平家物語の内容
『平家物語』には多くの異本があるが、以下は現在最も流布する、覚一本系の高野本[1][2][3][4]の内容である。
巻第一
[編集]- 祇園精舎
- この有名な導入の後、桓武天皇にさかのぼる平清盛の先祖を紹介。
- 殿上闇打
- 長承元年 (1132年) 清盛の父平忠盛は昇殿を許された。殿上人たちがねたみ、闇打をたくらんだため、忠盛は短刀をちらつかせながら昇殿した。
其刀を召し出して叡覧あれば、うへは鞘巻の黒くぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける。
- 鱸
- 仁平3年 (1153年) 忠盛没。長男平清盛が36歳で家督を継ぐ。(保元の乱、平治の乱を経て)仁安2年 (1167年) 清盛は太政大臣となる。
- 禿髪
- 仁安3年 (1168年) 清盛出家。清盛の義弟時忠は言う。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし。」
- 吾身栄花
嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛 [注釈 1] 、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四位少将、全て一門の公卿16人 [注釈 2]
祇王廿一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひきむずび、念仏してこそゐたりけれ。
- 二代后
- 久安6年 (1150年) 藤原多子は11歳で近衛天皇の后になった。後白河天皇時代には実家にいたが、永暦元年 (1160年) 21歳で二条天皇の皇后としても召し出された。
- 額打論
- 永万元年 (1165年) 二条天皇没。その葬儀の額打の順番で延暦寺と興福寺が争う。
- 清水寺炎上
- 延暦寺は興福寺の末寺の清水寺に放火。
山門の大衆、すずろなる清水寺に押し寄せて、仏閣僧坊一宇も残さず焼き払ふ。
此君の位につかせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄花とぞ見えし。
- 殿下乗合
- 嘉応元年 (1169年) 後白河上皇出家。嘉応2年、重盛の次男平資盛の車が摂政藤原基房の車とすれちがった。資盛は下馬の礼を無視し、乱闘となる。後日清盛が報復を命令し[注釈 4]基房の一行を暴行(殿下乗合事件)。
- 鹿谷
- 承安元年 (1171年) 清盛の娘、平徳子が高倉天皇に入内。安元3年 (1177年) 平重盛と宗盛が左大将・右大将になった。先をこされた大納言藤原成親は、東山の鹿谷で義弟の西光法師(俗名藤原師光)らと、平家討伐をたくらむ(鹿ケ谷の陰謀)。
俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻しける。
- 俊寛沙汰 鵜川軍
- 「鹿谷の陰謀」が表に出るまでの経過が、次巻初頭まで続く。安元3年 (1177年) 西光の子藤原師経は、加賀守の代理として比叡山延暦寺の末寺鵜川に火をかけた。
- 願立
- 比叡山は師経の処罰を要求。
- 御輿振
- 比叡山の僧兵は御輿をかついで内裏に強訴し、内裏を守る平重盛軍と戦闘(嘉応の強訴)。
- 内裏炎上
- 樋口富小路から火が出て大内裏が炎上(安元の大火)。
巻第二
[編集]- 座主流
- 治承元年 (1177年) 比叡山の騒動の責任をとらされ、叡山座主の明雲が流罪。
- 一行阿闍梨之沙汰
- 叡山の僧兵は護送役人を襲い、明雲を奪還した。
- 西光被斬
- 鹿谷での陰謀が密告された[注釈 5]。西光の尋問と斬首。
やがて、「しやつが口をさけ」とて口をさかれ、五条西朱雀にしてきられにけり。
