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Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive01

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訳語の選択

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Verifiability

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JAWPでは既に長らく「検証可能性」が定着していると理解しております。他に「立証可能性」WP:NPOVより)「立証責任」Wikipedia:プロジェクト関連文書の整備より)も見たことがあります。やや意訳の「立証責任」は、この文書の重要な側面の一つをうまく表しており捨てがたいのですが、残念ながら "Verifiability, not truth" とかみ合いません。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

すみません、「検証可能性」に統一したほうがいいですね。--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)
「検証可能性」という訳が定着しているとのことですが、「検証可能であること」というのはどうでしょうか。これであれば、"Verifiability, not truth" とも、「真実であること」ではなく、「検証可能であること」 といった感じでうまくあうように思うのですが。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 03:46 (UTC)

有難うございます。実は私も「…可能性」という接尾辞を「…が可能であること」という意味で使うのは、少々分かりにくい感じがして、あまり好きではありません。ただ、「中立的な観点」等と並べて使う方針名(ページの題名)として「検証可能であること」は少々据わりが悪いと感じています。

本文中では、方針名に関わらず、文脈に応じて適宜「検証可能であること」を使ってもよいと思いますが、それがこの方針を指しているということが肝要です。したがって、方針名を「検証可能性」のままにするならば、本文中では「検証可能であること」(検証可能性)のように使う必要があると思います。そのような諸点とこれまでの経緯を考慮し、しぶしぶながら「検証可能性」で統一していたのですが……。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 04:07 (UTC)

確かにKanjyさんのおっしゃるとおり、「検証可能であること」というのは、「中立的な観点」と並べて使うには据わりが悪いようですので、方針名は「検証可能性」とすることで現段階ではよろしいと思います。現段階でというのは、No Original Research の訳がどのようなものになるかも検討中だからです。あちらの状況によっては、再度、方針名「検証可能性」が適当かどうか考える必要が出てくるかもしれません。ただ、本文で(検証可能性)とカッコ付で付記するかどうかは、一概に決めるのではなく、訳を進めていくなかで検討していけばよいと思います。あまり頻繁に(検証可能性)を付記するのもくどい感じがしますので。

なお、各方針を文で、例えば、

  • 「中立的な観点に沿って書く」
  • 「検証可能であることのみを書く」
  • 「未公知の研究は書かない」

といったような形で示すのが個人的には良いと考えています。その理由は、このような文による表現の方が、初心者にも取っつきやすく、理解しやすいのではないかと考えるからです。このような文で示されている方針には、個人攻撃はしない(en: No personal attacks)などがある他、ガイドラインにもたくさんあり、奇異ということもないと思います。ただ、「中立的な観点」というのはすっかり定着しているようですので、このような変更は難しいでしょうね。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 17:39 (UTC)

「ウィキペディアは何でないか」という表現があるので、「どこ何を見れば確認できるか」というやわらか目の名前はどうでしょう?これなら「クリックを避けたくなる」ことは無いと個人的には思うのですが、威厳を表現するとか、もっと学術的に、ということになるとダメですが。翻訳、ご苦労様です。--一般人 2006年5月2日 (火) 09:22 (UTC) en:User:ComSpex

どうもご無沙汰しております。もたもたしていて済みません。 --Kanjy 2006年5月2日 (火) 10:05 (UTC)

日本語化となると大変ですよね、色々と。ちなみに、私の頭の中ではこんな言葉での理解になってますけど--「ウィキペディアに包含されるための判断基準は、真実ではなく、何をみれば確認できるか、です。」 Verification の意味の中には truth が含まれていますが、原作者は敢えてそれを除外している、という解釈ですが... 訳文全体の色合いもしくは香りとは合わないかな。--一般人 2006年5月3日 (水) 10:06 (UTC)
【参考】この部分が原文に現れた瞬間です。--一般人 2006年5月4日 (木) 02:14 (UTC)

ページ名としては「確認可能な論拠」あたりでどうでしょう。-- [Café] [Album] 2006年5月30日 (火) 14:28 (UTC)

ページ名、もひとつ、提案します。現実問題として、この問題が起こったときは「論拠を示せ」とノートなりに書くことになると思うのですね。それなら「論拠の提示」でいいんじゃないでしょうか。-- [Café] [Album] 2006年6月1日 (木) 15:48 (UTC)

タイトルに限って、検証可能であること確認可能な論拠の使用には反対いたします。また、本文では(検証可能性)をいちいち使う必要はないでしょう。検証可能であることなどは、あえて説明が必要であると思われるなら冒頭の定義部分で定義するなどしておけばよいかと思います。--Snow steed 2006年6月19日 (月) 09:29 (UTC)

Truth

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"Verifiability, not truth" という言葉は、WPに載せてよいかどうかの境目が、真実かどうかではなく、検証可能かどうかである、という方針を述べています。ここでは「真実ではなく検証可能性」と並べると不釣合いです。「真実であることよりも検証可能であること」あるいは「真偽(=真実かどうか)ではなく検証可能性(=検証可能かどうか)」でしょう。Truth という語には「真実」のほかに、「真実かどうか」(真実性、真偽)という意味があります。真実性より真偽の方が、わかりやすいと思います。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

了解しました。--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)
ウィキペデイアに掲載してよいかどうかのThreshold:境目(敷居)がどこにあるかということ示すということですから、「真偽(=真実かどうか)ではなく検証可能性(=検証可能かどうか)」というよりも、「真実であることではなく、検証可能であること」ととらえた方がよりわかりやすいのではないでしょうか。こちらの方が、WP掲載の条件を端的に示すことができると思います。つまり、「真実であること」では、WP掲載の境目(敷居)を越えることはできないが、「検証可能であること」という条件を満たせば、その境界(敷居)を越えることができるということです。
上記のVerifiabilityでの自分の書き込みと同様にややくどい感じもしますが、考えた結果を書かせていただきました。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 03:46 (UTC)

適切な訳文が提示できませんが、私見を述べますと、verify は、ラテン語の verum から派生した言葉のはずで、verify の方が、「真実・事実たらしめる」という言葉のはずだと思います。「検証可能」とは何を検証・立証するのかというと、その主張・事項・内容の「真実・事実であること」を検証するのです。従って、「not Truth」は、「真実ではなく」というような対立意味ではないと思います。「真実」が書けるなら、それこそ理想的なことです。ここでは、「(普遍)真理」だと確信・主張・信仰されている内容ではなく、「事実性・真実性」について、「検証する方法が存在する内容・主張」が、記事の資格だという意味だと思います。ポパーの反証可能性と似た規準を主張しているのだと思います。「ウィキペディアに掲載する記事の資格は、これが本当だと考えられていることではなく、本当かどうか、検証可能な内容である」「思いこみ(臆見・ドクサ)ではなく、本当かどうか、真偽の確認・検証ができる内容・記事が望ましい=条件・資格である」こういう意味だと思います。Truth は日常語で、一般に考えられている俗信・臆見・主観的思いこみの命題(真理)で、それに対し、verify はラテン語起源で、学術的な言葉で、真実か否か、理性的に判断できる(検証できる)内実・特徴を備えるかどうか、に関係する言葉だと思います。「Verifiability, not Truth」は、思い切って意訳すると、「思いこみではなく、事実かどうか確認できること」というのが原義に近いのではないかとも思います。--Maris stella 2006年4月18日 (火) 09:19 (UTC)

(「南京虐殺の真実」というのは、もしこれが本当に分かれば、それを書くのが最善でしょう。しかし、客観的真実は、人間の主観認識にとって超越的であるので、ドクサや信仰や宣伝文句ではなく、経験的に吟味・検証できる「事実」を書きなさい、ということだと思います)。--Maris stella 2006年4月18日 (火) 09:19 (UTC)

