とか「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに 生存する権利を有することを確認する。」というような文言に「われらはそんなこと確認した憶えはない」とツッコミを入れることは可能です。しかしいっぽ う、不可侵の基本理念として述べることに対して、それを正当化する根拠を説明すること自体が矛盾します。「われらはみんな認めている」と書くしかないん じゃないでしょうか。もちろん、ウィキペディアがなくなったり、フォークプロジェクトができたりすれば、ウィキペディアの存在を前提としていた方針の不可 侵性も消え失せます。 --Hatukanezumi 2010年1月19日 (火) 14:06 (UTC)
- Hatukanezumiさんへ。えーと、おっしゃっていることがいまひとつ分かりませんが、「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」という記述がある種の循環、ないしはどこから権威・正統性を持ってきているのかよく分からない断定を含んでいることは認めるけども、そういう循環・断定はしばしば見られるものであって問題とするにあたらない(あるいは、やむを得ない?)、というようなことでしょうか?--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 15:03 (UTC)
- コメント 自身による断定を縷々述べて最後を疑問形にした文に答えろといわれても……。んーとそうだなぁ、あなたの言ったとおりでいいです。 --Hatukanezumi 2010年1月19日 (火) 15:18 (UTC)
- Hatukanezumiさんへ。えーと、おっしゃっていることがいまひとつ分かりませんが、「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」という記述がある種の循環、ないしはどこから権威・正統性を持ってきているのかよく分からない断定を含んでいることは認めるけども、そういう循環・断定はしばしば見られるものであって問題とするにあたらない(あるいは、やむを得ない?)、というようなことでしょうか?--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 15:03 (UTC)
- ◆なんかデジャヴュなんだけどさー。Wikipediaの中でも前にどこで似たような議論があったんだったっけなあ、法制論あたりでは日常的にこういう議論が行なわれているという意味で脱力しちゃうくらいデジャヴュなんだけどさー。
- それが「Wikipediaとしては譲れない原則である」ってことと「その原則を誰かが解釈した結果が万民が従うべき基準である」ということとの間には、遥かなる距離があります。「その原則が譲れないものである」として、「誰かが自らの解釈を譲れないものとして振り回していい」ってことには全くもってなりません。ある原則について異なる複数の解釈があるなんて普通のことなんだし、解釈に幅があるってのも珍しくもない日常的な風景なんで。だいたい、もしそこらへんが一致しているんだったら裁判なんて手続きは必要ないでしょうが。法律だけが存在していれば全ての法的問題は片付くはずなんだぜ。
- 解釈の揺れみたいなものを度外視しての原則論なんて「書生論だろ、顔を洗って出直して来い」でいいと思うんだわ。英語版の改訂あたりも、その解釈の揺れが表面化したものにすぎず、日本語版の「原則」なるひとつの解釈に拘泥するやつとかは「ああ、その程度のやつなんだな」でかたづけちゃっていいんじゃないかという気がする。
- 「原則」てのはとても大事なものなのだ。その扱いに扱う者のレベルが如実にあらわれてしまうという意味でも。--Nekosuki600 2010年1月19日 (火) 14:11 (UTC)
- Nekosuki600さんへ。えーと、ちょっとおっしゃっていることがはっきりと理解できませんが、私がいくらか想像を混えて理解を試みるに、(a)「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」というのはWikipedia:検証可能性(WP:V)の原則について当てはまることである、(b)一言一句そのまま維持せよというものではない、(c)さらに細目的な部分についても実質的な変更を加えても良い(原則を逸脱しないならば)、(d)その上でその「原則」の解釈には幅がありえ、変遷もありえる、(e)よって、WP:Vをどのように変更できるかということ自体、WP:Vの解釈問題である、ということを前提として、(f)結局、WP:Vに対する変更提案などの議論はWP:Vの原則がどのようなものであるかという議論として展開していけばよく、(g)これに反する議論態度は物事に対する無理解として一蹴してよく、(h)「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」を除去するまでもなく、実際にはそのときどきのコミュニティの判断が反映されて変更されていく、ということでしょうか?--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 14:53 (UTC)
- 細かいところまで追跡はできていないのですが、Wikipediaの「主催者(要はオーナー)」が【この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。】との主張を撤回したのならいいのではないですか。Wikipediaは突き詰めるところ、我々無名・無数の編集者のものではないわけですから。(参考[6])。問題提起者の「循環論証になっているのではないか」との主題については、「Wikipediaは我々のものではない」という一点をおさえておればなんら矛盾のない命題になります。すなわちオーナーがそう望んでおり、それを否定する展開をWikipedianが合意して勝手におこなうならWikipediaを閉鎖するという主張だと仮定すれば論理整合的になります。--大和屋敷 2010年1月19日 (火) 15:06 (UTC)(追記)もともとこの一文は中立的な観点について述べられたものであり、そこから敷衍(ふえん)して検証可能性に引っ張ってきた可能性があって、そこからさかのぼって検証可能性の記事から削除された可能性がありそうですね(ざっと呼んだ限り)。Wikipedia:中立的な観点の英語版(最新)にはこの記述に相当する文言(The principles upon which these policies are based cannot be superseded by other policies or guidelines, or by editors' consensus.)が確認できました。--大和屋敷 2010年1月19日 (火) 15:32 (UTC)
- 競合しちゃったので、部分的に、大和屋敷さんが指摘されていることを確認する内容になりますが、そのまま。
- まず、Jimboは、現在、ウィキペディアプロジェクトの主催者ではありません。ウィキペディアプロジェクトの主催者はウィキメディア財団であり、その意思決定機関は理事会です。
- それはそれとしても、Jimboがかつてウィキペディアの根幹であるとして述べたことは、もちろん、十分に考慮するべきことです。ご指摘のメールの内容は全体として異なる言語版は異なる方針を持ってよいことを強調し、その上で「A few things」は「absolute and non-negotiable」であるというものです。しかし、その「A few things」に「NPOV」が含まれることは明かですが、verifiability(検証可能性)が含まれるかどうかは不明です。また、メタウィキメディアにあるFounding principlesにも、「Neutral point of view」は含まれていますが、検証可能性は含まれていません。
- これら以外に、検証可能性の方針(en:WP:Vなど)を含む「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」という主張を、ウィキペディアプロジェクトの主催者が行ったという記録があれば、お教えください。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 16:00 (UTC)
- ◆説明するのが厄介なので、Wikipedia内の話という限定をすっとばして、原理原則の話で説明しようと思います。
- 「他人を殺してはいけない」というのは、近代法制度上の原則のひとつとなっています。じゃあ、他人を殺したとして、その原則への抵触として処断されるかっつうと、そんなことはないわけですよ。
- たとえば、殺意(故意)があって誰かを殺したケースってのがあります。殺意はぜんぜんなかったのだが、たまたま誰かを殺してしまったってのがあります(典型例としては偶発的な交通事故)。殺す気もなく過失もなく全力で助けようと思ったんだけれども助けられなくてそれを「殺した」とか言われちゃうケースもあります(一部の医療事故訴訟なんかの事例。あくまれも一部な)。トリアージで「あとまわしタグ」をつけるという行為に対して「見捨てた」という評価をすることも可能でしょうが、そこで「見捨てた」と評価することの妥当性あたりには争うよ余地があるでしょう。んで、そんなんは、「文章で表現できること」じゃないんですよ。
- 誰かが、そのあたりの行為への評価として「他人を殺してはいけない」という原則に基づいて何らかの私的評価を表明することは、それはそれでありなんです。でも、そお表明された評価が万民が同意するものであるとは限らないでしょ? そして、その評価をめぐって骨肉の争いが成立する余地があるんですけど、でもそこで骨肉の争いをする必要があるんだろーか、そんな価値があるんだろーか、と、第三者であるおれは思うと思うんですよ。
- 誰かが「自分が理解するところのWikipediaの原則に基づいて他者を非難したとき」に、おれは、その「誰かが理解するところのWikipediaの原則」なるものについて検証するまでは、賛否を表明できないんです。そういう話を理解できていないやつは、そもそもの時点で「Wikipediaの譲れぬ原則」なんてものを振りかざすべきじゃないでしょう。そして、そういう話が理解できていれば、「Wikipediaの譲れぬ原則」なんてものを振りかざすことはないんじゃないでしょうか。理解できていれば、つっこまれたときにあっさり説得力のある説明ができ敵対者をけちらせるはずなんじゃないんでしょうか。
- mizusumasiさんの質問の根幹がよくわからないのですが、いずれにせよ「これが原則だ」とかいうことを安易に言えるやつ、それに対して「何が原則なんだ?」とつっこまれて答えに窮して逆上しちゃうようなローレベルなやつは、「原則」という言葉を使うべきじゃないだろうと思うのでありました。百年とは言わないが少なくとも十年くらいは修行をして出直してこなければ問題外のまんまなんじゃないかなあ、なんて思うわけで、ここらへんでそういう謙虚な姿勢の必要性について説明をしておきたかったわけよ。--Nekosuki600
