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松平重忠 (三木家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平重忠
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文9年(1540年
死没 慶長6年12月2日(1602年1月24日)[1]
別名 九郎右衛門[1]
戒名 道徹[1]
墓所 養国寺(東京都文京区関口)
主君 徳川家康
氏族 三木松平家
父母 父:松平信孝
兄弟 女(榊原正久室)、女(上田元俊室)、重忠
忠清忠利、女(旗本松波勝安室)
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松平 重忠(まつだいら しげただ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将三木松平家第2代当主。松平信孝徳川家康の大叔父)の子。

生涯

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父の松平信孝三木松平家初代)は、松平清康の弟である[2]。『寛政重修諸家譜』によれば、天文4年(1535年)の清康横死後、信孝は甥の松平広忠(清康の遺児)を支える立場にあったが、やがて「岡崎の老臣」たちと対立して失脚し、ついには広忠と交戦するに至った[2]天文17年(1548年)、信孝は菅生河原(安城合戦参照)において討たれた[2]

重忠は、『寛政譜』記載の没年・享年から逆算すると、天文9年(1540年)の生まれである。成長後は徳川家康に仕え[1]天正18年(1590年)に家康が関東に入部した際に大番頭となった[1]慶長5年(1600年)に致仕[1]。家督は長男の松平忠清が継いだ[1]

慶長6年(1601年)12月2日に死去、享年62[1]。重忠の死から間もなく、12月22日に忠清も32歳で嗣子なく没した[1]。重忠の二男・忠利はすでに別家を立てており、三木松平家の嫡家は絶家とされた[1]

人物

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『寛政重修諸家譜』には、重忠が徳川家康の木像を彫刻したというエピソードが「家伝」として載る[1]。重忠は手製の木像を長らく屋敷に安置していた[1]。このことを聞いた家康は、木像を持参させてこれを見、自分の死後にはこれを拝するように、と言って重忠に返した[1]。この木像は忠利の家に伝えられ、のちに忠利の家の菩提寺となった目白の養国寺に奉納された[1]。家康像は境内に別殿を設けて祀られ、養国寺は「権現様の寺」と呼ばれたという[3]

系譜

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『寛政重修諸家譜』には、実子3名(男子2名・女子1名)が載る[1]

長男の忠清(与十郎)は父と同年に死去し、三木松平家の嫡家は断絶した[1]

二男の忠利(九郎右衛門)は、重忠の所領のうちから500石を分与されて別家を立てた[1]。職務上の落ち度から改易されているがのちに復帰し、子孫は旗本として続いた[1]

娘は600石取りの旗本・松波勝安の妻となった[4]。松波勝安は家伝によれば斎藤道三の曾孫とされる人物で[注釈 1]、大番や代官を歴任した[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政譜』の松波家の譜によれば、松波新九郎(『寛永諸家系図伝』の「井上新九郎」)が斎藤道三を称し、その二男の「雅楽頭政綱」が兄「義辰」(『寛永伝』では「井上義龍」)の家を継いで織田信長に仕え、松波名字に復したという。政綱の子・松波勝置が家康に仕え、勝置の子が勝安という[4]。なお、江戸幕府の旗本には斎藤道三(家伝によれば諱は「正利」)の子(または弟)の道利の子孫という井上家もある[5]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.87
  2. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.16
  3. ^ 法樹山養国寺”. 猫の足あと. 2023年5月24日閲覧。
  4. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第九百十九「松波」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.833
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九百十八「井上」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.828