実は私も Maris stella さんが示された、語源から意味を探る方向にはまりかけました。疲れて一晩寝て読み直してみると、意味を深化させるより、むしろ単純に「検証可能かどうか」「真実かどうか」の浅さで留める方が相応しいという考えに至りました。ただし、方針名の考察から「検証可能性」「真偽」と体言の形にしたことは#Verifiabilityに書いたとおりです。英語版文書の狙いは仰せの「思い込みではなく…」かもしれませんが、そう表現してしまえば、X理論のたとえと噛み合いません。X理論のたとえは、もっと厳しいルールを表しています。
「思い込みではなく……」や「客観的真実」などという表現は、真実を広めたい熱い正義感に燃える方々から反発を買いそうではありませんか。それは胸の奥に収めておき「WPは真実を書く場所ではない。大嘘でも典拠があれば掲載が許され、いくら真実でも典拠がなければ除去される。両論とも典拠があるなら、真偽に関係なく両論併記がここのルール。」とクールに言い切りましょう。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 14:43 (UTC)
Maris stellaさん、コメントありがとうございます。Maris stellaさんへのコメントへの意見を書いていたところ、Kanjyさんが意見を書かれました。Kanjyさんのご意見に賛成なのですが、せっかくですので私見を書かせて頂きます。私は、「Verifiability, not Truth」はやはり「真実であることではなく、検証可能であること」とすべきと考えてます。
まず、Truthは素直に「真実・真理」とらえて問題ないと考えます。Maris stellaさんの書かれている「客観的真実は、人間の主観認識にとって超越的である」というのは、そのとおりかもしれません。しかし、ウィキペディアはそもそも何が真実・真理であるかの判断をしないものとされています(本方針の後半部で、ウィキペディアはそれ自身では、fact-checking process(事実を調査する過程)を提供しないとされています)。つまり、ある理論や事実が正しいものであるかどうかの判断は、信頼できる情報源(典拠)に依存するのです。そして信頼できる情報源(典拠)の例としては、査読つきの学術誌やニューヨーク・タイムズのような信頼される報道機関が挙げられています。したがって、真実・真理についてここで踏み込んで考える必要はなく、素直に「真実、真理」ととらえていれば十分ではないかと考えている次第です。
つぎに、この方針で用いられているVerifiabilityという用語ついて。これは、一般に用いられているものとはやや異なるウィキペディア特有の意味を持っているととらえるべきと考えます。一般的な意味での「検証可能である」ということは、Maris stellaさんのおっしゃるとおり「本当かどうか、検証可能な内容である」ということだと思います。しかし、ウィキペディアでは単に「本当かどうか、検証可能な内容である」だけでは十分ではないとされていると考えます。ある理論や事実が「本当かどうか、検証可能な内容である」だけでは十分ではなく、それが信頼できる情報源・典拠によって公表されていることが必要とされているというのが私の理解です。これについてもX理論という例を用いて本方針内で解説されており、「もしもその新聞があなたの話を載せてくれたならば、その新聞を情報源として示すことで、ようやくあなたはその情報をウィキペディアの記事に書き入れることができます。」とされています。
ひとつの例を用いて、私の考えを説明したいと思います。ある学者がAという新理論を考え出したとします。彼は自分の考え出したA理論を発表すべく論文にまとめ、権威ある学術誌Bに投稿し、数回の書き直しの後、半年後に発行されるB誌2006年冬号への掲載を正式に認めるという返事を受け取りました。そして彼は、校正を終えた完成原稿を、本日編集部に郵送しました。さて、A理論を掲載したB誌2006年冬号が発行される前に、A理論をウィキペディアに掲載することは認められるでしょうか。
私は、現時点ではA理論のウィキペディアへの掲載は認められないと考えます。
この場合、A理論は権威ある学術誌Bへの掲載を認められたのですから、少なくとも現時点では真理、真実ととらえて良いと思います(権威ある学術誌も時に誤まることもありますが・・・)。また、A理論は権威ある学会誌に掲載されることになったのですから、その内容は学会で求められる「検証可能なこと」という条件を満たしているはずであり、Maris stellaさんのおっしゃる「思いこみではなく、事実かどうか確認できること」という条件にも適合していると考えられます。
しかし、A理論は、現時点では学術誌に発表されていません。このため、A理論をウィキペディアに掲載しようとしても信頼できる典拠を示すことができません。ウィキペディアの求める「検証可能であること」とは、信頼できる典拠を示すことができるということを意味しており、よって、B誌に発表される前のA理論は、ウィキペディアの求める「検証可能であること」という条件を満たしていないと考えます。
言葉を換えますと、B誌2006年冬号が発行される前のA理論は、権威ある学術誌への掲載が認められた(つまり真実、真理であると認められた)にもかかわらず、ウィキペディアへの掲載が許されません。つまり、「真実であること」はウィキペディアへの掲載の敷居を超える(条件を満たす)ことはできないのです。
ところが、B誌が実際に発行された後のA理論は、信頼できる典拠を示すことができます。ウィキペディアでいうところの「検証可能」であります。つまり、典拠を示すことができるという意味での「検証可能であること」は、ウィキペディアへの掲載の敷居を超える(条件を満たす)ことができます。したがって、「Verifiability, not Truth」は「真実であることではなく、検証可能であること」とすべきとの考える次第です。
以上、くだくだしい説明になってしまったことをお詫び致します。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 17:39 (UTC)
Sloop25さんが指摘されているように、この「検証可能性」は、その情報が正しい内容かどうかの検証ではなく、その情報のソースが信頼のおけるものかどうかの検証ですね。論理実証主義の「実証可能性」(Verifiabilityverifiability principle)やポパーの反証可能性とは少々異なるように思われます。Hermeneus (user / talk) 2006年4月18日 (火) 23:26 (UTC)
「真実」でいいと思うんですけど。--一般人 2006年5月3日 (水) 07:33 (UTC)

Reputable

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直訳すれば「評判の良い」「定評のある」でしょうが、少々抽象的過ぎます。どのような面で評判が良いことを要求しているのでしょうか? スクープが多い? 記事が面白い?

この文書では reputable : dubious = NY Times : tabloid です。したがって reputable という言葉で「事実確認をしっかり行い、記事の信憑性が高いと、幅広い読者層から認められている」という意味を表していると考え、「広く信頼を集めている」と訳してみましたが、いかがでしょうか。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

この解釈は、正式発表後には、議論を呼ぶことになるでしょうね。「信頼出来る筋」という言葉がニュース等報道関係では使われていたことがありましたが(最近では、情報源の固有名称を使う傾向にはなっている風ですが)、どの言葉を使っても、その定義を問われてしまうことになるのでしょうか。提示された出典自体の reputation の判断が必要になるってことですよね...--一般人 2006年5月2日 (火) 09:59 (UTC)
なるほど。このテーマは、同時進行中のWikipedia:独自の調査で扱いますよ、とね。--一般人 2006年5月4日 (木) 02:59 (UTC)

Burden of evidence

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ある記述を掲載すべきか除去すべきかで論争しているとき、証拠を示す責任は掲載派にあることを述べています。良く似た "burden of proof" は「立証(の)責任」、"burden of producing evidence" (or "burden of production of evidence") は「証拠提出責任」が定訳かと思いますが、どうしましょう? 「挙証責任」(証拠がない場合、不利益を負うべき側の地位)という語も見たことがあります。やはり「重荷」がよいのでしょうか? 法律、訴訟、特許などに詳しい方のアドバイスをお願いします。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

(これまた)すみません。とりあえず「重荷」と訳してしまいました。「立証責任」あるいはもっとふさわしい訳に変えてください。--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)
「重荷」も変だと思いますが、「立証責任」「挙証責任」「証明責任」という語も避けるべきだろうと思います。証明責任#概要
>証明責任(挙証責任)は、どちらが現実に証明活動を行うかという問題とは基本的に関係はない。
と書かれていますが、今問題としている "Burden of evidence" は、まさにその「関係はない」と言われていること(の最初に為す行為)を指していますよね。ここでは、法律的な意味での責任や義務といった厳しいものではなくて、役割分担のことを言っているわけですから、ニュアンス的には、「根拠を提示する役目」といった感じだと思います。英語版の原文が、法律用語を使わなかったのもこういう意味があるのではないか、と思いました。--oxhop 2006年4月18日 (火) 12:22 (UTC)

はい。そういう意味で、まさしく「挙証責任」とまったく同じ構図ではないでしょうか。証拠を提示するのは誰でも構いませんが、その行為・主張を支持する証拠が必要なのは、執筆者・掲載派です。したがって、どちらを支持する証拠もないときは、除去派の勝ちです。原文 "The burden of evidence lies with ..." の burden はそういう意味あいを持つ言葉だと理解しています。

役割、というのは少し違う感じがします。責任とか義務とかいう表現も、日常生活の直感と少々違う感じで困りますね。要するに「証拠が必要なのは、掲載派と除去派のどちら側なのか」という話です。「立証責任」はPL法などの関係で比較的なじみのある言葉ではありますが。

このタイトルを、「…どちら側か」というような形の短文に訳そうかとも考えていたのですが、今のところあまり良い案がなくて困っています。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 14:58 (UTC)

動詞 lie は、英英辞書では、be acceptable in law の意もありますので、やはり、法律を意識した文章でしょう。「『典拠を示す責』は編集者にあり...」ウィキペディアにその責はない、という表現方法で、つまり、「ウィキペディアは何でないか」風の記述方法を継承している、というのは深読みが過ぎる?--一般人 2006年5月3日 (水) 06:53 (UTC)

Source

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名詞・動詞の"source"について、どう訳したらいいか、迷います。「ソース」「情報源」「ソースを示す」「信頼できる情報源」etc.--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)

「source」はこういう場合、「典拠」というのがいい訳語なのですが、少し硬いかも知れません。「典拠を示す・出典を明らかにする」等です。(「情報源」とか「ソース」は、「嘘の情報源」もあります。「典拠」は「真実性の規範」の意味が入っています。……「ソースを示して欲しい。ソースを確認した。やはり嘘ではないか」という表現は成立します。「典拠を明らかにして欲しい。典拠がない?やはり嘘なのだ」という表現は、大分、感じが違います)。--Maris stella 2006年4月18日 (火) 09:19 (UTC)
名詞としての用法は Maris stella さん仰せの通り。この文書に出てくる source という語は、典拠が最適な訳だと思いますが、文体には不釣合いに硬い感じがするのが難点です。「情報源」なのですが、根拠として情報源を示す話なので「典拠」か「出典」か、ぐらいでしょうか、、、、。
さて、source を動詞としては使う例は存じません。"名詞-ed" は一般に "with 名詞" という意味の形容詞ですから、"unsourced" は "without source" すなわち「典拠のない」「情報源不明の」「情報源の示されない」「裏づけのとれない」というような意味ではないでしょうか。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 10:46 (UTC)
Source だけを見ると、「情報源」か「出処」。それ以上のことを表現したい時には形容詞を付けて曖昧さを補っているのが慣用かと。「典拠」は訳し過ぎの印象強し、かな、個人的には。原文の狙いは、曖昧な言葉を意図的に提示している?これまた、浅はかな深読みか。--一般人 2006年5月3日 (水) 07:27 (UTC)