- えーと、そうすると、「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」というような不可侵宣言は、どのような原則もさまざまな考慮要素のバランスの下で考えなければならないということが分からないバカを勢いづかせるだけのような気がするんですが、どうでしょう?--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 16:00 (UTC)
- (追記)「mizusumasiさんの質問の根幹がよくわからないのですが」という点ですが、要は、おっしゃっていることがこのセクションの問題提起・意見募集とどう関係あるのか分からない、ということです。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月20日 (水) 13:44 (UTC)
- 馬鹿を勢いづかせる場合は確実にあるでしょうけど、勢いづいてくれたら「わたしはとことん馬鹿です」と自供してくれたことになったりもするわけで、除去するのがいいかどうかは微妙だなあって感じ。まあ、そういう言辞に直面した側の民度が測られちゃうというこわさもあるわけですけどね。
- ま、おれ的には「おれの解釈が絶対だ」というセルフビリーバーさんは、その段階で「遠慮なくお相手していい」カテゴリに分類しちゃうし、そういうひとはたいてい、しばらくあちこちでモメゴト起こした末にいなくなっちゃうんで、どうでもいいような気がしたり。--Nekosuki600 2010年1月21日 (木) 12:33 (UTC)
- 細かいところまで追跡はできていないのですが、Wikipediaの「主催者(要はオーナー)」が【この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。】との主張を撤回したのならいいのではないですか。Wikipediaは突き詰めるところ、我々無名・無数の編集者のものではないわけですから。(参考[6])。問題提起者の「循環論証になっているのではないか」との主題については、「Wikipediaは我々のものではない」という一点をおさえておればなんら矛盾のない命題になります。すなわちオーナーがそう望んでおり、それを否定する展開をWikipedianが合意して勝手におこなうならWikipediaを閉鎖するという主張だと仮定すれば論理整合的になります。--大和屋敷 2010年1月19日 (火) 15:06 (UTC)(追記)もともとこの一文は中立的な観点について述べられたものであり、そこから敷衍(ふえん)して検証可能性に引っ張ってきた可能性があって、そこからさかのぼって検証可能性の記事から削除された可能性がありそうですね(ざっと呼んだ限り)。Wikipedia:中立的な観点の英語版(最新)にはこの記述に相当する文言(The principles upon which these policies are based cannot be superseded by other policies or guidelines, or by editors' consensus.)が確認できました。--大和屋敷 2010年1月19日 (火) 15:32 (UTC)
- Nekosuki600さんへ。えーと、ちょっとおっしゃっていることがはっきりと理解できませんが、私がいくらか想像を混えて理解を試みるに、(a)「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」というのはWikipedia:検証可能性(WP:V)の原則について当てはまることである、(b)一言一句そのまま維持せよというものではない、(c)さらに細目的な部分についても実質的な変更を加えても良い(原則を逸脱しないならば)、(d)その上でその「原則」の解釈には幅がありえ、変遷もありえる、(e)よって、WP:Vをどのように変更できるかということ自体、WP:Vの解釈問題である、ということを前提として、(f)結局、WP:Vに対する変更提案などの議論はWP:Vの原則がどのようなものであるかという議論として展開していけばよく、(g)これに反する議論態度は物事に対する無理解として一蹴してよく、(h)「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」を除去するまでもなく、実際にはそのときどきのコミュニティの判断が反映されて変更されていく、ということでしょうか?--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 14:53 (UTC)
「楽天オークション」のページから来ました。mizusumashiさんの提案に、賛成致します。
当事者の合意で覆されるものかどうかというのは、法律で言うところの「強行規定」か「任意規定」かというところだと思います。しかし、wikiで語られている「検証可能性」の内容の厳格さに鑑みると、「検証可能性」を強行規定として要求するべきではないと思うのです。
wikiの検証可能性というのは、その内容を見ると一言で言えば「信頼性ある文献に基づいて記述しなさい」ということです。しかし、「信頼性ある文献」が少ない分野も、社会には多々あるのです。自然科学分野においては、なるほど信頼性ある文献があふれているでしょう。しかし例えば、「楽天オークション」についてはどうでしょうか?そもそも、誰が楽天オークションの専門家なんでしょうか?どうやったら楽天オークションについて信頼性ある文献を世の中に出せるのでしょうか??
楽天オークションのノートにおける議論で示唆されていますが、このような「文献主義」がどこまで妥当するかは、分野によって大きく違ってくるのです。具体的には、一般個人による検証が難しく、専門家による文献も多い自然科学分野では、「文献主義」がおおいに妥当します。しかし一般個人による検証が比較的容易で、そもそも誰が専門家と言えるのか、専門家がいるのかすらよく分からないような分野、例えば「楽天オークション」「東京駅」といった分野では、文献に頼れば情報量が著しく少なくなってしまいます。
思うに、wikiの最大の意義は、世界に無数に散らばる利用者の(一人一人では小さい)「知」を結集・結合させることにあります。とすれば、あらゆる分野で信頼性ある文献に基づく記述を要求すべきでは必ずしもありません。もし厳格に文献主義を貫けば、wikiは文献の集合体になってしまうでしょう。
「検証可能性」を要求すべき程度は分野によって相当異なるのであり、その程度について、各コミュニティにおける自治が認められるべきである、したがって強行規定として一律絶対的に「検証可能性」を押しつけるべきではない。もし押しつけるのであれば「検証可能性」の程度・内容を変更する必要がある、と考えます。--本郷憲正 2010年1月20日 (水) 02:20 (UTC)
- えーと直近「この三方針は議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」を盾に論述を展開したばかりの「ばか」ですが。三方針についてはいくらなんでも基本方針すぎますのでさすがに顔のみえないノート(ココ)での議論程度で決定していいのか自信がないです。それこそ過去に永久ブロックされた多数の「荒らし」さんの名誉がすべて回復されてWikipediaが一気にアンサイクロペディア化するという展開も可能になるわけですので。ましてや基本方針を多数決(民主政)で決めようなどという提案がおこって改変されたところをオーナーさんに全部リバートされるなどすればうんざりです。やはりオーナーさん(ウィキペディア財団)の立ち居地を慎重に確認したいところ。--大和屋敷 2010年1月20日 (水) 03:06 (UTC)(メモ)「検証可能性」を要求することと「検証可能性のない記事をすべて排除すること」はことなりますよ。--大和屋敷 2010年1月20日 (水) 03:08 (UTC)
念のために申し上げておきますと、私は一般用語でいうところの「検証可能性」(記事を書いた者以外の第三者が、何らかの方法でその記事が真実か確かめることができること)をwikiの基本方針とすることには、何らの異存もありません。しかしこのプロジェクトページでは、検証可能性について「つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」と定義されているんです。この定義による検証可能性を、全ての分野の記事について求めることには無理があるのではないか、「検証可能性」の程度や「検証」方法は、分野によって異なるのではないか、このように検証可能性が定義されている以上検証可能性を全分野について絶対的な方針として一律に適用するのは無理があるのではないかと言っているのです。皆さんは、どう思われますか?--本郷憲正 2010年1月20日 (水) 04:00 (UTC)
- それはちょっと言い過ぎではないかと思います。「必ずしも」「絶対的な」などの言葉を使っておられるので、以下に書くことを十分お分かりの上で発言されておられるのかもしれませんが、誤解を招く虞がありますので強調しておきます。
- 原理原則自体は曲げるべきではない、何故ならそれがWikipedia自体を規定しているからです。解釈には幅があって当たり前なんですが、おおよそのベクトルを疑ってはプロジェクトが成り立ちません。本郷さんが例に挙げた項目で示すならば、「楽天オークション」については信頼が置けると一般的に認められる一般紙、経済紙などにおける言及と楽天自身の公式発表(評価に係るものを除く、事実の部分のみ)が出典になるでしょうし、「東京駅」であれば、鉄道関係誌における言及と鉄道会社における公式発表(同上)が出典たりえましょう。勿論東京駅が東京にあることなど誰でも容易に検証可能なものまで「その検証は独自研究だ」などというつもりはありませんし、出典を付さずともよいレベルってものの存在も認識していますが、原則(理想と言い換えてもいいが)を曲げては記事自体の信頼性が著しく低下する虞があります。「東京駅は何時何分ころに最も混雑する」などの記述をしたいならば、それについて言及されている出典が必要なのは言うまでもありません。例え駅利用者の多数の常識であってもです。
- 利用者の「知」の結集・結合に異議を唱えるものではありませんが、基本的にあらゆる分野で信頼性ある文献に基づく記述を目指すべきです(「要求」の度合いへの疑念ならば理解できますが)。理想は、実現可能性が著しく低いことを以て無視できるものではなく、常に掲げていなければならないものだと思います。
- 実行が難しい場合に何が何でも原理原則に従え!とするものでもありませんが、基本ベクトルに従わずともよいとの解釈には反対です。--ろう(Law soma) D C 2010年1月20日 (水) 05:59 (UTC)
- 本郷さんも「念のために」以降で基本方針について異存がない旨書かれているので誤解する方は少ないかもしれませんが、最近このような議論を何個か見たためにちょっとナーバスになっていましたね、置きを悪くされたならすみませんでした。--ろう(Law soma) D C 2010年1月20日 (水) 06:05 (UTC)
出典を付さなくともよい事実があるということを確認できただけでも収穫です。気を悪くなんてしていません。議論と人格は別問題。混同するのは議論のタブーです。
