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松平好景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 好景
時代 戦国時代
生誕 永正15年(1518年
死没 永禄4年4月15日1561年5月28日
別名 又八郎、大炊助
戒名 光真院殿弧峯源秀大居士
墓所 本光寺愛知県額田郡幸田町深溝
主君 徳川家康
氏族 深溝松平家
父母 松平忠定松平親長の娘
兄弟 好景定政浅野定清康定市川好之景行大原正親室、稲生某室、菅沼定村正室、山本加賀室、小笠原主膳室、佐野孫太郎
正室松平清定の娘
伊忠親定小笠原安次室、松平信一継室、松平清宗
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松平 好景(まつだいら よしかげ)は、戦国時代武将。又八郎、大炊助と称す。深溝松平家2代。三河国額田郡深溝城主(愛知県額田郡幸田町深溝)。

略歴

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初代当主・松平忠定の子として誕生。

松平宗家代々に仕える。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは松平元康(徳川家康)に従い、大高城撤退で殿軍を務める。元康の三河平定のため、永禄4年(1561年)、中島城(愛知県岡崎市中島町)主・板倉重定を攻めて落城させ、戦後、戦功により中島城を与えられ、嫡男・伊忠を入れた。同年4月15日、東条城吉良義昭酒井忠尚の守る上野上村城豊田市上郷町)を急襲したため、元康の命により、伊忠を援軍に向かわせる。しかし、今度は手薄となった中島城を攻められ、深溝城にいた好景は一族郎党50騎ばかりの兵で向かい、中島城に入るが、それを吉良義昭方は中島の町裏に300人余の兵で待ち伏せた。好景は名の知れた勇士で、力戦奮闘して逃げる敵を深追いし、幡豆郡永良(西尾市下永良町)の善明堤近くで縦横に奮戦していたときに、馬の腹帯が切れて鞍が動き、馬から飛び降りたところを尾関修理の矢が当たって深手を負い、山岡薬医に首を切られて討死した(善明堤の戦い)。享年44。弟の定政、定清、好之、景行や家臣・板倉好重勝重の父)らも共に討死した。

松平好景の墓(幸田町本光寺)

墓所は深溝松平家の菩提寺・瑞雲山本光寺。法名は「光真院殿弧峯源秀大居士」。好景の討死した地(西尾市下永良町鎮守)には、松平好景戦死之地入口の石碑と顕彰碑(継植松碑)がある。また、向野墓所(旧本光寺、額田郡幸田町深溝)には、父・忠定の首塚(源元公墳松)と好景の首塚(源昭公墳松)が並んであり、彼の首が埋められていると考えられる。

なお、没年については弘治2年(1556年)説もある(『家忠日記』天正6年(1578年)3月4日条)。

系譜

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参考文献

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  • 寛政重修諸家譜.第1輯』巻第29 國民圖書(1922年出版) 148頁
  • 三河古書全集: 『校正三河後風土記』 第1巻 国立国会図書館デジタルコレクション 190頁-193頁
  • 『家康と松平一族』 安城市歴史博物館編集(2021年発行) P.38~42深溝家