Tabloid newspaper

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信頼性の乏しい情報源の例ですね。今のところ「タブロイド新聞」「タブロイド紙」と訳されており、私もそれ以上の訳語を知らないのですが、いまひとつピンと来ません。 --Kanjy 2006年5月29日 (月) 17:00 (UTC)

とりあえずの処置として、カッコ書きで説明を付けました。 --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)

何を検討するか

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英語版のノートも膨大なようで見ていませんが、単語の語源よりかは方針の趣旨、何を検討して、どこから排斥するのか、といったことの方が重要だと思います。ノート:日本の民族問題 ノート:松代大本営跡でも「電凸」などの成果をソースとして挙げておられる方がいるんですが、私は検証不可のものであると思います。johncapistrano 2006年4月20日 (木) 08:31 (UTC)

はっはっは、すみません。英語版文書の不十分なところや、英語版文書でカバーされていない日本語版での問題について検討してゆきたいところですが、まだまだ「英語版文書には何が書いてあるのか?」という基礎的な議論で精一杯というところですね(笑)。
さっさと英語版文書の大雑把な和訳を固めて、それから、日本語版としての検討に移れたらと私は考えていますが、皆様のお考えはいかが。--Kanjy 2006年4月20日 (木) 12:48 (UTC)
その方が良さそうですね。一字一句の正確な翻訳が意味を成さないことをその原本初版(2005-04-09)が教えてくれている様です。特に、その歴史を見ると、「ウィキペディアは何でないか」が、2002-02-19 を発端に、約3年3ヶ月間の編集を経てボトムアップ的に採用されたポリシーであるのに対して、「Verifiability」は、最初からポリシーとして作られるべくして作られたかの様なトップダウン・ポリシー(?)で、その第一稿目(2003-08-02)から約1年8ヶ月でポリシー・ラベルが貼られた後もまだその姿を変化させ続けている様です。ウィキペディアではポリシーも編集ブロック保護されるまでは変化を続けてもいいんですねぇ...ちょっと、驚きです。--一般人 2006年5月4日 (木) 09:39 (UTC)
もうそろそろ英語の原文は削って訳文だけ残し、全体的に章立てなど整理しなおして加筆修正していっても良いでしょう。Hermeneus (user / talk) 2006年4月20日 (木) 12:52 (UTC)
私も、英語版の翻訳は適当なところで切り上げて、日本語版のルールとしての議論に入るべきだと思います。日本語版の現状は、英語版のルールとかなり異なった運用をしているようですから、翻訳の正確性を議論するより、ルールそのものの議論を始める方が、たぶん、効率的・建設的だと思います。
ついでに「電凸」について言えば、英語版のルールでは、オンライン掲示板等の情報は、誰が書いたか分からないので、「信頼できる情報源」とは認めないということのようです。--Dwy 2006年4月21日 (金) 18:02 (UTC)

見出しの英語を外し、日本語本文だけ読んで意味の取りにくいところを原文と照らし合わせて意訳してみました。やりすぎた部分があれば差し戻しをお願いします。「翻訳中」のタグは5月いっぱいで外しませんか?--miya 2006年5月29日 (月) 03:00 (UTC)

「翻訳中」外しに賛成します。5/31 23:59 (JST) までに反対がなければ外しましょう。 --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)

日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野

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タキトゥスのすすめは、本文にはまったくいらない。似たような発言は、いくらでも見つかるんじゃないの?検証可能性ってあるけど、「日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野」なんてのが出てきたときに、削除される可能性もあるということですな。検証可能性なんて、ぶっちゃけ「私はそんなことは知らない」だし。で、実際に削除してしまったら、日本語版ウィキペディアの格は落ちるんだけど、落ちてもいいのかな?--Noda,Kentaro 2006年6月12日 (月) 04:28 (UTC)

コメントありがとうございます。「日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野」についてですが、典拠は別に日本語でなくてよいと思います。ヘブライ語やシンハラ語だとさすがに読める人は限られるので困るでしょうが、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、アラビア語、中国語あたりは検証できる人もかなりいるはずです。--miya 2006年6月13日 (火) 07:08 (UTC)

英語版ウィキペディアがなんで伸びたかというと、「査読」がそれほど厳しくないから、という下世話な理由があったはず。第一次ポーランド楽派の項目は、ポーランド語版では書かれた直後消えてしまいました。「ポーランドで開発された」イディオムを、ポーランド人が知らなかったという大傑作な事件でした。ポーランド若手勢の伸び悩みにも通じてますね。こういう失態を避けるには、「なるべく削除しない」、「査読も曖昧」なほうが、百科が充実するという逆説を生んでいます。ネット上ソースにすぎないのだから、この程度でよいのではないでしょうか?--Noda,Kentaro 2006年6月12日 (月) 04:33 (UTC)

実際問題として、現在の日本語版でもソースがネット上にしかない、あるいは「日本人で記事執筆者しか知らない」という記述も紛れ込んでいるでしょう。そういうものを一律に排除するのは難しいでしょう。ただし、他のユーザー、あるいは外部から「それは事実とは異なるのではないか」あるいは「そういう検証できない情報は記載すべきではない」とクレームがついた場合は、この方針に従い「検証不可能な情報」として本文から除去されることもしかたがない、と思いませんか?正しいと確認できないのですから。--miya 2006年6月13日 (火) 07:08 (UTC)
Miyaさんに同意します。第一次ポーランド楽派のようなケースにおいても、いったん削除して検証可能になったら復活させればよいのではと思います。S kitahashi(Plé)2006年6月17日 (土) 17:18 (UTC)
Noda,Kentaroさんのご指摘のような、「日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野」であるならば、少なくとも、miyaさんのおっしゃった英独仏露中韓西伊葡くらいの中では情報が得られるでしょう。[1]では独仏伊西葡を英語に、英中韓を日本語に翻訳してくれますから(精度はともかく)、ある程度の検証はできるはずです。-- [Café] [Album] 2006年6月17日 (土) 22:58 (UTC)

正式化にむけて

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日本語版で「英語版のルールとかなり異なった運用」をしている部分があれば、ここに列挙して、改訂すべきか検討してはどうでしょうか。大きく改訂すべき点がなければ、井戸端で告知して正式化したいと思います。--miya 2006年5月29日 (月) 03:00 (UTC)

あと、日本語の方針名も決めなければなりません。方針名は「検証可能性」で反対がないようですが、合意確認(異議待ち)をしますか? --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)
特に反対意見もなかったので、「検証可能性」に移動しました。これも含めて、井戸端で告知し1週間程度待って、異議が出ないか確認し、特に何もなければ正式化したいと思います。大きな改訂提案があれば、正式化を先送りし、小さな改訂提案なら、先送りするかどうかも、ノートで検討すればよいと思います。--miya 2006年6月4日 (日) 15:37 (UTC)
早く正式化したいですね。ノートでの議論の多くは、これでスムーズになっていくと思います。-- [Café] [Album] 2006年6月5日 (月) 02:21 (UTC)
miyaさんのご提案の段取りでよいと思います。WP:NPOVWP:VWP:NORの3つは全言語版に適用されるウィキペディアの絶対的方針だという話もありますから(英語版の井戸端でそのようなことを言っている人がいたような気がします)、とりあえず基本的な方針が合意できれば、細かいことは後で議論することにしてでも正式化してしまうべきだと思います。--Dwy 2006年6月5日 (月) 18:31 (UTC)
同じく、miyaさんご提案の手続きで正式化を問うことに同意します。 --Kanjy 2006年6月5日 (月) 23:59 (UTC)
少し遅くなりましたが、正式化しました。Wikipedia:井戸端 (告知) でも告知しました。 --Kanjy 2006年6月17日 (土) 17:32 (UTC)

オンライン掲示板やブログ等の情報について

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オンライン掲示板やブログ等の情報」については「信頼できる情報源」とは認められない、でよいと思います。現在は野放しになっているとしても、疑義が出た項目から順にそのノートで検討し、新たに「信頼できる情報源」が示されない場合は除去すべきでしょう。--miya 2006年5月29日 (月) 03:00 (UTC)

賛成します。 --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)

本人を情報源にする場合

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著名人自身が運営している公式HPやブログの場合、著名人の主張として記載する場合等は「信頼できる情報源」として認めてもいいのではないでしょうか?ただ、無名人物のインターネット配信でしか情報を確認できないような言葉は削除すべきだと思いますが。--経済準学士 2006年7月5日 (水) 16:23 (UTC)

