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小笠原安次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 安次[注釈 1]
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年(1533年
死没 天正10年9月25日1582年10月21日[2][3]
改名 広次、康次?[1]
別名 新九郎[1]
戒名 安泰院殿運忠玄勝大居士[2]
官位 丹波守[1]
主君 徳川家康
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原安元[3]
兄弟 安次、左大夫、安勝小笠原広重の妻[3]
松平好景の娘[注釈 2][1]
安広安勝[注釈 3]広勝牧野康成の妻、小笠原安芸の妻[注釈 4][4]
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小笠原 安次(おがさわら やすつぐ)[注釈 1]は、戦国時代から安土桃山時代武将

生涯

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信濃守護小笠原氏の傍流であるという三河国幡豆郡を治めた小笠原安元の子。幡豆小笠原氏は当初今川氏に従ったが、徳川家康が勃興するとその家臣となった[3]永禄12年(1569年掛川城の戦いでは父とともに袋井口の戦闘で活躍。程なく家督を継承し、元亀元年(1570年姉川の戦いに従軍した。その後家督を嫡男の安広に譲って隠居したが、元亀3年(1572年三方ヶ原の戦いで安広が戦死したため再び家康に仕えた[注釈 5][2][1]

天正2年(1574年高天神城の戦いに従軍。天正3年(1575年長篠の戦いでは妻の甥にあたる松平家忠の隊に所属。戦後は同族の小笠原信元とともに松平康親の守る諏訪原城に在番した。天正10年(1582年天正壬午の乱では後北条氏への備えとして松平康親らとともに駿河三枚橋城に移ったが、同年9月に伊豆三島での北条勢との戦いで戦死した。家督は安次と同じく駿河に在陣していた弟の広勝が継承した[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 実名を徳川家康の一字を賜って康次としたとする説もある[1]
  2. ^ 法名は実貞賢秀大姉。慶長7年6月16日1602年8月3日)没。安広広勝の生母[2][1]
  3. ^ 七郎右衛門安勝の異説として、名を安正とし、安次の従弟にあたるとするものがある[4]
  4. ^ 寛政重修諸家譜』は小笠原安芸守信元の妻を三浦備後守の娘とする[5]
  5. ^ 三方ヶ原の戦いでは安次嫡男の安広の他、叔父の広元を始め一門2人・家臣7人が戦死し。また安次の庶子とも従弟ともいわれる安勝も重傷を負って隠居している[6][4]

出典

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参考文献

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  • 幡豆町誌編集委員会 編『愛知県幡豆町誌』国書刊行会、1981年。 
  • 寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6