ただね、現在は「基本方針」が「編集方針」、もっと露骨に言えば「削除方針」として機能しているのです。だから極端な話、出典の付いていないあらゆる事実について、削除が正当化されてしまうような状態です。実際、そうともとれる表現があります。私の立場は、「基本方針」「理想」「削除方針」「ルール」として、「記事は第三者(全利用者という意味ではない)が何らかの方法で検証できなければならない、これに反した記事は削除されるべきである」とすることには賛成であるが、「つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」と定義される検証可能性を一律に全分野に適用することには反対である、というものです。見方によっては、wikiの「検証可能性」の定義がおかしいだけ、と言えなくもありません。「第三者が(何らかの方法で)検証できる」ことと、「第三者が文献で検証できること」は決して同一ではありません。
削除基準というものが、もちろん基本方針と矛盾するようではいけませんが、基本方針から独立して定められればよいのでしょうが、困難極まりない作業でしょうね。大和屋敷さんが、「「検証可能性」を要求することと「検証可能性のない記事をすべて排除すること」はことなります」とおっしゃるのも、基本方針と削除基準は別だということなのかもしれませんが、現状は基本方針違反を理由とした削除が多い訳です。
あと、蛇足かもしれませんが、検証可能性というのは信頼性を担保するための手段であり、信頼性とは真実との適合確率だということも指摘しておきたいと思います。つまり、真実との一致確率を高めるために検証可能性が要求されるのです。目的と手段の関係にあるわけです。真実性と検証可能性は別も問題ではありますが、目的と手段の関係にある以上、真実性を離れて検証可能性が独り歩きするような事態は避けなければなりません。それは、目的を忘れて手段が暴走していることになります。
なお、個人的にはwikiにおいて究極的に真実性を担保するものは引用文献ではなく、無数の一般利用者によっていつでも編集可能であること、すなわち反真実は編集の繰り返しによっていずれ淘汰されていくこと、だと考えています。その意味で、あまりに専門的・学問的なことはwikiにはあまり向かないとも考えています。--本郷憲正 2010年1月20日 (水) 07:10 (UTC)
- えっと、手短に。「削除方針」って言うか、いわゆるWikipedia用語では「除去方針」とでも言えばよいのかな?「削除」ってのは履歴からも見えなくすることを指す場合が多いので、Wikipedia上の定義としては「除去」だと思ってください。で、ですね、なんでもかんでも信頼できる出典に基づいていないというだけで記述を除去しまくるというのは問題だという認識は共有していると思うのですが、「検証可能性」は単なる「手段」ではなく、素人による編集を前提としつつ質の高い百科事典を作る(「真実との一致確率を高める」との認識は私としてはニュアンス的に若干違いますが、まあここでは類似概念と思って頂いても結構)ために「前提」とされているのです。つまりWikipediaというプロジェクトは、検証可能性という手段を前提として成立しているプロジェクトだということです。単に真実性を追い求めるのであれば、研究者のみが執筆可能なプロジェクトにしているでしょう。なお、編集の繰り返しによる淘汰については同意できますが、検証可能性がなければ独自研究同士の編集合戦で終始し、淘汰に時間がかかるであろうことを指摘しておきます。--ろう(Law soma) D C 2010年1月20日 (水) 08:35 (UTC)
ろう(Law soma) さんへ。既に問題提起していますが、「検証可能性」の定義が問題なんです。貴殿のおっしゃる「検証可能性」は、一般用語としての意味である「単に(何らかの方法によって)第三者が検証できること」なのか、wiki特有の定義である「第三者が、信頼できる文献によって検証できること」なのか、どちらでしょうか?一般用語としての検証可能性については、私は基本方針としてもルールとしても除去基準としても、大賛成であることを繰り返し申し上げておきます。しかし検証手段を「信頼できる文献」に限定すると、専門家が存在しなかったり、信頼できる文献が少ない分野では、記述できる情報が著しく不足してしまうと考えるのです。記述される情報は、(編集する者ではなく)見る者の立場に立って、充実させなければなりません。編集する者の自己満足のためにwikiを作っている訳ではないからです。--本郷憲正 2010年1月20日 (水) 14:25 (UTC)
気持ちはわかりますが、検証不可能な独自記述ばかりを載せられてしまうと、読者にとっては嘘や間違いを教えられてしまうリスクが高まりますから、それに比べればまだ何も書いていないほうが望ましいでしょう。またウィキペディアの基本方針としても、WP:Vの他にWP:ORがあることをお忘れなきよう。 ただ現実には、記述に疑問が持たれた場合に出典を求められるという展開となるため、一般常識に照らして問題ない記述にはそれほど厳密な運用はなされていませんから、本郷憲正さんが危惧されるような事態にはあまりならないですね(もちろん、たまたまその分野に削除主義者が多いという場合もあります)--Kurz 2010年1月20日 (水) 14:47 (UTC)
Kurzさん、他人にコメントするならせめて数個前までその人の投稿をよく読んでからにして頂きたいです。 一般用語としての検証可能性(何らかの方法によって記事を書いた者以外の第三者が、検証できること)を要求することについては、私は基本方針としてもルールとしても除去基準としても、大賛成であることを繰り返し申し上げております。問題は検証方法を、ありとあらゆる分野において「信頼できる文献」に限ってしまってよいのかということです。検証可能性という言葉を使う時は、その内容を明示して頂けると助かります。--本郷憲正 2010年1月20日 (水) 15:07 (UTC)
- あ、そうですか。それは失礼しました。では上の発言は消しておきますので、無視してください。--Kurz 2010年1月21日 (木) 03:38 (UTC)
- 本郷憲正さんへ。ええと… 私はまだこのセクションで何も「提案」はしていません。もちろん、問題にしている記述を除去したほうが良いという方向で話がまとまりそうなら、そう提案したいと思いますが。また、「あらゆる分野で信頼性ある文献に基づく記述を要求すべきでは必ずしもありません」というご意見には、にわかには賛同できません。ただ、そういったご意見を「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分を根拠に門前払いするべきではないとは思います。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月20日 (水) 13:44 (UTC)
- そもそも「信頼できる文献」の定義が公式の方針になっていないので、その議論をする意味は少ないと思います。現状で多少の幅があるのですから。端的に言えば、ご懸念の抜本的な解消のためには、Wikipedia:信頼できる情報源に「分野によっては使用すべき文献の信頼性レベルに多少の差異を認める」旨の記述を加筆し、草案から公式な方針に格上げすることで足ります(ただ、Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源では方針化への疑念も出されています。)。本郷さんのご意見のとおりにすれば、第三者が個別に自分で確認できること一般が検証可能となってしまいます。人によって受け止め方が違うものの場合には、ここで問題が生じます。--ろう(Law soma) D C 2010年1月21日 (木) 00:08 (UTC)
「議論の余地がないものであり、~覆されるものではありません」?(もう一度)
[編集]なんか、話し合いの流れが、私が提起したかった問題と乖離してきているように思うので、もう一度。
まず、ウィキペディア日本語版で、どのような除去を投稿するべきか、受け入れるべきか、除去すべきか、してもよいか、利用者はどのように振る舞うべきか、振る舞ってもよいのかということの判断の根拠、つまり規範の権威の源にはつぎのようなものがあると思います:
- 財団の方針・意志・意向
- ウィキペディアの目的を促進するかどうか
- コミュニティの合意
「規範の権威はこの三つに由来する」みたいな抽象的な言い方をすればにわかには賛成できないかもしれませんが、まぁ、ウィキペディアでの方針の議論はだいたいこの辺におちつくだろう、という程度には同意いただけるのではないでしょうか(じつは、私はこの三つですべてだとは思いませんが、話を簡単にするために)。
さて、Wikipedia:検証可能性(WP:V)の「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述は、この三つに照らして、WP:Vの権威をわずかばかり損なっている、つまりWP:Vにしたがうべきだという意見の説得力を低下させていると思うのです。
まず、1番目の「財団の方針・意志・意向」という点。じつは、以前は私もこの「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」というのは財団の方針を反映したものなのだと考えていました。そう考えれば、たしかに見かけ上の権威は非常に高まります(絶対化するといっても良いかもしれません)。しかし、実際のところ、これは少なくとも財団(やJimbo)の明示的な意思表明に由来するものではないようです(英語版で、これに相当する部分が除去されて3年以上経過し、その除去にまつわる議論で明示的な意思表示が指摘されなかったことは、そういったものは存在しないのだと考える十分な理由といえるでしょう)。ですから、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述が、財団の方針に由来するかのように見え、それがもとで見かけ上の権威があるとするならば、そのことはかえって、財団の意向に反するといえるのではないでしょうか。WP:Vが財団の方針・意向に反しているといっているわけではありません。そうではなく、財団が言ってはないことをさもそう言っているかのように見せかけることは、財団の方針・意向に反しているのではないか、あるいは少なくともそれを尊重していないことになるのではないか、ということです。
つぎに、2番目の「ウィキペディアの目的を促進するかどうか」という点ですが、少なくとも、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述の存在が、この点からWP:Vの権威を高めることはないでしょう。
そして、3番目の「コミュニティの合意」という点からいえば、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」は、むしろコミュニティの合意による変更を拒絶するという宣言です(その範囲はともかく)。つまり、この記述があるがために、WP:Vはコミュニティの合意を反映していないようにも見えます。「コミュニティの合意」という点からいえば、この記述は、WP:Vに従うべきだという意見の説得力を損なっているのは間違いありません。