翻訳中ですが、Wikipedia:存命人物の伝記の「本人を情報源にする場合」のセクションもご参照ください。--miya 2006年7月5日 (水) 17:27 (UTC)
検証可能性は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に関するものなので、Wikipedia:検証可能性が(検証機関ではない)主体自体が著名か否かという問題を取り扱うべきではないと思います(下手をすれば「これは著名人が言ったからWikipedia内のどこに載せていいのだ」という理由がまかり通るようになり、Wikipedia:検証可能性が骨抜きにされかねませんので……)。この話題はむしろ、Wikipedia:出典を明記するWikipedia:事実を確認するで展開するべきと感じました。 -- かえで 2006年7月7日 (金) 16:07 (UTC)
みなさんはWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトに書いてあることでは不充分/不適切だとお考えなのでしょうか?--Dwy 2006年7月7日 (金) 17:16 (UTC)
Wikipedia:検証可能性全体がどういう影響を及ぼすのかを確認したく思いまして、ほぼ独力で書い(てしまっ)た記事を削除依頼へと提出しました。その記事(飛鳥配列)は元々「他の入力方式と比較していないので、結果としてNPOVに近い状態&他の信頼できる情報源とは矛盾しない」となる仕掛け(節の名前)を作って記述しましたので、そこは概ねクリアしている気がします。肝心なのは「重要かどうか」という点でして、必要な指標が(「その情報が{記事|Wikipedia|Wikipedian|世間様}にとって重要」のいずれなのかすら)示されていないのです……Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトが許容する対象行為が「自主公表物・信頼性に乏しい情報源を用いて、その文献類が主に示す内容のみを記事化する(=他の記事に前述の文献類を使用しない)こと」である場合、せっかくWikipedia:削除依頼/飛鳥配列で挙げていただいた「(削除)」意見の理由が、全て矛盾していることになってしまう点も気になっています(しかも、従来的には至極真っ当と言えるご意見ばかりなのです……)。Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトがどういう記事を想定して作成されたのかをハッキリさせないと、削除依頼に同様の案件が持ち込まれるたびに判定が変わったり、「前例が○○だったから今回も○○で」などという独自の基準が作成されてしまう可能性があります。既に公式な方針として採用されている以上、早急に対象となる記事の概要を明確にする必要があると考えます。今回は「全ての方針に矛盾しない、的確な削除理由が大量に並んで削除確定となる」とばかり思い込んでいましたので、こういう展開になって驚いています。 -- かえで 2006年7月7日 (金) 18:57 (UTC)

幾つかの問題点

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/幾つかの問題点に分割しました。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:56 (UTC)

迷ったときは原典にあたれ

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の原則に従って、en:Wikipedia:Verifiabilityの最新版を読んでみました。

  • 信頼性に乏しい情報源
    日本語版に元からある記述の後に、2行ほど追加されています。
  • 自主公表された情報源:公式サイト
    内容がたとえ話から箇条書きへと整理されています。

以上2点を含め、en:Wikipedia:Verifiability最新版の和訳をお願いいたします。 -- かえで 2006年7月15日 (土) 02:45 (UTC)

Wikipedia:検証可能性#方針に対する提案

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現状の「Wikipedia:検証可能性#方針」について、次のような追加が有用(&矛盾しない)かどうか、ご意見をお聞かせください。太字部は3と書いていることが同じであり、単に視点が異なっているだけです。

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している題材だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい題材を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。
    • 出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
    • 出典が明示されていない編集を生かそうとする場合は、その編集に対応する出典を添えて下さい(編集に対応する出典は、編集者に限ることなく誰が示しても構いません)
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

現状のWikipedia:検証可能性は「検証可能性のない文を除去することのみが貢献」と捉えられるおそれがあるので、逆に「検証可能ではない文を検証可能な状態に持ち上げることも貢献」だとハッキリ謳う方がよいのではないかな……と思いまして。いや、こういう記述が成されていれば、例えばこの編集の意図を解っている人はこんな感じの文献情報を添付するはず……と、上手く「正のサイクル」が回りはじめる気がするのです。 -- かえで 2006年7月21日 (金) 14:32 (UTC)

ちょっと質問です。こういうことは初めてなのでここに書いていいのかよく分かりませんが書きます。(もし相応しくない場合は相応しい場所を紹介していただけるとありがたいです。)出典の明記にダブる内容なのですが、『信頼できる情報源』の中に、テレビ番組など映像分野全般(同時期に大多数の人が見る事ができるが、一般人は無料で検証できないと思われるので)、有名企業から出版された物だがDVDなどに付属しているため国会図書館にない本、国会図書館のミスで抜けている本(しかしオークションなどで大金を出せば手に入る。)、有料情報、現地に行けば誰でも確認できるが出版物に情報がない場合、明示されている信頼できるネット上の情報に該当するが掲載先の情報が削除された場合、などはどうなるのですか?もしこれが駄目ならばサブカルチャーの類は壊滅状態になってしまう気がするのですが…。個人的にはウィキペディアと他の百科辞典の利便性のうち、決定的な差はサブカルチャーの類などで、もし規制されるならばウィキペディアの利便性が非常に悪くなると思います。ウィキペディアは分野によって偏りのあるものですので、その場合は分野や成長の違いによって規制の違いを設けた方がいいと思います。そうすれば成長の遅い芽を育て、育ち過ぎた芽を刈り取る、と上手くいくような気がします。回答の程よろしくお願いします。--Naisi 2006年11月11日 (土) 06:58 (UTC)

かえでさんの提案はいいですね。

文化研究関係の論文などの参考資料などを見ると、

  • テレビ番組など映像分野全般(同時期に大多数の人が見る事ができるが、一般人は無料で検証できないと思われるので)、有名企業から出版された物だがDVDなどに付属しているため国会図書館にない本、国会図書館のミスで抜けている本(しかしオークションなどで大金を出せば手に入る。)、有料情報→基本的に、避けることが望ましいけど、OKでしょう(ただし、ものによっては他の情報源と比較して信頼性に劣ると判断される可能性がある)。とりあえず有料無料は関係ないかと。歴史的な史料であれば所在を示すことは必要かと。
  • 現地に行けば誰でも確認できるが出版物に情報がない場合→「誰でも」の程度による。文化人類学のフィールドワークにあたるようなものは、独自研究でしょう。
  • 明示されている信頼できるネット上の情報に該当するが掲載先の情報が削除された場合→最近の学術論文の作法としては、いつの情報か(確認した日の日付とURL)を記する方向ですので、書くときにそれに従うのがよろしいかと。

てな感じで。大衆文化関係の記述は確かに困難ですし、一般の百科事典でも検証が不十分と思われるものもあります。だからといって敷居を下げるのではなく、百科事典にふさわしい記述を試みることで、ウィキペディアの特長となっていくほうがよいのかなと思います。独自研究のほうは、厳格に適用されると手が出なくなる可能性がありますが、検証可能性は、大きな問題にはならないように思っています。--Ks aka 98 2006年11月12日 (日) 07:06 (UTC)

回答ありがとうございます。とりあえず不安は取り除けました。今朝ふと思いついた事なのですが、情報源の定義基準にを『日本人の平均給与の範囲で検証可能』『行動力ある人間が合法的かつ生命の危険を感じない程度で検証できる範囲で検証可能』『検証するボランティアの人々が金銭的精神的に限界を感じない範囲で検証可能』とかの言葉を使って定義する事ができれば、これから似たような疑問を持つ人や議論に巻き込まれる人が減って、編集者達は執筆に集中できるため、円滑に回るとおもうのですが。どうでしょうか?もしよかったら意見聞かせてください。--Naisi 2006年11月12日 (日) 09:14 (UTC)

情報源の基準については、同意できませんが(苦笑)、情報源の目安を文書化することができれば確かに有用だと思います。いまのところは、それよりもほかの文書の整備のほうが必要かとも思いますが。--Ks aka 98 2006年11月12日 (日) 09:29 (UTC)

マイナス情報への検証可能性

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「テレビ番組など映像分野全般」による情報や「現地に行けば誰でも確認できる」情報は、除去を主張する編集者が現れなければ除去されないだけで、疑義が出たときにも情報を掲示し続ける根拠 とはなり得ないと思います。たとえばノート:ペトロナスツインタワーではBBCの番組について検証を試みられていますが、だれかが問い合わせるとか調査に行くというのでは「独自の調査」になってしまいそうです。

出典が提示できない情報について、当事者にマイナス情報か、そうでないかで、対応を加減すべきではないでしょうか。 対象者にマイナスになる情報については厳しく出典を求め、検証できない場合は積極的に除去する必要があると思います。特に現在生きている人に関する情報の場合、名誉毀損に繋がる惧れもあります(Wikipedia:存命人物の伝記参考)。これに対して、対象者にマイナスにならない情報については、たとえすぐに出典が提示されなくても急いで除去しなくてもよいかもしれません。--miya 2006年11月13日 (月) 00:37 (UTC)

反対。提案自体が当事者の利益に偏ったものとなっており、中立的観点から逸脱しています。根拠のない、執筆者の個人的見解による評価であれば、それを理由に記述を除去すべきであり、そこに「否定的だから」「肯定的だから」という価値判断を入れるべきではありません。
どうしても「否定的な評価は認めない」という方針を入れたいというのであれば、新たにプロジェクトを立ち上げてそこでやってください。それはたぶん、百科事典とは異なるものになるでしょうけど。--Tamago915 2006年11月13日 (月) 04:01 (UTC)
私も反対です。例えば項目名たる個人と「統一教会」との関係を匂わせる記述は、一般にマイナス情報ですが、これを「信教の自由」等に基づいて「プラス情報だ」と言い張られれば、そこで宗教論争になってしまいます。「プラス・マイナス」という極めて主観的かつ曖昧な線引きには、全く賛成いたしかねます。--Album 2006年11月13日 (月) 04:11 (UTC)