- 西光の義兄、藤原成親も逮捕。
- 小教訓
- 妹婿でもある清盛の長男重盛のとりなしで、成親の処刑は中止。
- 少将乞請
- 清盛の弟(忠盛の四男)平教盛の嘆願で、成親の子藤原成経も助命。
- 教訓状
- 黒幕と見なされた後白河法皇の幽閉を清盛が計画。重盛はそれを止める。
- 烽火之沙汰
- 重盛は兵を招集。これを見て清盛は法皇幽閉を断念。
- 大納言流罪
- 成親は備前の児島に流罪。
- 阿古屋之松
- 成親の子成経は備中に流罪。
- 大納言死去
- 成経はさらに薩摩の鬼界が島へ流された。平康頼、法勝寺の俊寛も同罪。父成親は備前で崖から落とされて暗殺された。
岸の二丈ばかりありける下に、ひしを植えて、うへよりつきおとし奉れば、ひしにつらぬかって、うせ給ひぬ。
- 徳大寺厳島詣
- 徳大寺藤原実定は平家が信仰する厳島に詣でた。清盛は感心して実定を左大将に昇進させた。
- 山門滅亡 堂衆合戦
- 比叡山の堂衆(下級僧)が学生(上級僧)と合戦し勝利。
- 山門滅亡
- 比叡山は荒廃。
- 善光寺炎上
- 信濃国の善光寺の由来と炎上。
- 康頼祝言
- 康頼と成経は鬼界が島で熊野詣のまねをしていた。
- 卒塔婆流
- 2人は卒塔婆を毎日海に流した。その1つが厳島で発見された。
- 蘇武
- 2人の卒塔婆は、漢の蘇武の雁札のようなものだ。
巻第三
[編集]- 赦文
- 治承2年 (1178年) 中宮徳子が懐妊。安産祈願のため成経と康頼を恩赦。ただし俊寛は赦免されない。
「鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師、赦免」とばかり書かれて、俊寛といふ文字はなし。
- 足摺
- 鬼界が島から本土に帰る舟にとりつく俊寛。
ともづなといておし出せば、僧都綱に取りつき、腰になり脇になり、たけの立つまではひかれて出づ。
- 御産
- 徳子は安徳天皇を生む。
- 公卿揃
- 誕生祝いに公卿がそろって清盛宅に挨拶。
- 大塔建立
- 平家が厳島神社を信仰しはじめたいわれ。
- 頼豪
- 昔白河天皇の皇子が生まれたとき、僧頼豪が怨霊になって皇子が死んだ挿話。
- 少将都帰
- 治承3年 (1179年) 成経と康頼は都へ帰った。
- 有王
- 俊寛の召使有王が、俊寛に会いに鬼界が島へいく。
- 僧都死去
- 俊寛はやせこけていたが、さらに断食をして死んだ[注釈 6]。
其庵のうちにて、遂にをはり給ひぬ。年三十七とぞ聞えし。
- 飈(つじかぜ)
- 都の竜巻で多くの家が倒れた[注釈 7]。
- 医師問答
- 清盛の長男、重盛が病死。
八月一日、臨終正念に住して、遂に失せ給ひぬ。御年四十三。
- 無文
- 重盛が病死する前に、長男の維盛に葬式用の無文の太刀を譲った。
- 燈炉之沙汰
- 重盛は東山に四十八間の阿弥陀堂を建立、燈籠の大臣と呼ばれた。
- 金渡
- 重盛は宋の育王山に三千両を寄進したことがあった。
- 法印問答
- 清盛が後白河院の悪行を静憲法印に語る。法印は人臣の礼からはずれないようにと忠告。
- 大臣流罪
- 清盛のクーデター。関白基房と太政大臣藤原師長を流罪(治承三年の政変)。
同十六日、入道相国、此日ごろ思ひ立ち給へる事なれば、関白殿を始め奉って、太政大臣以下の公卿殿上人、四十三人が官職をとどめて、追つ籠めらる。
巻第四
[編集]- 厳島御幸
- 治承4年 (1180年) 高倉天皇は譲位。安徳天皇が3歳で即位。
- 還御
- 高倉上皇は厳島御幸から帰る。安徳天皇の即位式。
- 源氏揃
- 以仁王は後白河法皇の三男。源頼政が謀反をもちかける(以仁王の挙兵)。
「太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや。」