以上より、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述は除去すべきであると考えます。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月21日 (木) 11:59 (UTC)--修正:2010年1月22日 (金) 13:51 (UTC)
- 単純に英語版から除去されて問題になっていないのですから、英語版を翻訳した日本語版からも除去するほうが良いと思います。
- また、現在の英語版の「中立的な観点」(en:Wikipedia:Neutral point of view)でも、『"Neutral point of view" is one of Wikipedia's three core content policies, along with "Verifiability" and "No original research." Jointly, these policies determine the type and quality of material that is acceptable in Wikipedia articles. They should not be interpreted in isolation from one another, and editors should therefore familiarize themselves with all three. The principles upon which these policies are based cannot be superseded by other policies or guidelines, or by editors' consensus.』という文章になっており、「議論の余地が無い」という意味の文章はありません。--Type64r 2010年1月28日 (木) 13:37 (UTC)
- 「英語版に忠実」を目指すならWikipedia:検証可能性#方針も現行の英語版には存在しないですね。形式論では結論が出ない場合どうしたもんか。--大和屋敷 2010年1月28日 (木) 13:57 (UTC)
- 元々が単純に英語版を日本語訳したものであるのだから、英語版に則した改変は当然と思われます。その他に問題点があるなら、それは別個議論されればよいのでは?--Type64r 2010年1月28日 (木) 15:12 (UTC)
- このあたり立ち居地むつかしいですね。①Wikipediaは英語版が発祥だからそちらに従うのが伝統的価値(倫理)にみあう②その場合日本語版の当ノートはいかに忠実に翻訳しているかを検証する場にすぎず、日本語版として編集方針を議論する余地はないということが前提となる。のかな?むー--大和屋敷 2010年1月28日 (木) 18:28 (UTC)
- 元々が単純に英語版を日本語訳したものであるのだから、英語版に則した改変は当然と思われます。その他に問題点があるなら、それは別個議論されればよいのでは?--Type64r 2010年1月28日 (木) 15:12 (UTC)
- 「英語版に忠実」を目指すならWikipedia:検証可能性#方針も現行の英語版には存在しないですね。形式論では結論が出ない場合どうしたもんか。--大和屋敷 2010年1月28日 (木) 13:57 (UTC)
- ちょっと、mizusumashiさんに質問なんですが、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」(英語版?)の初期投稿者は、財団とは関係ない人なのでしょうか? もし、初期投稿者が財団の関係者であれば、それは(当時の?)「財団の方針・意志・意向」であることは明白なのではないでしょうか? 英語版で修正があり、それを根拠に「財団の方針・意志・意向」が当時と変わったのでは? とあれこれこの場所で推察するよりも、財団に直接「方針が変わったのか?」と聞いた方が良いように思われました。 もし、変わっていればそれに従って変更すればよいし、変わっていなければ英語版の方の変更が、手続きに従ってなされるかもしれません。 (もちろん、初期投稿者が財団と全く関係が無い人物なら、この前提は成り立ちません。)
- 2番目の『「ウィキペディアの目的を促進するかどうか」という点ですが、少なくとも、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述の存在が、この点からWP:Vの権威を高めることはないでしょう。』については、御免なさい理由が良く分かりませんでした。
- 私は、英語の能力も無く、どう財団にアプローチすれば良いかも分かりませんが、あれこれここで推察するより、直接誰かが(誰が相応しいかはわかりませんが…ビューロクラットの誰か?)財団に聞いた方が良い様に思われました。 もし聞いて、財団に「そんな文章、知らないよ」、もしくは「方針が変わったので、除去してもOKです」と言われれば、3番目のコミュニティの合意の元に、除去出来るのではないでしょうか?--山本山815 2010年1月28日 (木) 23:57 (UTC)
- 翻訳は、ウィキペディア編集者によるもののようですよこちら参照方[7]--Type64r 2010年1月29日 (金) 11:01 (UTC)
- ◆mizusumasiです。山本山815さんへ。英語版で「non-negotiable, and cannot be superseded by …」という部分が入ったのは、この版のようです。そして、この投稿者は多重アカウントの濫用で無期限投稿ブロックされているようです(User:Jossi)。あらゆることを調べたわけではありませんが、たぶん、財団の関係者ではないでしょう。
- というか、英語版で除去され、その議論の中でこれが財団の意思・意向であると説得的に実証した人がいなかったということは、そういう意思・意向があるわけではなかろうと考える十分な理由になると考えます。その事実がある以上、改めて何らかの説得力がある根拠が示されなければ、財団にそういう意向があるかもしれない、というのは、現時点ではたんなる空想といわざるをえないように思います。
- > 2番目の『「ウィキペディアの目的を促進するかどうか」という点ですが、少なくとも、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述の存在が、この点からWP:Vの権威を高めることはないでしょう。』については、御免なさい理由が良く分かりませんでした。
- 「ウィキペディアの目的を促進するかどうか」というのは、その方針の内容・規律・目的などが合理的かどうかが問題になり、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述は、なんら方針の内容・規律・目的を与えるものではないので、この点からは無関係でしょう。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月29日 (金) 11:30 (UTC)
- mizusumashiです。Type64rさんと大和屋敷さんへ。私は、英語版で除去されたからという理由で除去すべしということを検討されているのでしたら、賛同できかねます。正直なところ、そういう発想自体がウィキペディア的ではない、とさえ思います。WP:Vとて、日本語版の実状・考え方に見合うように、英語版とは違ったものになって構わないと考えています(例えば、フィクション作品の内容そのものを出典にできるかどうか、というような日本語版では繰り返し取り上げられる議論が英語版ではなされていないのであれば、その点について、日本語版では独自の手当てが必要かもしれません)。
- とはいえ、英語版で除去されたということは、これが除去してもよいものだと考える大きな理由になりますし、その点は強調したいと思います。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月29日 (金) 11:30 (UTC)
細かい部分が各国の実情に合わせて変更されていくのは当然でしょうが、根本的な方針は英語版に合わせておくべきなのではないですかね?それに、Wikipedia:五本の柱には『この5つの原則の他には、ウィキペディアには、確固としたルールはありません』とまで書かれているのに、「検証可能性」が絶対的なものとして説明されているのは矛盾ではないですか?英語版の議論でもその辺のことも言っているような感じですが。--Type64r 2010年1月29日 (金) 12:09 (UTC)
- コメント 検証可能性などについては第二の柱で「中立的な観点に基づくということはまた、可能な限り検証可能で信頼できる出典を明記するということをも意味します」云々と言及していますが。
- ところで、第五の柱の「この5つの原則の他には、ウィキペディアには、確固としたルールはありません」という言明もまた5つの柱に含まれているということは、ウィキペディアの原則が形式論理的には決定不能であるということを示してはいませんか。
- で、mizusumashiさんの問題提起は、こういうことを論じたいためなのではなかったかもしれないです (たぶん)。 --Hatukanezumi 2010年1月30日 (土) 02:16 (UTC)
- (サーバーエラーで文章が飛んだのですが、頑張って再投稿(苦笑))
- (色々後に調べたのですが、)問題の箇所の英語版の編集は2006年1月1日に行われ、その後除去・復活などを繰り返していますが、おおむねこの記載はこの時期多くの編集者に維持される形で残っています。(ですので、この編集者が無期限ブロックになっているのは、除去の理由にはならないと思われます。)
- その後この記載は、2006年8月27日に除去され、「The principles upon which these three policies are based are only negotiable at the foundation level in practice.(これらの3つの方針が基づいている原則は、実際には財団レベルのみで交渉可能です。)」との記載に変更されます。そして、議論の後(This should stay removed; see talk)に「財団レベルのみで交渉可能」との記載が2007年1月14日に除去されます。
- 現在の英語版には、「Wikipedia:Verifiability is one of Wikipedia's core content policies(検証可能性は、ウィキぺディアの方針内容の核の1つです)」と書かれています。 つまり、この要素が、英語版編集者の議論と合意を経ながら、変遷して行っているということだと思われます。
- さて、英語版が「方針化」したのは、2005年3月14日ですが、もちろん議題になっている「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記載はありません。 私たちは、全く英語版の議論にも参加していなければ、その議論を満足に追うことが出来ない中で、どこに基盤を置いて編集すべきかを考えなければならないように思います。つまり、
- 私たちが議論に参加していない英語版を、(財団の意思が入っているかが不明な中)無条件に受け入れれば良いのか?
- 各言語版の編集者は、合意さえあれば、財団の意思を確認することなく「方針」自体をどんどん変更できるのか?