えーと、まず「当事者にとってのマイナス情報かどうか」というのは、検証可能性の有無とは独立(無関係)です。検証可能性だけに話を絞るなら、誰かが信頼できる出典を示したら、名誉毀損罪だろうが侮辱罪だろうが、そういったものとは無関係に「掲載可能」ということにしかならないでしょう?だったら最初からそっちの方向での除去の方針について、別のところで議論した方がいいと思います。その手の記述については、確かにしばしば「検証可能性を満たさない」というのを理由の一つにして除去することも多いですが、両者を混ぜて議論すべきではありません。それに例えば、疑似科学関連商品を根拠なしに絶賛してるような記述も(当事者にとってはプラスでしょうけど)同様に、検証できなければ積極的に除去する必要があるでしょう。「当事者にとってプラス/マイナス」なんていう価値判断をうかつに振り回すのは、却って問題を複雑にしてしまいますので、やめていただければ、と。

で、じゃあそういう対応の加減がしたい場合にどうすりゃいいのか、ということなんですが…もともと検証可能性を満たしてない記述への「対応」は状況に応じて加減すべきものですので、「(加減なしで)除去する」ことだけを前提に、加減できる特例についての話をされても困るというか(まぁ、下でも挙げられているが、そもそもの翻訳自体にまずいところがあるんで誤解を生んでます。その点については上で私も同じ意見を表明してます)

検証可能性を満たしてなさそうな記述の解消法については、大別して、(1)問題の記述を除去する(してもらう)、(2)出典を追加する(してもらう)、という方向性(目的、小目的)があります。そうすることで最終的には、「出典が必要とされる部分には、すべて出典が記載された状態になった記事にする」ことが、最終目標(大目的)なわけですね。そして、それを現実のものにするための手段として、(A)当該記述部分を(問答無用で)除去する、(A')コメントアウトの状態にして隠す、(B)要出典マークをつける、(C)ノートや執筆者の会話ページでの要請や情報提供のやりとり、(B'、C') B,Cのやりとりを時間制限付きで始めて期限までに満たされなければ除去、(D)自分で出典を探して追記する、など、いろんな手順が考えられるわけです。

で、対処する人は、将来的にその記述を出典付きで記載することが可能かどうかについて自分で予想した上で、その状態に至るまでの経路を考えて、どの手段をとるかを決めるわけです。当該部分の内容が出典なしの現状でどこまで信頼できるそうか(いかにも怪しいとか、どっかで「それはウソである」と聞いたことがあったとか、出典は出せないけど同じ情報を比較的信頼できる筋から聞いたことがあったとか)、その部分の記述を残しておくことがどの程度の問題を生みそうか、などを勘案した上で、気付いた人がその状況を見極めて、そのときの自分の「判断」で、いずれかの「手段」をとって対処するわけですね。その判断が本当に妥当であったかどうか、についてはケースバイケースで処理すべきことです。あからさまに「出典がないので除去」を濫用して記事の破壊を行うような荒し行為が出現した場合には、「その人の判断がおかしい」というレベルの議論で排除し、検出可能性のルールの見直しにまで踏み込む必要がないよう、整備しておくべきかと思ってます。--Y tambe 2006年11月13日 (月) 04:12 (UTC)

原則やルールとしてはともかく、実際の対応では考慮すべきことだと思います。注意深く分けておくべきではあるが、排除されるべきではない視点でしょう。Wikipedia日本語版の現状においては、記事を中傷まがいの記述にしようとする編集が絶えず存在しています。で、そういう人たちは『ルールを字句通りに解釈して逆手に取ろうとする』ように見えます。ですから、こういうこともガイドライン程度には記述してあっても良いのではないかと思います。 -- NiKe 2006年11月13日 (月) 04:34 (UTC)
中傷を除去する根拠は、中立的観点であったり、荒らしであったりするわけで、そちらから対処するので十分でしょう。実際、現状でもそのように対処されているわけですし。
中傷や荒らしを排除することには賛成ですが、検証可能性で縛りを入れると、「検証可能なら中傷しても構わないのか?」という方向になるのが見えています。このときにどのような対応をするかを考えれば、意味のない縛りだということになります。この提案は取り下げるべきだと思います。--Tamago915 2006年11月13日 (月) 09:47 (UTC)
誤解があるようなので申し開き:「テレビ番組など映像分野全般」による情報や「現地に行けば誰でも確認できる」情報 について、Y tambeさんのおっしゃるような「検証可能性を満たしてなさそうな記述の解消法」、つまり運用方法を考えていただけで、「検出可能性のルールの見直し」や「検証可能性で縛りを入れる」「提案」では無いです。
なお、コメントの途中に見出しを入れられては、余計に誤解を招きかねませんので、見出しの位置をコメントの頭に移動しました。--miya 2006年11月14日 (火) 03:34 (UTC)
言葉尻を捕まえて、本論から話をそらさないでいただけますでしょうか。「当事者にマイナスの情報だけ検証可能性を厳しく扱う」という方針はとうてい認められるものではなく、メリットもありません。速やかにご意見を取り下げてください。--Tamago915 2006年11月14日 (火) 03:51 (UTC)
>「当事者にマイナスの情報だけ検証可能性を厳しく扱う」これはたぶんWikipedia:存命人物の伝記を見る限り、ウィキメディア財団を訴えられたり、本人からの苦情が多くてが事務処理能力が落ちるため(資金・人員不足があるため)の解消法の事だと思います。つまりハード上の問題を言っているのだと思います。つまり検証可能性とは独立した問題だけど、全体の問題として取り上げられたのだと思います。違うでしょうか?--Naisi 2006年11月14日 (火) 08:46 (UTC)
検証可能性と独立の問題ならここで議論すべきではなく、検証可能性の運用方法に対する意見なら決して認められるものではありません。なので、取り下げを要望する立場はそのままにします。--Tamago915 2006年11月14日 (火) 09:24 (UTC)

えーと、そもそものMiyaさんからのコメントについては、2つの主旨から成り立ってます。前段の部分は、Miyaさんが後から追記されましたが、即時「記述の除去」するのではない対処が必要ではないかということ。これについては、上で私の考えを詳しく述べており、繰り返しになるので割愛します。で、Tamago915さんが問題にしてるのは、最初のMiyaさんのコメントの後段で「当事者にマイナスの情報かどうか」を、その対処の判断に加味する方向性はどうか、という点だと思います。これについては、Miyaさんの追記されたコメントでは触れられていませんね。

私もこの点についてはTamago915さん、Albumさんと同じ考えで、誹謗中傷であることが問題である記述については、「誹謗中傷であること」を理由に除去されるべきだと考えます。「真っ正直に、正攻法で立ち向かう」のが、結局はいちばんの近道だろう、と。もちろん、その手の誹謗中傷には検証不能なものも多いので、それを理由に除去することは可能でしょう。しかし検証可能性を理由に除去されたものは、その問題がクリアされれば除去の理由を失います。また、そういうときに検証可能性の方で議論をこねくり回して、どうにか(除去を切り抜け/除去したままに)しようとされるリスクも(「検証可能性」についての議論をしている立場としては)事前に想定して避けておくべきことでしょう。

「ガイドライン程度には記述できる」のでは、という意見も出てますが。確かに、誹謗中傷には検証不能なものが「多い」とはいえ、全てがそうだというわけではありません。その辺りは個別の価値判断を常に必要とし、類型化して片付けることがそもそも不可能な事例なんです。そして、そういう類型化した処理を行うことが、トラブルの原因に直結します。だから想定されてるようなガイドラインの導入ですら難しい(というか、そのガイドラインが火種になることが容易に予想される)、余計な火種をまかずにすむところにまでまく必要はない、というのが私の考えです。ただ、単にこれは私の想像力が足りないだけかもしれません。もしそういった問題を起こさないようなガイドラインの腹案がおありでしたら、提示していただけますでしょうか?(ただし、前もって言っておきますが、それなりに厳しく評価させていただきますので、予め悪しからずご了承ください)--Y tambe 2006年11月14日 (火) 10:02 (UTC)

>即時「記述の除去」するのではない対処が必要ではないかということ
すべての議論を追えていないのですが、現状、「要出典」と「Unreferenced」のテンプレートがあり、これらを利用することでは足りていないということでしょうか。
>「当事者にマイナスの情報かどうか」を、その対処の判断に加味する方向性はどうか
私はこちらを問題視しております。どんな記述でも、執筆者の個人的な意見ではないかと疑えば、出典を求めてしかるべきだし、そこに中傷か否かという基準はいれるべきではないと考えています。--Tamago915 2006年11月14日 (火) 10:18 (UTC)
>「要出典」と「Unreferenced」のテンプレートがあり、これらを利用することでは足りていないということでしょうか。
ではなく、「テンプレの貼付け」と「記述を除去する」という「手段」の使い分けをどうするか、ということが整理しにくいのだと思います。ただ、この点については、私はWikipedia:検証可能性の解説自体が判りにくいのが、その理由の一つだと考えています。後半については同意です。--Y tambe 2006年11月14日 (火) 10:27 (UTC)

翻訳に関する疑問

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あと先ほど原文を見ましたため、また疑問が発生してしました。the policyだけを見ただけでも原文とは(編集の初期の段階で既に)ニュアンスが微妙に異なると思います。たぶん原文の意味はこんな感じです↓

  1. ウィキペディアは社会的に信用されている情報源が発信する情報だけを元にして構成されるべきです。
  2. 既存の記事に新しい情報事柄を加える人達は確固とした情報源を明記しなければなりません。なぜなら他の誰かに除去される可能性があるためです。
  3. 社会的に多くの人達が疑問をもつ情報もつであろう事柄を加筆したい時、その確固とした情報源を明記する義務は加筆する者にあります。決して疑問のある情報を除去しようとする者にはありません。