- 鼬之沙汰
- 以仁王謀反の情報が清盛へ届く。
- 信連
- 以仁王の部下長谷部信連は、以仁王を女装させ高倉御所から逃がした。
- 競
- 清盛の次男、宗盛は源頼政の子源仲綱の馬を奪ったことがあった。それで仲綱の家来渡辺競は宗盛から白馬をだましとった。
- 山門牒状
- 以仁王が逃げ込んだ近江国園城寺(三井寺)から延暦寺に協力要請。
- 南都牒状
- 三井寺から奈良興福寺へも協力要請。
- 永僉議
- 三井寺は清盛邸を夜討ちする会議をし、京へ向かう。
- 大衆揃
- しかし夜明けになってしまい、夜討ちは中止。以仁王らは奈良へ向かう。
- 橋合戦
- 以仁王らは途中、宇治平等院で休息。そこを平知盛・重衡軍が攻める[注釈 8]。頼政は宇治橋の橋板をはずす。平家軍は、
先陣が「橋をひいたぞ、あやまちすな」とどよみけれども、後陣はこれを聞きつけず、われさきにとすすむほどに、先陣二百余騎、おしおとされ、水におぼれて流れけり。
- となった。
- 宮御最期
- 頼政も以仁王も戦死。
いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すじたちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御頸とられさせ給ひけり。
- 若宮出家
- 以仁王の子、若宮は出家を条件に助命。
- 通乗之沙汰
- 昔、通乗という名人相見がいたが、以仁王の人相見ははずれた。
- 鵼(ぬえ)
- 頼政は以前化け物の鵼を退治したことがあった。
頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞ似たりける。おそろしなんどもおろかなり。
- 三井寺炎上
- 三井寺は平重衡・忠度軍に攻められ炎上。
巻第五
[編集]治承四年六月三日、福原へ行幸あるべしとて、京中ひしめきあへり。
ある夜入道のふし給へるところに、一間にはばかる程の物の面いできて、のぞき奉る。
- 早馬
- 源頼朝謀反の連絡が早馬で来た。
去んぬる八月十七日、伊豆の国流人前兵衛佐頼朝、舅北条四郎時政を遣はして、伊豆国の目代、和泉判官兼隆を、やまきが館にて夜討ちに討ち給ひぬ。
- ただし頼朝は石橋山の戦いで敗北。
- 朝敵揃
- 日本の朝敵の歴史一覧。
- 咸陽宮
- 荊軻が秦の始皇帝暗殺に失敗した挿話。
- 文覚荒行
- 頼朝に謀反をそそのかした文覚上人とは何者か? 以後4話は文覚について。
- 勧進帳
- 文覚は神護寺の修繕を希望し、後白河法皇の前で勧進帳を読み上げた。
- 文覚被流
- 文覚は後白河の怒りを買い、伊豆に流された。
- 福原院宣
いまは源平のなかに、わとの程将軍の相持ったる人はなし。はやはや謀反おこして、日本国したがへ給へ。
- と頼朝をそそのかし、文覚は後白河法皇から平家討伐の院宣をもらってきた[注釈 9]。
- 富士川
- 富士川の戦い。平家軍の大将は重盛の長男維盛、副将は忠度。富士川をはさんで源氏軍と対峙したが、夜間戦わずに逃走。
その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん。ただ一度にばっと立ちける羽音の、大風いかづちなんどの様にきこえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。」
楯をわり、たい松にして、在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風ははげし、ほもとは一つなりけれども、吹きまよふ風に、おほくの伽藍に吹きかけたり。
巻第六
[編集]- 新院崩御
- 治承5年 (1181年) 高倉上皇崩御。
- 紅葉