- という問題が出てくるように思われます。
- 私は、「直接財団に聞いた方が早いのではないか?」と単純に思ってしまうのですが、皆さんはどう考えますでしょうか?--山本山815 2010年1月30日 (土) 05:08 (UTC)--追記修正山本山815 2010年1月30日 (土) 06:20 (UTC) --勘違いを修正山本山815 2010年1月31日 (日) 05:18 (UTC)
- えーと。余談気味のところからはじめます。
- わたしたちは、英語版の方針やガイドラインをすべて受け入れるわけではなく、現に取り込まれていない方針やガイドラインはたくさんあります。古い版からの訳をそのまま用いているものもあります。すべてのプロジェクトで受け入れなければならないものは、必ずしも「財団の方針・意志・意向」としてトップダウンで決まるものではなく、慣習が明文化されたものもあるでしょう。財団理事の決定やmetaでそのような文書となっています。ただし、明文化されていない慣習などもありますし、アメリカは慣習法的な伝統を持ちますから、財団やプロジェクトの理念は尊重しなければならず、好き勝手にできるというものではないでしょう。
- なお、検証可能性の財団が明示している文書などにおける位置づけについては、英語版での"negotiable only at the Foundation level."を除去する際の議論の中で取り上げられています[8]。
- 英語版というのは、ウィキペディアの中でもっとも活発に、財団ができたり理事という制度ができたりというよりも前から、発展し続けているもので、その他の言語版からも多く参照されてきているものです。英語版の文書は、そのように位置づけされるプロジェクトのなかで、成文化された慣習として尊重する必要があるということになります。metaの文書から英語版の文書へリンクが張られていることもしばしばあります。
- 日本語版では、適宜その理念の部分を曲げない範囲で、表現を改めたり、ローカライズすることになります。どうしても解釈が入り込むことですから、原文の訳をそのままにしておいて、別文書としてローカライズするか、そのまま書き換えてしまうかということは、人によって考え方が違うと思います。
- ローカライズにあたっては、準拠法が変わりますから、どうしても変えないといけないこともあります。日本語版のコミュニティの成熟の度合いや日本のインターネット文化固有の問題から、変えた方がいいもの、英語版の変更を受け入れない方がいいもの、というものもあるでしょう。
- ここで提案されている部分は、英語版でかつて存在し、後に除去されているものですから、日本語版で除去しても「理念の部分を曲げない範囲」には留まるでしょう。Mizusumashiさんの意見に即して考えるならば、
- WP:IARの精神からは、「覆されるものではない」と書かれていても、合理的な理由があれば覆すことはできます。安易な議論の余地はなく、安易な合意によっては覆らないという程度の意味にしかならないでしょうから、この記述から「財団の方針・意向に反している」とは言えないと思います。「財団の方針・意向」だ、とは、書かれているわけでもありません。また、検証可能性の方針は、核となるものであるにしては、新しい執筆者も古くからの執筆者も、今なお十分遵守すべきものとして理解されているとは言えませんし、容易に覆すべきものでもありません。今の日本語版のコミュニティの状況からは、現状の厳しい表現を使うということが、世界一の質を持つ百科事典をつくるという目的を促進する上で有効に働くと考えることは出来ます。「コミュニティの合意」という点で言えば、翻訳当時のコミュニティはそれだけ強く重要性を訴える文書だとして合意を得ているのであり、かつてのその合意を、その後のコミュニティの強い合意によって変更することを妨げるものではないでしょう。ウィキペディアの精神に慣れていれば、コミュニティの合意による変更を一切拒絶するという宣言というものなどない、ということは理解できると思います。なので、どうしても除去しなければならないものというところまでは思いませんでした。
- ただし、三方針の重要さを強調する文章として、「この三方針は…」というのが最適ではないと思いますから、表現を改めることには反対しません。--Ks aka 98 2010年1月30日 (土) 06:38 (UTC)
単純な除去には反対。例えば英語版での近年の極端な例をあげれば、三大方針のうち2方針の統合(en:Wikipedia:Attribution)という提案が行われた時にコミュニティの合意に関わらずジンボが介入し待ったをかけたことがありました。日本語版では、こういったある意味でのコミュニティの暴走を抑止する力は事実上存在しません。それを考えた時にこの文章はコミュニティの暴走に対して一定の抑制力を発揮するものであり、安易な方針文書の改訂を防ぐという意味でも昨日しています。過去、日本語版でもWikipedia:ウィキペディアは何ではないかの過去の版で何気なく加えられた"ニュース速報"というたった6文字の文字を巡って拡大解釈が進み、結果Wikipedia:性急な編集をしないという文書が生まれました(現在はこの記述はコミュニティによって否定されています)。更にこの文書を元に一時期、保護の方針の改訂までが行われています。重要文書がコミュニティに与える影響は決して小さくありません。文書の改訂は慎重に進められるべきです。
もしこの文章を除去するのであれば、除去された後のことも考えなければなりません。除去後に考えられるのは、文書の記述変更を望む利用者は他の方針文書と同じように1週間反応なければコミュニティの合意が得られたとみなし即改訂—ということが可能になるということです。三大方針がそんなにも簡単に改訂され、コロコロと変更されてもよいのでしょうか。少なくとも自分は三大方針のノートでの提案にコミュニティのレスポンスがないということは、コミュニティはその提案を受け入れていないと見るべきだと考えます。もし文書を除去するのなら、現在の日本語版にコミュニティの暴走を止めたり仲裁に入る人物/組織が存在しない以上、この数行の文章が担ってきた役割(抑制効果)に十分に変われる、新しく受け皿となるような改訂手続きを示した新たな文書や
- 他の2方針との関係性において矛盾がないか
- 財団の方針・意向に反していないか
- コミュニティに対して改訂のための十分な告知は行われているか
- 加えられようとしている文章は文書の理念を曲げるものではないか
- コミュニティによる検証は行われているか
- 準拠法との関係で問題はないか
- テスト運用によって実際に起こりうる問題点、実害は十分に把握・検証されているか
といった点について改訂手続きのためのチェックリスト作成を検討するぐらいの必要はあるのではないかと思います。少なくとも、三大方針はそう易々と改訂されてよいものではないと思うし、たとえ様々な理由付けをしたとしても単純な除去には賛成できません。--Tsukamoto 2010年2月20日 (土) 06:26 (UTC)
コメント 議論止まってるようですが、気になってた件でしたし、ちょっと時間ができたのでコメントを。書くだけ書いて返事できないかもしれませんがご容赦を。で、本件についてですが、その文言を除去する/変更する、別に構わないと思います。というか、大切なのはそんな文言の一字一句ではなくて、
- ウィキペディア(日本語版)では、記事の記述は必ず検証可能性を満たすように、つまり、すべての記述の情報は、何らかの公表された信頼できる情報源に記述され、その情報源を出典として示さなければならない。
- 出典が明記されていない記述は、除去されても仕方ない(文句は言えない)。
- 出典を示す義務は、その記述を追加する(残そうとする)側にある。
という3つの検証可能性に関する原則が、(容易に)変更されることなく保存され、三大方針の一つとして、そしてウィキペディアがウィキペディアとして成り立つための一種のアイデンティティとして、成立することでしょう。これを達成する手段の1つとして、現在は「この方針は議論の余地がないものであり、利用者の合意形成ぐらいでは改定されない」という一文を、文章中に入れているに過ぎないと思います(そしてこれは、現在のところうまく働いています)。ですから、このような3原則の保存を達成する機能を取り去る(本方針の変更の難易さを下げる)ような変更であるなら、それは個人的にも、そしてウィキペディア日本語版の将来を考えても、受け入れがたい変更ですし、そうでなくて、単にその問題となっている記述の仕方/方法が気にくわないorおかしいと思うから修正しよう、ということであるなら、その目的に合う文言を、通常の合意形成手段に則って、適切に合意形成を行い、合意が得られれば変更をすればよいと思います。もしそうでない場合、つまりこのような原則に対する保存性自体を問題として変更しようとする場合、まず、移入がenwpからでenwpが今どうなっているか、という経緯はどうであれ、少なくとも、問題となっている記述を含む本方針は、十分長い期間jawpで公的な方針として運用されている事実は疑いようもないことを認識すべきで、私は、これはjawpコミュニティとしてもこれを受け入れていると考えて良いと思います。言い換えるなら、その記述は、(今のところの)jawpコミュニティ自身が、本方針は自分たちだけで容易に変更するようなものではなく、保存性のある(変更に対して強硬な)ものである、と宣言していると考えます。ですから、そのような変更を行なう場合は、これらの原則に対してコミュニティ自身が課していた(宣言していた)制限を取り払うべきかどうか、というところから話を始めなければならないでしょう(ただし、先にも言ったように、私自身はそのような制限の撤廃には強く反対しますし、多分大部分の日本語版のウィキペディアンも同じではないかと思っています)。以上、長くなってしまったので簡潔にまとめると、「他の手段で検証可能性に関する原則を保存する機能を代替できるのであれば変更すればよい」ですし、「その保存性自体を変更するのなら、私は反対、そして他の人からもかなりの反対があるだろうと予想され、そのようなことをするのはかなり大変(個人的な考えでは、現実的にはほぼ不可能)」である、ということです。--青子守歌(会話/履歴) 2010年2月20日 (土) 21:08 (UTC)