Articles=記事の集団→ウィキペディア containを構成と意訳。reputable(sources)=一般に認められている、標準的、評判のよい→社会的に信用されている(情報源) an article→既存の記事 a reputable source→確固とした情報源(確固とした情報源の集まり=社会的に信用されている情報源) mayからニュアンスを柔らかくしました。or→becauseと解釈できるため。wish to→(不可能な事を望む時に使われるはずなので、1、2を受けて)社会的に多くの人達が疑問をもつ情報を加筆したい と解釈してます。英訳は参考程度に考えてください。とりあえず疑問のみお伝えします。--Naisi 2006年11月11日 (土) 15:27 (UTC)

肝心の「疑問」が提示されていないのですが。。。何が疑問なのでしょうか? また、「wish to→(不可能な事を望む時に使われるはず」の出典を示してください。[2]にはそのような意は見当たりません。「強く要望する」という意だと思いますが。よろしくお願いします。Masao 2006年11月11日 (土) 16:13 (UTC)
回答ありがとうございます。あの時点での疑問というのは『なぜ今のような強い言葉で書かれているのだろう?(英語に詳しい人が書いている筈だから、)もしかしたら私の知らない英語の知識があるのかな?)』という内容です。
あと、wish to ですが>~使われるはず というのは受験期に自由英作文対策の勉強していた時のちょっと曖昧な記憶が元です。読んだ本が手元にない事、添削で知った事などで今すぐ参照できません。申し訳ないです。今のところ参照可能と思えるのは『ジーニアス英和辞典』です。そこに『(不可能かもしれないけど、できたら)~したいなぁという感じでwant toよりも丁寧な表現』【参照できるページがなかったため著作権に触れるとまずそうなので変な感じになってしまい申し訳ありません。】と書かれているのでニュアンス的にはいいと思います。ただ『不可能なことを望む』を『(言う本人が)不可能かもしれないとちょっとは思っているけど望む』に訂正します。これは私のミスです。申し訳ありません。
(もし私の書いた英文が正しい場合)、出典(情報源)を明記する理由は加筆者と関わりがない人達が真偽を検証するためで、信憑性が高い物を優先して読者に見せるため、検証できないものはremove(移動、除去、削除【←レベルの弱い順で並べました】)されますよって言う事(つまり情報はなるべく残しておこうっていう事であり、『疑わしいのは削除せず先送りしましょう。ただし加筆者が情報を独占している疑いがある場合は検証できないので(システム上不都合なので)禁止・削除と定めますよ』っていう事。)であり、現在の『出典のないもの=即削除対象、出典のあるものは真偽に関わらず削除してはいけない(出典された物を検証するよう勧めている文章がないみたいなので)』と誤解される流れに疑問を持つ事ができると思います。翻訳の一部を訂正しました。--Naisi 2006年11月12日 (日) 09:00 (UTC)
文章が硬いのは翻訳時の都合かと思います。ばたばたとしてるっぽいので。練り直す必要はあるかもしれません。で、containは「含む」で「構成する」はconsist ofかと。で、removeには、「除去」を用いていて、delete(削除)と区別しているのは、ウィイペディアでは、削除は復帰不可、(編集による)除去はいつでも復帰可能な仕組になっているからで、除去する場合にはそれを示しておけば検証可能になったら記述を復元できるというのが情報を…の節が指す意味だと認識しております。出典のないものは、他の誰かが「除去…してもよい; ((軽い命令)) …しなさい; …しても差支えない, …するのももっともだ」(mayの訳語は三省堂提供「EXCEED 英和辞典」)となりますから、Naisiさんの(枠内の訳じゃなくて)解釈はちょっとゆるい気がします。まあ「しなければならない」ではないですし、実際の運用もあまり除去されていないので、現状こんなものかなと。出典のあるなし、およびその信頼性の程度に拠らず、この方針では「削除」は求められていないです。「加筆者が情報を独占している疑い」は、情報源が公刊されていないような場合ですから、この疑いはwikipedia:独自の調査のほうの問題となるでしょう。--Ks aka 98 2006年11月12日 (日) 19:41 (UTC)
containですがこれは日本語全体としてのニュアンスのためです。『だけを含むべき』と『~だけを元に構成されるべき』だと意味が異なりますし、色々な矛盾を解消できると思ったからです。もちろん構成される時に誤った情報が入っていれば他の方針で排除できます。>復元可能 これはすごく役立ちました。もやもやしていた物がスッキリした感じです。ありがとうございます。この場合のmayについては『推量(mayのよく使われるタイプ)』か『容認』の軽いレベルなのであの感じでいいと思います。日本語にすると『除去されるかもね』『除去された?まぁ仕方ないんじゃない(笑)』っていう感じです。
>この方針では「削除」は それについては(今の私なら皆さんとの会話でなんとなく分かたいますが、)今の方針を読むと誤解されやすいのでは?と疑問に思っているという事です。情報の独占については全体のイメージを述べるために使用しましたが、ここで述べるのは相応しくなかったみたいですね。すいません。署名付け忘れ--Naisi 2006年11月13日 (月) 15:54 (UTC)
removeがdeleteより柔らかい、ということは無いですね。removeはtake away(取り去る・取り去れ)、という強い意志のニュアンスがありますし、deleteは単純に作業として文章中から単語を消すイメージですね。ニュアンスは英和よりも英英辞典を読むとはっきりします。--Album 2006年11月14日 (火) 00:54 (UTC)
>removeがdeleteより柔らかい ですがKs aka 98さんも私もそういう事は言ってないと思うのですが、もしかしたら私の文章に関して誤解される部分ありましたか?もしよろしければご指摘してください。--Naisi 2006年11月14日 (火) 07:13 (UTC)
removeを「つまり情報はなるべく残しておこうっていう事」とお書きになっていますが、それが違うんだ、と言いたいのです。確かにAからBに移動という意味も無いではないですが、主要なニュアンスは、「汚れを取り去る・捨てる」「開拓のために木を切り開いてどけてしまう」という感じです。「なるべく残しておこう」、というニュアンスではないです。英英辞典では第2義くらいまで「形を変えてでも捨て去る・取り去る」イメージです。--Album 2006年11月14日 (火) 07:24 (UTC)
それはmayを受けた解釈です。この方針の提案者が積極的にしたいと望んでいるならmay以外のものを使うと思ったからです。あと、removeに『消滅させる』イメージはないのと、re-moveとあるように『移動させる』(上記で示されたtake awayでも分かると思いますが)が基本のイメージです。つまり日本語では『捨てる、取り除く』と言っても『消滅させる』系ではなくて『移動させる』系だという事を表してます。あと、Wikipedia:存命人物の伝記では取り除く事に強い意思を感じますが(ここではIt should be removed,とあります。)これは基本理念(理想理念)ではなくてハード面(技術的問題、法律的問題など)に問題があるためだと伺えます。(前々から思っていた事なのですが、同じ方針でも理想理念と、現実問題から生じる方針がある事をいずれ書いておいた方がいいのではと思います。(ここに参加さえる方は頭の良い方ばかりなので問題ないのですが)一般参加者には誤解が生じる恐れがあるため。)どうでしょうか?
あと、取り除く理由ですがこれはページが乱雑になって見づらくなる事と(記事が真実かどうかは読者が判断すればいいだけです。そのための中立性と思うので)信憑性がある情報が優先して掲載された方が読者の利益になるからだと思います。あと、残すというのはコメントアウトも含めます。--Naisi 2006年11月14日 (火) 08:28 (UTC)
(インデント少し戻します)deleteとremoveについてのことですが、語句そのものの強弱の話と、ウィキペディアでの意味を混同しておられるように思います。ウィキペディアにおいて「削除 (delete)」はしばしば、「記事全体を、履歴を含めて消去する」ことを指しますので、このことと「記事の一部分の記述だけを消去する(履歴には残る)」ことが混同されないよう、ここでは「除去 (remove)」という語が選択されていると理解していただければよろしいかと。
ただ、私もこの部分の訳については「表現がきつい」というだけでなく、(上でも少し書いてますが)「記述の除去」に偏向した文書になっていて誤解を生じさせる危険性がある、と考えています。枠内の訳文をもう少しだけ軟く変更した上で、「出典の追記」と「記述の除去」という、両方を想定した解説文を付けることが望ましいのではないかと。
ただし、Naisiさんにはこの点をご理解いただきたいのですが、検証可能性に基づいて、ある記述を「除去する」のは、単に乱雑さや信憑性の高い記述を優先しようという問題ではなく、「記事が真実かどうかを判断する」ための材料を与えるために必須の事項です。ご存知のように、ウィキペディアは誰でも編集ができ、その分野の専門家による査読を経ているわけではありません。また、ウィキペディアの記事を(学術論文で行うような)査読によって検証することは、かなり困難な作業になります。そこでそれに代わる制度として、検証可能性などの指針が必要になるのです。ウィキペディアの記事について査読することは困難かもしれませんが、そのウィキペディアに書かれているそれぞれの記述が、すでに専門家による査読等を済ませることで信頼性が確保されている内容だけで構成されていれば、それを集めた記事の内容も、査読されたものと同等に信頼できる、と考えられるというのが基本的な考えです(もちろん、これだけでは完全でない部分があるので、「独自の調査を行わない」という別の指針がそれを補います)
ですから、ある記事が一通り完成(安定版のリリース)されたときには、そこに「出典の示せない記述」が載っていることは、基本的には許容されません。だから出典の示せない記述については、妥当な出典を補うか、それが出来なければその記述は除去されます。そうすることで、検証可能性が保たれるのです。もし、当該の記述に出典が追記されることが(将来的に見ても)期待できないのであれば、その記述は除去されるべきです。もちろん分野によっては、査読付論文などが発行されていないなどの理由で、厳格な適用が不可能なケースもあるかと思います。しかし、その場合でも基本的な考えは同じにしなければなりません。最低限、「出典の提示を求められたときに、出典が示せること」「その出典に信頼性があると周囲を納得させることができること」、この二つができない記述は「除去されても文句は言えない」ということになる、と理解していただければと思います。--Y tambe 2006年11月14日 (火) 09:22 (UTC)
Y tambeさんの考え方は上記のも含めて結構私と似ていると感じました。たぶん誤解が生じたのは、>記事が真実かどうかは読者が判断すればいいだけです。 と思いますが、これは検証済みの場合も含めます。(現社会において示された(特にネット上の)情報を100%信頼する人はいなく、ある程度個人の裁量(出典が明記してあったり、それを元に検証された形跡があったり、その人個人の常識や知識、思考パターンなど)でされるので、判断材料だけを与える形式が一番読者の利益にかなっていると思ったわけです。あと、履歴のことですが、履歴数が多い記事の場合履歴を一つ一つ調べる事になり手間がかかり利便性が悪くなるので、できればコメントアウトかノートにでも残っている形の方が望ましいと個人的には思ってます。--Naisi 2006年11月14日 (火) 13:52 (UTC)
追加。Y tambeさんに興味を持ったため過去のココに関する投稿見せてもらいました。確かに方針の正式化の途中に『執筆者の都合』というか私情が入っているように感じました。そこで朝になってふと思いついた事なのですが、独自の調査と検証可能性は基本的に無関係と考えた方が正しい意味を受け取れると思えます。くわしく説明すると中立性と加えて3方針なので、3つがそれぞれ同じくらいの役割を果たしているはずです。それなのに独自の調査と検証可能性の役割がダブっているのはおかしいのではないかと思うのです。つまりなんらかの不純物が混ざった状態にあると言う事です。で何が不純物があるのか考えると検証可能性ではないかと思います。検証可能性の役割は中立性に基づいて書かれた物を執筆者以外の人間が検証できるようにする事が目的だと思います。そして最後の独自の調査で、検証した結果を照らし合わせて撤去させるという事です。つまり、中立性で偏りのない生の情報を提供して、検証性で他の人達に検証させて、独自の調査で、情報の処理を決定する(掲載を許可する。疑問を持つ情報を排除する。疑問がある情報でも価値のありそうな物は信頼できる機関に査読させるよう促す)という3段階を踏むという事です。
それでウィキペディアに色々と矛盾点が存在してしまったのは排除好きな人(執筆した経験があるものとしては感情的に自分の価値と合わせて邪魔な物を排除したいと思うのは当然でしょう。同じ人間として理解はできます。)が『執筆者の都合(読者の利益とは反する物。)』で排除しやすくするために、検証可能性に強引に付け加えたのがいけなかったのだと思います。もし同じ強引に付け加えるなら独自の調査に取り付けていれば今より問題は起こらなかったと思えます。大抵邪魔と思える情報は独自の調査か、あらしなど他の方針で十分さばける物だったと思います。どうでしょうか?--Naisi 2006年11月15日 (水) 06:20 (UTC)
うーん、すみませんが、いろいろと誤解されてるように見受けられます。もう一度、ウィキペディアにおける「中立性」という語の意味についてWikipedia:中立的な観点を読んでいただくことと、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自の調査を読んで、それぞれの役割を整理すること、それに加えて、Wikipedia:信頼できる情報源もお読みいただくことをお勧めします。少なくとも、「検証可能性」と「独自の調査の排除」は「役割がダブっている」ものではありませんし、この点に矛盾などありません。(「もう何度も読んだ」とおっしゃるかもしれませんが、この部分を理解できた状態で議論に参加していただかないと、議論が噛み合なくなって大変なんで、是非ともよろしく)
  • 「独自の調査」ですが、これは内容的には「独自の調査の排除」が正しく(もともとが No original research)、決して「独自に調査しろ」ということではありません(現在、改名についての議論が当該ページのノートで行われてます)。「独自の調査の排除」は、端的に言うと「自分の研究発表をする場としてウィキペディアを使うな」ということです。独自調査の元の語にあたる「original research」ってのは学術論文での「原著」を表し、学術雑誌なんかでは「投稿できる論文はoriginal researchだけに限定する」と規定されてて、それとウィキペディアの位置付けが対比できるわけですね。荒しの意図がある/ないに関わらず、そういう独自の調査が排除できるというのはこの方針にかかってます。
  • 「検証可能性」については「出典を明らかにする」だけではなく「信頼できる出典」であることが条件になります。またウィキペディアでは一次情報源でなく、二次情報源を出典とすることが強く推奨されます。この辺りを書いているのがWikipedia:信頼できる情報源です。そして荒しの意図がある/ないに関わらず、信頼できる情報源を出典としない記述は除去できる、というレベルの処置もここに含まれます。
  • 実際に「検証」や、そのために独自調査を実施することは、ウィキペディアの方針にはありません。それを行わずに、査読と同等の信頼性を確保するというのが、そもそも「検証可能性」と「独自調査の排除」が作られた理由です。
これらの方針の翻訳を書くときに、いくらかのバイアスがまぎれこんだんだろうなあ、というのは、率直に言うと私もそう感じないではありません。しかし「バイアスがまぎれこんだ人が書いた」と考えながら対峙するのもまた、そういう先入観にとらわれてしまうのでよくないことです。--Y tambe 2006年11月15日 (水) 08:35 (UTC)
やっぱり独自の調査というのは名前がよくないですね。オリジナルリサーチの方がしっくりきます。たぶん文章の書き方が悪かったのかもしれませんが、独自の調査 と書いた事はWikipedia:独自の調査のことです。あと、ダブるとか書いた事はY tambeさんが書いたようにバイアスがかかっている事を言っています。つまり検証可能性にバイアスがかかっている事に原文やノートの議論を参照せずに認める事ができるっていう事言いたかったのですが、余計複雑化させてしまったみたいです。
あと、排除好きな人達(例えば白紙化した方がいいとか言う人達)が関わる所とこの方針とは元々関係ないものであり、別の方針で対処可能だという事が言いたかったのですがこれも私の文章がわるかったみたいですね。ただ、Y tambeさんの文章を読んでいると、この方針については私の考えと基本的に同じだと思います。違う事といえば
  • 除去する時に履歴に頼るべきか、コメントアウトにするべきかという違い
  • 『文句はいえない』 は言い過ぎと思い、『仕方ない』くらいでいいと思う事。
  • >実際に「検証」や、そのために独自調査を実施することは、ウィキペディアの方針にはありません。それを行わずに、査読と同等の信頼性を確保するというのが、そもそも「検証可能性」と「独自調査の排除」が作られた理由です。これは微妙に違うというか専門家としてのこだわりがあるように思えます。3つの方針のうち2つだけ密接な関係にあるのは疑問を感じますし、システム上色々と問題を生む気がします。この2つは専門分野にも使えますが、大衆文化にも使う事ができます。『検証可能性は』単に情報源を示せというだけ、『オリジナルリサーチ』は一次資料(二次資料の一部除く)の作成を禁止しているだけ。と分けて認識した方がいいと思います。あと、>査読と同等の信頼性を確保する とありますが、著作権に触れないように要約してくれる方が理解力に乏しい人(または理解に難解な事柄)だと間違った文章が堂々と載せられてしまう危険があると思います。
だけだと思いますがどうでしょうか?--Naisi 2006年11月15日 (水) 14:16 (UTC)

