松平信忠
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 延徳2年(1490年)生年および没年月日は「朝野旧聞裒藁」所載「関野済安聞書」による[1] |
死没 | 享禄4年7月27日(1531年9月8日) |
改名 | 竹千代(幼名)→信忠→太雲、祐泉[2](法号) |
別名 | 次郎三郎、三郎(通称)、左京亮 |
戒名 | 安栖院殿泰考祐泉 |
墓所 | 愛知県岡崎市鴨田町の大樹寺 |
官位 | 従五位下、越前守、左近蔵人佐 |
氏族 | 松平氏 |
父母 | 父:松平長親、母:月空浄雲大姉(松平氏?)[3] |
兄弟 | 信忠、親盛、信定、義春、阿部忠親、利長 |
妻 |
正室:岩倉殿正珊光仲(大河内満成の娘) 側室:水野清重の姉 |
子 |
清康、信孝、康孝、久(鈴木重直室)、 東姫(大浜道場室)、矢作殿(島田某室)、 瀬戸之大房(吉良持広室) |
松平 信忠(まつだいら のぶただ)は、戦国時代の武将。徳川家康の曾祖父にあたり、安祥松平家2代当主。 家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲ったが、その背景には諸説がある。
生涯
[編集]三河吉良氏の吉良義信の偏諱を受けて信忠と名乗る[4][5]。
文亀3年(1503年)8月頃、父・長親の隠居により家督を継いだと推定されるが、実権は長親が握っていたという。家督継承から程無い永正3年(1506年)7月には今川氏親の三河侵攻が始まり、永正5年には西三河の松平領も攻撃を受けた。岩津松平家の岩津城が伊勢盛時の率いる今川の大軍に包囲されていたが、父道閲の主導の下に安祥松平軍は岩津近郊の井田野(現岡崎市井田町周辺)で決死の戦いを挑み、辛くも今川軍を撃退した(永正三河の乱)。
しかし、この今川軍との戦いにも信忠の確かな戦功や軍事的采配の記録は見えず、大久保忠教の『三河物語』では信忠を不器用者(統率者としての器量の無い者)としている。『三河物語』は宗家の「家憲」として当主の具備すべき「武勇・情愛・慈悲」のいずれも信忠には備わっていなかったと指摘し、暗愚・強情な人物とされた。このため、家中衆も民・百姓も怖れおののき、松平一門衆や小侍までもが信忠を慕わず、城に出仕しない者まで多く現れた。また謀反の動きも有ったとされ、これは信忠自身が事前に察知して首謀者を手討ちにしたが、この情況を挽回するには至らなかった。
結局、大永3年(1523年)には一門等が協議の上で信忠の隠居と嫡男清康への家督譲渡の方針が決まり、家老の酒井忠尚(将監)が代表して信忠にその意を伝えると、信忠はこれを受け容れ清康に家督を譲って、三河国幡豆郡大浜郷称名寺(愛知県碧南市大浜地区築山町)に34歳にして隠居・出家した。清康への家督継承の時期について、平野明夫は松平清康発給文書の初見とされる、「大永3年(1523年)8月12日付書下(稲河文書)」の存在によって証明されるとしている[6]。その後は長命した父道閲とともに、まだ若い清康を弼けたとも言われている。
なお、信忠の代から、岩津、滝等の寺院にも寄進状等を出していることから、今川氏らの攻勢で岩津松平家が滅び、代わりに安祥松平家が惣領となったものと窺える[7]。
享禄4年7月に隠居先の大浜郷で父に先立ち死去した。
信忠早期隠退の背景
[編集]信忠が早期に隠退させられた背景には、『三河物語』によれば、長男である信忠に家督を譲り、戦巧者の優れた家臣を付け、能力不足の主君を支えよとの道閲の意志を尊重すべきだという一門衆・家中衆の意見がある一方、一門衆・家中衆の中には不器量の信忠よりも、家憲の3条件を兼ね備えた次男の信定を跡継ぎにすべきという意見もあって、松平党が二派に分裂して紛糾していたとされ、今川氏再侵攻の脅威の中で一門・家中の決定的な衝突を回避する必要があったからだという。
またさらに、現代の研究者達の考察において、実は道閲は次男の信定を偏愛し、不器量の長男・信忠には父子間で対立があったのではという柴田顕正[8]の見方があり、井田野合戦後に壊滅的打撃を蒙った岩津松平家領を安城松平家の直領にしたことが戦功への恩賞をめぐる不満につながったと推定する新行紀一[9]の見解や、恩賞への不満よりもむしろ、井田野合戦後に岩津松平家に代わり安城松平家が惣領家の位置に台頭することで松平党内に軋轢が生じたからではないかという平野明夫[10]の見解、仏教特に時宗への異常な傾倒(引退後に浄土宗である菩提寺の大樹寺ではなく、時宗の称名寺に入っている)が家中の反発を買った可能性を指摘する村岡幹生[11]の見解もある[12][13]。