◆うーんと… では、一点だけ。「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分は財団の意思である、という解釈は根拠のない空想であり、そのように主張することは財団の方針・意向の捏造である、ということには皆さん、同意されますか? それとも、そういう解釈に根拠が示せるでしょうか?--mizusumashi(みずすまし) 2010年2月21日 (日) 01:19 (UTC)
- Mizusumashiさんへの質問なのですが、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」が財団の意思でなく「財団の方針・意向の捏造である」とすれば、それは誰がいつ行ったものでしょうか? また、もしできましたら捏造がどのような目的で行われたのかもお教え頂ければ幸いです。--Himetv 2010年2月21日 (日) 03:36 (UTC)
- えっと… 私は、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述そのものが、財団の方針・意向の捏造であると言っているわけではありません。その記述部分が財団の意思であると解釈し、主張することが捏造だというのが私の意見です。
- さて、そのような解釈・主張の実例としては、大和屋敷さんの2010年1月19日のこの投稿が、「Wikipediaの「主催者(要はオーナー)」」が「この三方針は~利用者同士での合意によって覆されるものではありません」という主張を行っている、ということを前提にしています(大和屋敷さんはこのあとこのこの認識を改められたようですが)。また、大和屋敷さんは、それより以前、この部分を根拠にWikipedia:検証可能性は一切議論不可能だ、と強く主張していました[9]。このような解釈・主張の意図や目的までは私には分かりません。
- ちなみに、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述がどのように登場したのかといえば、現在投稿ブロックされている英語版の利用者Jossiさんの2006年2月5日のこの投稿 が最初の登場だろうと思います(その後、いくらか変更されたり、翻訳されたりしていますが)。こちらも意図や目的までもは私には分かりません。--mizusumashi(みずすまし) 2010年2月21日 (日) 04:33 (UTC)
- いや、認識は改めていないですよ。そのあたりは「うすっぺらな形式論」なので正確にお願いしますよ。--大和屋敷 2010年2月21日 (日) 16:47 (UTC)
- 了解しました。JAWPの初期に何らかの原因で混入した文章が権威を持ってしまったのかと思い、上記のような質問をしたのですが、快く回答頂きありがとうございました。「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」は英語版においてJossiさんが2006年2月5日に創作した文章であり、それが英語版においてコミュニティに支持され、それが翻訳され現在に至っている、ということでよろしいでしょうか。そういうことであればこの記述は翻訳された当時の英語版コミュニティの総意でこそあれ、財団の方針・意向ではないという解釈には異論はございません。--Himetv 2010年2月21日 (日) 05:57 (UTC)--一部追加。--Himetv 2010年2月21日 (日) 06:02 (UTC)
- この文章が「財団の方針・意向ではない」かの検証はされていません。(その趣旨に「財団の方針・意向」が入っていれば、「ではない」とは言えないでしょう。) また「Jossiさんが2006年2月5日に(最初に記載したにしても「財団の方針・意向」の意に反して一人で)創作した文章」かも検証されていません。 上で私が英語版の変遷の経緯を調べて書いてますので、それを踏まえた議論をお願い致します。--山本山815 2010年2月21日 (日) 15:24 (UTC)
- ええと、。mizusumashiさんのご説についてですが。【ちなみに、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述がどのように登場したのかといえば、現在投稿ブロックされている英語版の利用者Jossiさんの2006年2月5日のこの投稿 が最初の登場だろうと思います】について。投稿ブロックされたユーザーの、現在ブロックされているという事実をもって批判の材料とするのは人身攻撃ですので慎重にお願いします。またWikipedia記事についての独自研究の投稿は禁止されていますが、それが編集方針(例えばWikipedia:検証可能性)にまで及ぶというルールがある、という主張があるとすれば、それを裏付ける文章を発見することもできません。ウィキペディア財団が「この方針は議論の余地がないものであり・・」と明言している方針がWikipedia:中立的な観点についてであり、それ以外については明言していない以上、Wikipedia:検証可能性にまでその原則が及ぶのかどうかについては解釈によると考えます。そして僕は「これら三つの方針は相互補完的、議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」(Wikipedia:中立的な観点)の文言を見る限り、投稿ブロックされたユーザーさん(Jossi)の存在は関係なくWikipedia:検証可能性にまでその効力は及ぶと考えますし、日本語版にそれに呼応する文字列が明示されていることを不具合だとは考えません。--大和屋敷 2010年2月21日 (日) 17:03 (UTC)
- この文章が「財団の方針・意向ではない」かの検証はされていません。(その趣旨に「財団の方針・意向」が入っていれば、「ではない」とは言えないでしょう。) また「Jossiさんが2006年2月5日に(最初に記載したにしても「財団の方針・意向」の意に反して一人で)創作した文章」かも検証されていません。 上で私が英語版の変遷の経緯を調べて書いてますので、それを踏まえた議論をお願い致します。--山本山815 2010年2月21日 (日) 15:24 (UTC)
山本山815さんへ。
だから、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分が、財団の意向・方針を反映しているかもしれないというのは、根拠のない空想ではありませんか?
財団の意向・方針を反映しているというわけではないだろうと考えられる理由は既に指摘してます。
空想をいちいち検証する必要はないでしょう。とくに、それを否定する方向の根拠がある場合には。あくまで検証すべきというのであれば、山本山815さんが検証されることを止めはしませんが、それでもなお検証されるまでは空想は空想にすぎません。--mizusumashi(みずすまし) 2010年2月22日 (月) 12:32 (UTC)
大和屋敷さんへ。
まず、WP:Vの内容について「投稿ブロックされたユーザーの、現在ブロックされているという事実をもって批判の材料とする」人など誰もいません。あくまで、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分が、財団の意向・方針を反映しているかどうかについての文脈で、取り沙汰しているものです。そして、その文脈でなら、これは人身攻撃にはあたりません。なぜなら、この投稿者の属人的性質を問題にすることは、この文脈でならほぼ厳密に論理的といってもよいほど結論に密接に関わっているからです。しかも、この投稿者の属人的性質とこの部分の権威性をはじめに問題にしたのは私ではありません。私はそれに反論したまでです。
次に、「ウィキペディア財団が…解釈によると考えます」の部分は同意できません。ここで問題にしているのはウィキペディア日本語版のルールや先例の解釈ではなく、財団の意思です。それでもまた解釈の余地がまったくないということはないでしょうが、そこまで自由に云々できるものではないでしょう。meta:Founding principlesが財団の方針・意向をどれほど正確に反映しているのか自体が疑問ですが、反映しているとして、財団は容易に「検証可能性の方針」を入れられるところに入れなかったのです。それなのに、財団がNPOVの方針について覆しえないと定めたことが検証可能性の方針にまで及ぶ、というのは解釈という行為を逸脱しているとしか思えません。
「そして僕は…」以降の部分は、ウイキペディア日本語版内の方針としてであればそういう解釈をするのはそれなりに合理的だと思いますが、それが財団の方針・意向であると主張できる根拠とはならないでしょう。--mizusumashi(みずすまし) 2010年2月22日 (月) 12:32 (UTC)
- コメント「財団の意思として、検証可能性の方針のすべてに議論の余地がなく、この方針自体の内容は、方針自体を議題とした議論の末の合意によっても覆されるものではないと方針などで明示的に宣言されている」という理解がどこかにあるなら、それは誤りです。ただ、検証可能性の方針はそのように書かれていないですし、大和屋敷さんの2010年1月19日の投稿も当初から留保付きの意見でした。なお、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分は財団の意思である、という解釈は他の文書との関係からは根拠のない空想ではなく、いちおうの説得力がある推察による解釈の一つであり、それを「そのように主張することは財団の方針・意向の捏造である」と称するのは適切ではないと思います。
- というか、mizusumashiさんの最初の書き込みにある「財団の方針に由来するかのように見え、それがもとで見かけ上の権威があるとするならば、そのことはかえって、財団の意向に反するといえるのではないでしょうか。」というのが、いまいちよくわからない。英語版の改変後[10]の記述
- The principles upon which these three policies are based are only negotiable at the foundation level in practice.
- は誤りだと思いますが、日本語版が当初翻訳に用いた英語版の記述は、
- The three policies are non-negotiable and cannot be superseded by any other guidelines or by editors' consensus.