えーと、まず1件目については、上述している「手段」レベルと「小目的」レベルの話を混同されてるのではないかと。「手段」レベルについては、私は対処する人が自分の判断に基づいて、いろいろな手段(記述からいきなり除去する/コメントアウトにする)で対処することを許容すべきであり、「いきなり記述から除去すべき」「まずはコメントアウトすべき」のいずれの意見にも与しません。もしも、誰かが「一旦、コメントアウトしたとしても、ゆくゆくは結局削ることになるだろう」と判断したなら、その人がいきなり記述から除去するのはむしろ理に適っている行動だと思います。というか、私も結構そういう編集はやってますし(大体は要約欄に一言書いて、ノートで趣旨説明した上でやってますが、後でトラブルが起きるのは面倒だからなんで、そういう方法をおすすめはしますけど「すべき」とまでは言えないですね)

その人の判断が本当に正しかったかどうかについては考慮する必要がありますが、そのために「記述を残したい側」ができる反論は、信頼できる出典を付けた上で記述を付けること「だけ」で、それ以外の行動は説得力を産まないでしょうね。(半ば嫌がらせ目的などで)記述を消しまくる人が仮に現れたとしても、そのように「反論可能な」判断を連発していることを示すことで、「誤った判断を繰り返す利用者である」ことが明らかにできるでしょう。

二件目に関しては、まぁ些末な見解の違いだと思います。しかしウィキペディア全体を見わたすと、「無責任な書き込み」の方が圧倒的に多いと考えてます(この辺りはNaisiさんの場合、ご自身の体験から「削除される」ことを過大に見積もってるのではないかなあ、と思ってます)。そこらあたりのバランスを考えると、「文句は言えない」くらいでもいいんじゃないかなと。むしろ、もっと強い表現を望んでる人の方が多いんじゃないかとすら思います。

