コンテンツにスキップ

東条松平家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東条松平家(とうじょうまつだいらけ)は、清和源氏新田氏松平氏の庶流。始祖は松平宗家5代目・松平長親の三男・義春三河国東条城を居城とし東条松平家と呼ばれた。青野松平家とも。十四松平・十八松平の1つに数えられる。

概要

[編集]

初代・松平義春は松平清康広忠時代の松平氏の困難な時期も宗家を支持した。義春の孫・松平家忠天正9年(1581年)に病没したが嗣子なく、徳川家康は自身の四男・福松丸(後の松平忠吉)を養子として跡を継がせた。

忠吉は武蔵国忍城10万石に封ぜられ、のち尾張国清洲城52万石を領して徳川宗家の支柱として重きをなしたが、慶長12年(1607年)3月5日に嗣子無く夭折する。家康はその名跡を存続させず、甲斐国甲府藩主の九男・五郎太(後の徳川義直)を清洲に移して尾張徳川家を創設した為、慶長12年(1607年)閏4月26日、東条松平家は断絶した。しかし、その領地と家臣団の大半が尾張藩に引継がれた[1]

東条松平の名称のいわれ

[編集]

始祖・松平義春が三河国幡豆郡吉良荘斑馬の東条城主・吉良義藤出奔の跡を受けて、東条吉良氏の6代目を継承したことによると云う[2]。しかし、この松平氏の東条吉良氏継承の事実関係は現在も明確ではなく、疑問視する見方がある[3]。 義春およびその嫡男・松平忠茂碧海郡青野城にあったとされ、義春の孫・亀千代(後の松平家忠)の代になって東条城に居城した[4]

一般的には、亀千代(家忠)の後見人で家老の松井忠次永禄4年(1561年)に徳川家康に帰属して東条城にあった吉良義昭を攻めて追放し、亀千代を入城させた事績をもって東条松平の成立とみなす。しかしまた、始祖の義春と同名の人物が東条領を領した徴証もあり[5]、また義春の長子・甚二郎も東条吉良領饗庭を領し[6]、同家家老の松井忠次の父・忠直はもと東條吉良家臣とされ[7]、さらに忠次自身も東条領の饗庭(相場)小山田村を本貫とし、そこで出生したとされている[8]。そして、松平氏は勢力拡大の過程で足利将軍家の分家である東条吉良氏に接近し姻戚関係を結んで関係を深めようとした兆候が認められる。

系譜

[編集]
凡例
1) 実線は実子、点線は養子
2) 数字は家督継承順。

東条松平略系譜

[編集]
松平長親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信忠
松平宗家
親盛
福釜松平家
信定
桜井松平家
義春1利長
藤井松平家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甚二郎忠吉忠茂2
 
 
 
 
家忠3
 
 
 
 
忠吉4[* 1]

東条吉良系譜(参考)

[編集]

寛政重修諸家譜』や「養寿寺本吉良氏系図」等には、義春を東条吉良家の6代目に数える系図が見受けられる[9]。以下の系図は上矢田養寿寺系図を基本に作成、寛政譜にて持長・持助を補う。

吉良満義
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満貞一色有義東条吉良家
尊義1
岡山満康橋田満長
 
 
 
 
朝氏2
 
 
 
 
持長3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持助4頼高
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義藤5等康端東
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(松平)義春6持清
 
 
 
 
持清7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持広8荒川義広
 
 
 
 
義安9[* 2]
 
 
 
 

系図注

[編集]
  1. ^ 徳川家康四男
  2. ^ 吉良義尭・二男

脚注

[編集]
  1. ^ 林董一編『尾張藩家臣団の研究』(名著出版、1980年)128頁及び166頁。
  2. ^ 中村孝也『家康の族葉』(講談社、1965年)140頁
  3. ^ 鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞本社、1998年)81 - 82頁、この中で鈴木悦道氏は「義春が幼い吉良持清を後見した」とする見方を、更に義春の孫・家忠が東条城入城後にその様に言ったものであると説明。
  4. ^ 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)543頁。この中で筆者は「三河志」の碧海郡下青野村の条を引いて、義春の本拠地を碧海郡青野と推定
  5. ^ 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名』(平凡社、1981年)716頁。額田郡下六栗村(現・幸田町六栗)の項で同村が中世にははじめ吉良東条氏の支配下にあったが、その後松平義春の支配に移ったとして、その根拠文書として大永3年9月19日羽角馬頭天王宛寄進状(原典『幡豆郡神社誌』)を挙げる。この寄進状には、かつて幡豆郡に属した下六栗村花籠の地より永楽銭二十貫文を羽角馬頭天王社に進納する内容と実名「義春」の署名・花押がある。但し、姓氏の記載はない。
  6. ^ 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)547-548頁・所収文書、「岡崎城代山田隆景等連署血判起請文」(今川観泉寺文書)および同書の549-550頁の解釈文。
  7. ^ 新井白石(原著)『新編 藩翰譜 第二巻』人物往来社、1967年)松井氏の項、新井白石はこの冒頭に松井忠直を「東条家の家人」と指摘している。
  8. ^ 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第六』(続群書類従完成会、1984年)巻第三百七十三、松井称松平の康親の項。
  9. ^ 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第二』続群書類従完成会、1964年、『寛政譜』巻第九十二・吉良氏の項。「養寿寺本」は青山善太郎『西尾町史(上)』(国書刊行会、1988年、204頁)の平坂町上矢田・養寿寺所蔵「吉良氏系図」の義春の部分、所伝は「東條宮内少輔、号善念寺殿」とのみ註す。

参考文献

[編集]
  • 林董一編『尾張藩家臣団の研究』名著出版、1980年。
  • 中村孝也『家康の族葉』講談社、1965年。
  • 鈴木悦道『新版 吉良上野介中日新聞本社、1998年、ISBN 4-8062-0302-5 C0021.
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年。
  • 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名』平凡社、1981年、ISBN 4-582-49023-9
  • 新井白石(原著)『新編 藩翰譜 第二巻』人物往来社、1967年。
  • 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第六』続群書類従完成会、1984年。
  • 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第二』続群書類従完成会、1964年。
  • 青山善太郎『西尾町史(上)』国書刊行会、1988年、ISBN 9784336012449.