- で、日本語版の最新版の訳文は
- この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。
- です。これは単に、ノートページなどでその記事の執筆者が「ある記述については出典は不要」などと合意したとしても、その合意は無効であるという意味に読むのが自然ではないでしょうか。--Ks aka 98 2010年2月22日 (月) 13:26 (UTC)
- まず、大和屋敷さんの2010年1月19日の投稿について。その投稿が、「Wikipediaの「主催者(要はオーナー)」」が「この三方針は~利用者同士での合意によって覆されるものではありません」という主張を行っているという点について留保を付しているようには、私には読めません。
- 次に、もしこの文面を残すのであれば、「ノートページなどでその記事の執筆者が『ある記述については出典は不要』などと合意したとしても、その合意は無効である」という意味に読むべきだと思います。これはこの文面の由来とその由来にふさわしい権威の程度、ウィキペディアのあり方などからそう考えますから、そういった意味ではそう読むのが「自然」であるということには同意します。
- しかし、もし、この文言が財団の方針や意向に由来するものであるならば、そのようにだけ読むことは不可能であり、WP:Vを特定のバージョンからある程度以上書き換えることをも禁止していると考えなければ不整合でしょう。そうでなければ、WP:V自体の変更によって財団の方針・意向を回避することができるということになってしまいます。
- さらに、「財団の意思である、という解釈は他の文書との関係からは根拠のない空想ではなく、いちおうの説得力がある推察による解釈の一つ」という点については、同意できません。
- これが何をおっしゃっているのかよく分かりませんが、ひとまず、ja:WP:NPOVの「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」という部分について、若干、指摘しておきます。meta:Founding principlesは、ja:WP:NPOVにリンクされていません。それがリンクしているのは、meta:Neutral point of viewであって、そこには検証可能性については言及はないようです。財団がja:WP:NPOVの根幹部分、その精神を守るようにという方針・意向を持っているということまでは、認めることができると思います。しかし、ja:WP:NPOVの「この三方針は議論の余地がないものであり~」の部分が財団の方針・意向に含まれているという根拠はありません。少なくとも、ここまでの議論で示されてはいません。
- 他の文書との整合性を考慮しても、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分が財団の意向であるかのようにも読めるようにウィキペディア日本語版の方針が書かれているということについては理解できなくもありませんが、これが財団の意思ではないと考えるだけの十分な理由(英語版の動向)がある今、そもそも日本語版の方針の体系全体をこの点において疑問に付し、根拠のないものだと判断するに十分な理由があると考えます。
- 「財団の方針に由来するかのように見え、それがもとで見かけ上の権威があるとするならば、そのことはかえって、財団の意向に反するといえるのではないでしょうか」について。財団は、ウィキメディアプロジェクトを運営する上で必要な方針は、理事会決議という形でいくつも明示しています。あることは財団からの方針として明示し、あることはしないという選択を行っているわけです。
- 明示しないまでも暗黙に財団が考えているようなことであってさえ(そういうものがあるとして)、それが財団の方針に由来するかのように示すのは、その財団があることは明示し、あることは明示しないという選択を蔑ろにするものでしょう。ましてや、それが財団の方針に由来していると考える根拠がないものを、それが財団の方針に由来しているかのように示すことは、前述の財団の選択をさらに蔑ろにしていることになります。--mizusumashi(みずすまし) 2010年2月22日 (月) 17:05 (UTC)
- 指名されたので返答します。 私は『その趣旨に「財団の方針・意向」が入っていれば、「ではない」とは言えない』と書きました。 ジミー・ウェールズは2004年12月にこう書いています。「The basic concept is as follows: it can be quite difficult for us to make any valid judgment as to whether a particular thing is true or not. (中略)But what we can do is check whether or not it actually has been published in reputable journals or by reputable publishers. (基本的なコンセプトは以下の通りです。:私達がある特定の事柄が真実かそうでないかについて正当な判断をする事は、非常に困難な場合があります。(中略)しかし私達が出来ることは、実際にそれが評判の良いジャーナル(定期刊行物)あるいは評判の良い出版社によって出版されたか、そうでないかを、チェックすることです。)」 この文章は、検証可能性の中心的概念を話している様に思えます。 そしてこの文章が書かれる以前の2003年8月に「検証可能性」の概念は方針として確立され、今でもWikipediaの「核」の方針の一つとされています。 2004年12月のジミー・ウェールズの文章の意図が変更(もしくは破棄)され、「合意によって覆さ」れて良いという「財団の意向・方針」を私は知りません。 つまり、当該文章が「財団の意向・方針を反映しているかもしれないというのは、根拠のない空想」だとは言えないと考えています。
(ところでmizusumashi氏がなぜこの文面の除去に固執するのか良く分からなくなってきたのですが、上に書かれた意図以外に、1.この文面を除去して大幅改正を試みたい、もしくは自身の管理者だった立場から2.自身の編集や議論を有利に進める為にこの文面を排除したい、とお考えなのではないでしょうか? もしそういう動機があるとすれば、それこそ「財団の意向・方針」に反しているのではと思われます。 私はmizusumashi氏の主張を繰り返し聞くにつれ、むしろこの文面を残した方が「財団の意向・方針」を守ることになるのでは?とさえ思えて来てなりません。)--山本山815 2010年2月22日 (月) 18:57 (UTC) --修正山本山815 2010年2月23日 (火) 22:23 (UTC) --mizusumashi氏への記載を取り消し山本山815 2010年3月4日 (木) 14:10 (UTC)- mizusumashiさんの論旨展開は「証拠がないことを根拠に結論を得る」誤謬(未知論証)になっていませんか?財団とのリアルタイムな連絡が無い以上、過去の証拠探しが重要になるわけですが、明言している証拠が発見できないばあい、Wikipedia:検証可能性に原則が及ぶのかどうかについては解釈によると考えます。いつものようにググってみたところ、会計学の世界で「目的適合性」だとか「信頼性」だとかいう用語が登場しまして、情報の信頼性とは(表現の忠実性、検証可能性、中立性等が確保された有用な情報)という考え方が使われるようです[11][12][13][14]。環境問題などでも良く出てくるようです[15][16]、科学的手法[17]についてのキーワード、あるいはカール・ポパーの用語でもあるようです[18]。--大和屋敷 2010年2月22日 (月) 19:53 (UTC)Wikipedia財団の意思について考慮することが本則ですが、その意思が不分明であることを前提として解釈による場合は、社会の経験知(ないしはポパー流の哲学知)を参照することも考慮するべきでしょう。(余談)グーグルで「"検証可能性" filetype:pdf」でぐぐると大量に出てきますよ。--大和屋敷 2010年2月22日 (月) 19:53 (UTC)
- ぼくは「検証可能性の方針のすべてに議論の余地がなく、この方針自体の内容は、方針自体を議題とした議論の末の合意によっても覆されるものではないと方針などで明示的に宣言されている」という解釈は誤りだということには同意しています。しかし、mizusumashiさんは、そういう問いを立てているのではなくて、単にその文面が財団の意向かどうかということを問うていました。推測を積み重ねていけば、なんらかの意向を読み取る人もいるでしょう。
- 山本山815さんが書かれていることは、「検証可能性の方針のすべてに議論の余地がなく、この方針自体の内容は、方針自体を議題とした議論の末の合意によっても覆されるものではない」という財団の意思を示すものではないと思いますが、それでも空想や捏造と呼ぶべきことではないと思います。そして正誤や妥当性を超えて、「根拠のない空想」だの「捏造」と呼ぶことにまで同意を求め、「財団の方針に由来するかのように見え」るということを共通の前提とすることに同意を求めるのであれば、それは合意を困難にさせると思いますよ。
- この記述のところで、「財団の方針や意向に由来するものである」という誤解が生じるなら、記述を改めればよいではないですか。ぼくは、財団の方針に由来するかのように見えないし、方針の書き換えについて書かれているのだとしても、IARがある以上、絶対的に禁止されていると読むべきではないと思う。もっとも、この表現の導入についてはen:Wikipedia talk:Verifiability/Archive 12#Non-negotiable againでの議論から「The principles upon which these policies are based cannot be superseded by other policies or guidelines, or by editors' consensus.」となり、三つの方針に加筆され、([19]を踏まえ)WP:NPOVに残っているということになるようです。
- この文面が意図していること、結果として意味していることは、安易な書き換えを抑制すること、ガイドラインやノートなどでの合意では覆らないものだということの二つです。
- 検証可能性の方針の書き換えについては、それなりの手順は必要でしょう。通常の方針文書でもコンセンサスを確認するために先行した議論が必要とされます。コンテンツの核となる方針においては、改訂にはより慎重となるべきでしょうから、今の文章を書き換えについて理解している人が多いならば、財団の方針がどうあれ、そのような意味の文章にしましょう。
- 検証可能性の適用を緩和させたいという意見は時々現れますから、ガイドラインやノートの合意は検証可能性の方針を越えるわけではないという記述もあったほうがいいと思います。
- 現在の文面は、財団の方針や意図であるとは書かれていません。財団の方針や意図であると書く必要はないですし、財団の方針や意図による権威付けがなくとも、方針の書き換えやノートの合意で覆らないということは、読み方によるとはいえ既に文面から読み取れたことであり、慣習的に理解されていて、今ここで合意も得られることだと思います。財団の方針や意図ではないが、と書く必要もないと思います。--Ks aka 98 2010年2月22日 (月) 20:04 (UTC)
- mizusumashiさんの論旨展開は「証拠がないことを根拠に結論を得る」誤謬(未知論証)になっていませんか?財団とのリアルタイムな連絡が無い以上、過去の証拠探しが重要になるわけですが、明言している証拠が発見できないばあい、Wikipedia:検証可能性に原則が及ぶのかどうかについては解釈によると考えます。いつものようにググってみたところ、会計学の世界で「目的適合性」だとか「信頼性」だとかいう用語が登場しまして、情報の信頼性とは(表現の忠実性、検証可能性、中立性等が確保された有用な情報)という考え方が使われるようです[11][12][13][14]。環境問題などでも良く出てくるようです[15][16]、科学的手法[17]についてのキーワード、あるいはカール・ポパーの用語でもあるようです[18]。--大和屋敷 2010年2月22日 (月) 19:53 (UTC)Wikipedia財団の意思について考慮することが本則ですが、その意思が不分明であることを前提として解釈による場合は、社会の経験知(ないしはポパー流の哲学知)を参照することも考慮するべきでしょう。(余談)グーグルで「"検証可能性" filetype:pdf」でぐぐると大量に出てきますよ。--大和屋敷 2010年2月22日 (月) 19:53 (UTC)