三件目についてですが、検証可能性については(英語版の原文なども見ていただくと判りますが)、常に出てくる「信頼できる(reliable, reputable)」出典というのを見落としてはいけません。ここは「簡単に揺らいでもらっては困る」部分です。余談ですが、むしろNaisiさんが削除依頼などで主張しているような方向性で考えるなら、Wikipedia:信頼できる情報源で、どういう情報源ならば「信頼できる」と認められるだろうか、と考えていく方がいいんじゃないかなあ、と思います。--Y tambe 2006年11月16日 (木) 09:05 (UTC)

1件目についてはY tambeさんが除去する事に強い執着がない事には安心しました。ただ個人の価値感や常識などで除去する事には危険があります。(ノート、コメントアウト、履歴に残す場合にY tambeさんみたいにコメント書いて除去なら復帰が簡単なので問題は全くないと思いますが。)たぶんウィキペディアの創始者が一番恐れている事だと思います。あと、>誤った判断を繰り返す利用者 といいますが、IPなどで少しだけ参加する人、アカウントを持っていても全能な人間はいませんので分野によって判断の良さが異なるのでその考えはシステムとして弱いです。
2件目に関しては無責任と思われる記事が多いのは現時点では仕方ないのです。それはWikipedia:日本語版の統計を見ていただければまだウィキペディアが進化の途中だという事分かると思います。私の経験というとLonicera さんが言った事だと思いますが、(彼の行動を見てもらえば分かりますが)誤解ですね。ただあの経験で強い矛盾点に気づいてしまったのです。(明らかにウィキペディアの創始者が考えるような事ではないこと。)それで仕方なくウィキペディアに搾取される立場に回っている訳です(笑)あと、>もっと強い表現を望んでる人 ですがこれは『ノーオリジナルリサーチ』や他の方針で十分可能です。
3件目ですが、よく出てきて、なおかつ同じ文章内にあるreliable, reputableを同じ意味『信頼できる』でくくる事は問題があると思います。もし同じ意味ならわざわざ使い分けしません。あと、削除依頼で話した事は、現在出典の定義がされていないと聞きましたので後回しにしてます。
余談ですが、たぶん参加者の大多数は、ウィキペディアを考えて実行するような人間がどういうタイプの人間かあまり想像していないのだと思います。野口悠紀雄の整理日誌シリーズや経済紙などを見ればアメリカのインテリが考えるパターンが分かりますが、彼らは情報に異常なほどの執着心を抱いてます。(例えばgoogleの行動やアメリカが積極的に図書を電子化しだした事がその結果です。)それをふまえた上でウィキペディアの方針の英語を見れば正しく理解できるはずです。(ただ部分的には創始者はどちらの道に行こうとしているか予測がつかないので今のように英文を読みながら彼らが何を考えているのか知ろうとしてます。)
しかし今の皆さんが考えているような道に行くとウィキペディアはたんなる書籍のお気に入り集にしかならなくなると思います。しかし現在アメリカのgoogleでは100年分の新聞が読めたり、本の中の語句を検索できるわけですから、もし創始者がそういう道を考えているならばgoogleに子会社でも作ってもらっていいわけです。つまりウィキペディアはプログラムではできない、人間にしかできない物を求めていると考えるべきです。
さらにタブロイドの記事などを見ればわかりますが創始者は情報に対して貪欲などは明らかですし、さらに信憑性に疑いがあるものについても一度解説から除去、ノートなどに移して求めましょうと言っているのにも、それによって彼らがもとめる価値ある情報を得る事ができるためだと思います。あと、ココの方針に『情報元を公開することは執筆者の義務』とありますがこれは『その情報もよこせ!』と言っているようにも思えます。つまりこの方針は執筆者に新たな情報を求める事ができる原動力な訳です。(余談ですが初期の私はこの方針は知らなかったのですが、除去する事で出典を求めて恨みを買った事があります。この情報はネット上では知られていましたが、いくら調べても情報源がどうしても見つける事ができなかった物です。しかし出典を書いてもらう事ができて、その出典物を存在を知り、図書館で取り寄せてもらう事ができました。相手方には不快な思いさせてしまった上貴重な情報を頂いてしまったわけです。)ただ、創作された情報や創作されたか本物かを識別するのが難しい物、ウィキペディアの創始者の人間にとっていらない情報を排除するのが『ノーオリジナルリサーチ』だと思うわけです。私個人としてはウィキペディアの最終形態(少なく見積もって100年以上あと)はハード面(技術、法律、人などの問題)さえクリアできれば自分さえ知らない個人情報(祖先が何をしていたとか、自分がかかりやすい病気など、死去する年などなんでも)が調べる事も可能だと思います。
さすがにそれは難しいですので、近未来の現実的な問題を考えますと、今まで何かを調べる時に10時間かかっていた事がウィキペディアのおかげで1時間に短縮できるようになれば経済効率や文明の発達効率が上がるわけです。そうなると早くウィキペディアを完成形に近づける事ができた国民は相当の利益を手に入れる事が可能となるわけです。(もしかしたらその時にはウィキペディアが有料化されたり、サーバーをアメリカに盗られているいるかもしれませんけど。)
ちょっと文章が分かりづらくなったと思いますが、私は私情から行動しているのではなく、ウィキペディアの創始者が何を望むのかというアプローチで行動しているっていうことです。
ところでそろそろ翻訳のことについて実行したいと思っているのですが、上記の訳だと日本語として荒削りな感じ(特に2と3。2については以前Y tambe さんが書いた物の方がしっくりくる感じがするので。)がするのでもう一度書き直してもよいでしょうか?--Naisi 2006年11月17日 (金) 11:29 (UTC)

続・翻訳に関する疑問

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量が多くなったので新しい章を作りました。

とりあえず時間短縮のためこのようなものを作りました。こちらで変更前と後が分かります。議論はあちらのノートではなく、こちらでお願いします。--Naisi 2006年11月20日 (月) 18:46 (UTC)

ご提案の文章は翻訳として正確でないと思うので、変更には反対です。例えば、Naisiさんのwish toの解釈等は明らかに間違っていると思います。
ところで、2番目の文章の"may be removed”が、英語版ではいつのまにか“may be challenged or removed“に変更されていますね。除去(remove)だけが唯一のオプションではなく、「要出典」のタグを貼る等、問題提起・異議申立(challenge)のオプションもあることを表現しようとしたもののようです。1 2
この変更は日本語版にも取り入れた方が良いと思うのですが、訳すと「出典が明示されていない編集については、誰でも反対意見を述べ、または、除去することができます」くらいになるのでしょうか?もっと良い訳がありそうな気もするのですが、思いつきません。--Dwy 2006年11月23日 (木) 11:18 (UTC)
翻訳についてはウィキペディアのシステムを俯瞰した上でしている部分と日本語にした時に誤解を受けないようにしている部分がありますので、もし誤っていると思えるのであればDwyさんが正しいと思える記述をつけて指摘してくだされば説明しやすいと思います。
あと英語版について一応個人の意見を言わせてもらえれば、無条件に受け入れるべきではないという考えです。理由は文化、文明水準、人の思考方法の違いなどもありますが、対人効率が悪くなるのが大きい理由です。ただし、参考にするのにはいいと思います。
あと、Dwyさんは英語版も読んでいられるようなので英語力があると思うのですが、解釈の仕方に意図が感じられ疑問が残ります。(ちゃんと英文の対話を読まれているのかという疑問、現在英語版がchallengedの提案者が原因と思われるブロックがされており、なにか重要な切り札を隠しているような気がする事からの警戒心、過去のDwyさんの議論、履歴、からつい警戒してしまいます。申し訳ない。)一応私は利便性を高めるためにやっていますのでウィキペディアをおかしな方向にもって行こうなどとは考えていません。ですのでここでは戦略など考えずに議論をしています。ですのでもし何か意図がある場合はお止めください。もし意図がないのであれば大変失礼しました。--Naisi 2006年11月23日 (木) 15:12 (UTC)
一応2006年11月26日 (日) 18:45 (UTC)に井戸端の方へだしましたが、何もないので変更しました。--Naisi 2006年12月3日 (日) 09:43 (UTC)
お気持ちは理解できますが、合意形成は全くなされていません。「議論はこちらで」と自らお書きになっているのですから、議論と合意形成はこちらでお願い申し上げます。反対を表明された方の合意も、まだありません。呼んでくる必要があります。また、翻訳の正しさと、日本語版のあり方は、また別の話だと考えます。議論の続行をお願い申し上げます。明日以降。--Album 2006年12月3日 (日) 10:03 (UTC)
>呼んでくる必要があります。 それを私がやると何となく日本人的に考えて、無礼な気がするので、Albumさんが適当と思われる人達を呼んできてもらうと助かります。--Naisi 2006年12月3日 (日) 11:31 (UTC)

方針について

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Y tambeさんが以前に提案していますがmaterialを題材と訳すのはどうもおかしい気が。それに題材を辞典で調べたところ[3]別の意味のようです。「内容」に変更した方がいいんじゃないでしょうか。--220.211.167.153 2006年12月13日 (水) 22:29 (UTC)

1週間異論がないため修正しました。--218.110.176.18 2006年12月20日 (水) 00:20 (UTC)