- 高倉上皇が紅葉を愛した挿話。
- 葵前
- 高倉上皇の挿話2。少女葵前を愛し「しのぶれど いろに出でにけり」[注釈 10]の歌を送った。葵前は早世した。
- 小督
- 高倉上皇の挿話3。女房小督が愛され、徳子より先に子(皇女)を生んだ。それで清盛の怒りを買い尼になった。
- 廻文
さる程に其ころ信濃国に、木曾冠者義仲といふ源氏ありときこえけり。
思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそやすからね。
- と言い残し、清盛死去。享年64歳。
- 築島
- 清盛の挿話1。福原に経が島を作った。これはよいことだった。
- 慈心房
- 清盛の挿話2。清盛は延暦寺の慈恵僧正の生まれ変わりだと閻魔が言った。
- 祇園女御
- 清盛の挿話3。本当は白河院とその愛人祇園女御の子だという説。
- 嗄声
- 越後守城助長は義仲追討に出発しようとしたが、空からしわがれ声が聞こえて落馬し死んだ。
俄に身すくみ心ほれて落馬してんげり。輿にかき乗せ館へ帰り、うちふす事三時ばかりして遂に死ににけり。
巻第七
[編集]- 清水冠者
- 寿永2年 (1183年) 義仲は長男、清水冠者源義高を頼朝に人質に差し出し、頼朝と和睦。
- 北国下向
- 重盛の長男維盛ら6人を大将に、義仲討伐軍が出発。
- 竹生島詣
- 清盛の弟平経盛(忠盛の三男)の長男、平経正は琵琶湖の竹生島に参詣し、琵琶をひいて明神を感動させた。
- 火打合戦
- 越前国火打城の戦いで、堀を枯らして平維盛軍は勝利。
- 願書
- 義仲は砥波山の八幡神社に平家討伐の願書を奉納。
- 倶利伽羅落
- 倶利伽羅峠の戦い。夜に峠で義仲の軍勢はどっと鬨の声をあげる。平家はあわてて逃げ、
倶利伽羅が谷へわれ先にぞとおとしける。まっさきにすすんだる者が見えねば、「此谷の底に道のあるにこそ」とて、親おとせば子もおとし、兄おとせば弟もつづく。主おとせば家子郎等もおとしけり。
- となる。
- 篠原合戦
- 加賀国篠原の戦いでも平家は敗北。
- 実盛
- 平家軍のしんがり、斎藤実盛が討ち取られた。年は70を過ぎていたが、年寄りに見られないよう、白髪を黒く染めていた。
- 玄昉 [注釈 11]
- 奈良時代の玄昉僧正の挿話。彼は藤原広嗣の怨霊に殺された。
- 木曾山門牒状
- 義仲から比叡山へ、平家追討に協力してほしいと牒状を送る。
- 返牒
- 比叡山は義仲に味方する。
- 平家山門連署
- 平家からも比叡山に協力の要請をしたが、断られた。
- 主上都落
- 平家は都落ちを計画。後白河法皇は逐電。6歳の安徳天皇が都落ち。母の建礼門院と三種の神器も同行。
主上は今年六歳、いまだいとけなうましませば、なに心もなう召されけり。国母建礼門院御同輿に参らせ給ふ。
- 維盛都落
- 重盛の長男維盛は富士川と倶利伽羅で大敗して帰った。平家で唯一、妻子を京に残して都落ち。
- 聖主臨幸
- 御所の警備役だった畠山重能ら3人は、解放され東国へ帰った。
- 忠度都落
- 清盛の弟(忠盛の六男)薩摩守忠度は、文武両道の武士。都落ちするとき、藤原俊成に歌を託した。
- 経正都落
- 清盛の弟経盛(忠盛の三男)の長男経正は、名器の琵琶「青山」を仁和寺に返して都落ち。
- 青山之沙汰
- 琵琶「青山」は唐伝来で、平安時代初めから朝廷の宝で、仁和寺に預けられていた。
- 一門都落
- 頼朝はかつて池禅尼の懇願で救命されたことから、彼女の子である平頼盛(忠盛の五男)は、頼朝に助命されるはずと判断し、都に留まった。
- 福原落
- 平家一門は福原で一泊後、福原を焼いて船で退去。
寿永二年七月廿五日に平家都を落ちはてぬ。
巻第八
[編集]- 山門御幸
- 比叡山に逃げていた後白河法皇を義仲が守護し入京。平家追討の院宣。