- 財団事務長(Executive Director)のスー・ガードナー氏(meta:User:Sue Gardner)の見解が見つかりましたのでどうぞ。
- 「Q: What is the “verifiability” policy and why does it matter? A: “Verifiability” is one of Wikipedia's three fundamental principles, and as such, it is absolute and non-negotiable. The threshold for inclusion in Wikipedia is verifiability, not truth.(後略) (Q: 「検証可能性」の方針とは何ですか、そして、それはなぜ重要ですか? A: 「検証可能性」はWikipediaの3つの原理の1つであり、そういう訳で、絶対であって交渉の出来ないもの(non-negotiable)です。 Wikipediaに含むための敷居は真実ではなく、検証可能性です。)」(「募金メッセージングプラットフォーム」質問と回答 2008年5月15日 )
- 「財団の方針・意向」そのものの文章だと思ったのですが、間違っていますか? この文章を見る限り、当該文章は除去する必要性はないと思われますが…。(逆にこの財団事務長の見解を踏まえて、内容を強化しても良いかもしれません。) --山本山815 2010年2月24日 (水) 16:18 (UTC) --修正山本山815 2010年2月24日 (水) 16:56 (UTC) --修正2山本山815 2010年2月24日 (水) 23:13 (UTC)
- その言の意図するところは「WP:Vを守らないなんて絶対にダメ。これは譲れない」ってことであって、「WP:Vの各条をいじっちゃだめよ」ということではないでしょう。大意さえ守られれば、中身・各条を改正していく必要はあるでしょう。それを怠れば日々発生する案件に対応できない「使えない文書」に陳腐化し、WP:V自体が形骸化してしまいます。--Akaniji 2010年2月25日 (木) 11:52 (UTC)
- 当該問題になっている文章は「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」です。 スー・ガードナー氏の書いた見解は、「“Verifiability” is one of Wikipedia's three fundamental principles, and as such, it is absolute and non-negotiable.(「検証可能性」はWikipediaの3つの原理の1つであり、そういう訳で、絶対であって交渉の出来ないもの(non-negotiable)です。)」となっています。 なんら矛盾しません。 さらに「財団の方針・意向」とも言えます。 自分に引き寄せた解釈は(いずれにせよ)してはいけないと思われます。 --山本山815 2010年2月25日 (木) 19:12 (UTC)
- 日本語版からmizusumashi氏の指摘箇所を削除すべきかどうかはともかく、「絶対であって交渉の出来ないもの(absolute and non-negotiable)」の意味が、
大和屋敷氏のいうような「検証可能性の文章自体を変更不可」と宣言しているものではないことは、英語版が日本語に訳された時点以降も変更されていることから明白なのではないですか?--Type64r 2010年2月25日 (木) 21:16 (UTC)
- 日本語版からmizusumashi氏の指摘箇所を削除すべきかどうかはともかく、「絶対であって交渉の出来ないもの(absolute and non-negotiable)」の意味が、
- 僕の言う意味とはどういう意味ですか。聞き捨てならないですね。はっきりさせてもらいたいですね。どこで僕は「検証可能性の文章自体を変更不可」などと言いました?がんばって過去ログを検索してきてもらいたいですね。場合によっては謝罪を求めます。--大和屋敷 2010年2月25日 (木) 23:03 (UTC)
- 大和屋敷さまは、「冒頭に「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」とありますのであきらめましょう。」と複数回おっしゃっておりますが、これは検証可能性の説明文が変更できないものだからあきらめと、という意味ではないのですか?--Type64r 2010年2月26日 (金) 09:34 (UTC)
- それはType64rさんがご自身に都合よく(都合わるく)解釈しているだけですね。【ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載には「検証可能な真実」であることが必要です。』 等の表現に改めるべきなのではないでしょうか】との提案に対し【「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」とありますのであきらめましょう】とは述べていますが、【検証可能性の文章自体を変更不可】とは述べていませんね。宜しくお願いいたしますよ。--大和屋敷 2010年2月26日 (金) 11:08 (UTC)
- 大和屋敷さまは、「冒頭に「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」とありますのであきらめましょう。」と複数回おっしゃっておりますが、これは検証可能性の説明文が変更できないものだからあきらめと、という意味ではないのですか?--Type64r 2010年2月26日 (金) 09:34 (UTC)
- でしたら、「あきらめましょう」などと言わずに「これこれこういう理由であなたの提案文では検証可能性の意味が変わってしまうから、その提案は認められない」とご説明くだされば良かったのでは?前記の当方の記述は訂正致しますが、Akaniji氏のおっしゃるように改正の余地はあるということでよろしいですか?ちなみに大和屋敷により『「簡便かつうすっぺらな」形式論理による反論』で否定された当方の前回の提案は、『検証可能性より真実性のほうが重要である』などという主張ではありませんので、当議論が終了したのちに再度改定案の提出をさせていただきたいと思っております。--Type64r 2010年2月26日 (金) 11:41 (UTC)
- 了解です。僕の取るに足りないWikipediaに関する見識によれば、「検証可能な"うそ""虚偽"」であっても信頼できる情報源にそのように記載されていれば掲載可能になってしまうのがWikipediaであり、無名のWikipedia編集者は何が虚偽で何が真実かについて意図的に選択する権限は与えられていない(中立性。・・・・ただし何が「信頼できる情報源」かは選択できる)、ものだと考えております。--大和屋敷 2010年2月26日 (金) 11:52 (UTC)
- でしたら、「あきらめましょう」などと言わずに「これこれこういう理由であなたの提案文では検証可能性の意味が変わってしまうから、その提案は認められない」とご説明くだされば良かったのでは?前記の当方の記述は訂正致しますが、Akaniji氏のおっしゃるように改正の余地はあるということでよろしいですか?ちなみに大和屋敷により『「簡便かつうすっぺらな」形式論理による反論』で否定された当方の前回の提案は、『検証可能性より真実性のほうが重要である』などという主張ではありませんので、当議論が終了したのちに再度改定案の提出をさせていただきたいと思っております。--Type64r 2010年2月26日 (金) 11:41 (UTC)
- そのあたりの話は当ノート内の5 検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献の議論中にもあるように、ウィキペディア内の「検証可能」という言葉の意味は「信頼できる情報源により検証できる」ということなのですから、「嘘」だと明白になった時点でその情報源は「信頼できる情報源」ではなくなるのではないですか?そのように嘘でも掲載可能という解釈が生まれる可能性のある現行の説明文には不備があるから訂正しよう、というのが前回の当方の提案です。まぁ、ここで議論すべきではないと思いますが。--Type64r 2010年2月26日 (金) 12:12 (UTC)
- 財団事務長のスー・ガードナー氏も上の文章で「The threshold for inclusion in Wikipedia is verifiability, not truth.(Wikipediaに含むための敷居は真実ではなく、検証可能性です。)」と書いていますので、(私の理解では)Type64r氏の望む改変は出来ないように思われます。
- もちろん、「中身」を強化したり、説明を分かりやすく改変することはあってよいと思いますが、私は、この方針の「中身」を合意があっても変えることは出来ないと思われます。(『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』もこの方針の「中身」そのものでしょう。)
- あえて解釈すれば、「“Verifiability” is one of Wikipedia's three fundamental principles, and as such, it is absolute and non-negotiable.(「検証可能性」はWikipediaの3つの原理の1つであり、そういう訳で、絶対であって交渉の出来ないもの(non-negotiable)です。)」とは、そのような意味だと思われます。--山本山815 2010年2月26日 (金) 12:15 (UTC)
mizusumashiです。
山本山815さんが2010年2月24日16:18 (UTC)に指摘されたSue Gardnerの声明は、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という記述が財団の方針・意向が反映されたものであると考える、非常に強い根拠となることを認めます(時期的順序の点からは「反映された」と表現するかどうかは少し微妙ではありますが、時期的順序を無視して現状を表現する言葉として「反映」といってよいでしょう)。
したがって、「この三方針は議論の余地がないものであり、~合意によって覆されるものではありません」という部分は財団の意思である、という解釈は根拠のない空想であり、そのように主張することは財団の方針・意向の捏造である、という私の主張は、以後は維持しません。
また、この記述部分を除去した方がよいという意見も取り下げます。--mizusumashi(みずすまし) 2010年3月4日 (木) 13:05 (UTC)
- Sue Gardner氏の声明をもっと早く私が見つけることが出来ていれば混乱が軽減されたのでは?と思い悔やんでおります。 またmizusumashi氏に対する失礼な発言(後段)は取り消しました。 さらに、間に立って合意を目指そうとした配慮あるKs aka 98氏の文章に対して、もう少し直後の書き様もあったのではと思い反省しております。 Wikipediaの現状に対するある疑念が、この場所や、Wikipedia‐ノート:論争の解決での私の発言になっているように感じています。 mizusumashi氏個人に向けられた発言ではなかったのですが、大いに誤解を生む書き振りだったと思われます。失礼を致しました。 にもかかわらず、氏が意見を取り下げられたことに感謝以外にありません。(もちろん取り下げの理由は、私に対してだけではないでしょうが…) --山本山815 2010年3月4日 (木) 14:10 (UTC)--追記修正山本山815 2010年3月4日 (木) 14:28 (UTC)