ところが、村岡幹生はそもそも信忠が早期隠居したとする確証となる裏付けはなく、むしろ死去するまで出家のまま安祥松平家の当主であった可能性もあるとする見解に立っている。深溝松平家の末裔である旧島原藩主家に伝わってきた大永3年から同6年の間に作成されたと推測される奉加帳の写(肥前嶋原松平文書「松平一門・家臣奉加帳写」[14])は、道閲(松平長親)・松平蔵人佐信忠を筆頭に松平一門の名前が連記されているが、信忠の後継者である筈の次郎三郎清孝(清康の初名)が67人中の59番目に記されており、明らかに安祥家から自立した存在として扱われていることを指摘している[15]。当時の清康は山中城(医王山城)にいたと推定されるが、『三河物語』で言われるような岡崎松平家を放逐した上での城乗っ取りは事実ではなく、実際は何らかの理由で安祥松平家(道閲・信忠)と対立した清康が岡崎松平家の婿養子になって山中城、次いで岡崎城に入り、後に実力をもって安祥松平家を相続したと推測している[13]。村岡は信忠が道号である「泰孝」から「孝」の字を自分の3人の息子(清孝・信孝・康孝)に諱として与えたものの清孝が自立の過程で「清康」に改名した可能性が高いとしている[12]。
脚注
[編集]- ^ 平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、 2002年。
- ^ 法号は生前に入道名で太雲や祐泉で署名した文書があり、またそれらに前後して俗名信忠でも署名しているため、出家と還俗を繰り返したという見方もある。『三河物語』は法名太香を挙げるが、残存文書の使用実例は知られていない。ただし、太香と同じ音読みをする泰孝を法号の祐泉に添えた文書は存在しており、泰孝は道号であったとする村岡幹生の見解がある。
- ^ 一説に長沢松平家の松平近宗の娘(『朝野旧聞裒藁』)。
- ^ 北村和宏「三河吉良氏の断絶と再興」『吉良上野介義央・義周』義周没後三〇〇年記念事業実行委員会、2006年。
- ^ 小林輝久彦「天文・弘治年間の三河吉良氏」『安城市歴史博物館研究紀要』12号、2012年。/所収:大石泰史 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月、275頁。ISBN 978-4-86403-325-1。
- ^ 平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、2002年、204頁。
- ^ “第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. p. 79. 2022年6月3日閲覧。
- ^ 柴田顕正は初代岡崎市立図書館長。『岡崎市史』全8巻および『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』全3巻の主たる編纂者。
- ^ 愛知教育大学名誉教授・日本史(中世史)研究家。
- ^ 千葉県文書館職員・國學院大学兼任講師、中世松平氏の研究家。
- ^ 中京大学名誉教授、中世尾張・三河の研究家。
- ^ a b 村岡幹生「松平氏〈有徳人〉の系譜と徳川〈正史〉のあいだ」平野明夫 編『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P31-33.
- ^ a b 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P215-232.
- ^ 『愛知県史』資料編中世2・1029号文書
- ^ 村岡幹生「安城松平一門・家臣奉加帳写の考察」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)P39-48.
参考文献
[編集]- 平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021
- 菊池弥門(原著) 『柳営秘鑑』/写本;松山文庫の印記(一橋大学附属図書館所蔵「幸田文庫」)
- 『新訂増補 国史大系38』/成島司直 編 「徳川実紀」・第一篇、吉川弘文館、2007年
- 大久保忠教(原著)・坪井九馬三(校訂) 『三河物語』(文科大学史誌叢書)冨山房、 1898年、国立国会図書館蔵
- 大久保忠教(原著)・小林賢章(訳) 『三河物語(上)』(教育社新書/原本現代訳11)1987年、ISBN 4-315-40092-0 C1221
徳川家康の系譜 |
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