同廿八日に法皇都へ還御なる。木曾五万余騎にて守護し奉る。
- 名虎
同八月十日、院の殿上にて除目おこなはる。木曾は左馬頭になって、越後国を給わる。
平家は、緒方三郎維義が三万余騎の勢にて既に寄すと聞えしかば、とる物もとりあへず太宰府をこそおち給へ。
- 緒方に攻められた平家は太宰府から撤退し、讃岐国の屋島へ行く。
- 征夷将軍院宣
- 頼朝が征夷大将軍の院宣を受けた[注釈 12]。
- 猫間
- 猫間中納言藤原光隆を義仲は「猫殿」と呼び、「猫の食べ残しですな」と無作法に接待。
「猫殿は小食にあはしけるや。きこゆる猫おろしし給ひたり。」
- 水島合戦
- 備中国の海戦水島の戦いで知盛・教経[注釈 13]の平家軍が義仲軍に勝った。
- 瀬尾最期
- 瀬尾兼康は、倶利伽羅の戦い以後、源氏の下で働いていたが裏切った。結局福隆寺縄手の戦いで殺された。
- 室山
- 播磨国室山の戦いで平知盛・重衡軍は源行家軍に勝利。
平家は室山、水島二ヶ度のいくさに勝ってこそ、いよいよ勢はつきにけれ。
- 鼓判官
- 養和の飢饉の影響もあり、義仲は京の治安維持に失敗。木曾勢は暴徒化。
凡そ京中には源氏みちみちて..(中略)人の倉をうちあけて物をとり、持ってとほる物をうばひとり、衣装をはぎとる。
「主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならうど思へども、童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白にならう。」
巻第九
[編集]- 生ずきの沙汰
其ころ鎌倉殿にいけずき、する墨といふ名馬あり。
そのまに佐々木はつっとはせぬいて、河へざっとうちいれたる(中略)。
いけずきといふ世一の馬には乗ったりけり、宇治河はやしといへども、一文字にざっとわたいて、むかへの岸にうちあがる。
去年信濃を出でしには五万余騎ときこえしに、今日四の宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。
- 木曾最期
おのれは、とうとう、女なれば、いづちへも行け。
- と義仲は巴と別れた。粟津の戦い。義仲と今井兼平の最期。
- 樋口被討罰
- 今井の兄樋口兼光は討ち死にをやめて降伏したが斬首。平家は一ノ谷(福原)を回復。
- 六ヶ度軍
- 中納言教盛(忠盛の四男)の次男、能登守平教経は、瀬戸内の海上戦で6度勝利。
- 三草勢揃
- 大手が源範頼、搦手が義経で、一ノ谷の戦いに出発。
- 三草合戦
- 三草山の戦いで義経は夜襲。
- 老馬
- 一ノ谷の裏山を、土地の者は、鹿なら通るという。
「鹿の通はんずる所を、馬の通らざるべきやうやある。」
- と義経は案内させた。
- 一二之懸
- 熊谷直実と平山季重は、搦手からさらに西の播磨路へ回り、先陣争い。
- 二度之懸
- 範頼が攻める大手(生田口)では、梶原景時は子の景季を求めて敵軍中を捜索し、救出した。
- 逆落
- 搦手の鵯越から義経の三千余騎[注釈 14]が逆落しで参戦。
それより下を見くだせば、大盤石の苔むしたるが、つるべおとしに十四五丈ぞくだったる。兵どもうしろへとってかへすべきやうもなし、又さきへおとすべしとも見えず。「ここぞ最後」と申してあきれてひかへたるところに、佐原十郎義連すすみいでて申しける..
猪俣、「まさなや、降人の頸かく様や候」。越中前司「さらばたすけん」
- 忠度最期
- 薩摩守忠度は清盛の弟(忠盛の六男)。殺されたとき、箙には辞世の歌が結ばれていた。
敵もみかたも是を聞いて、「あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。あったら大将軍を。」とて、涙をながし袖をぬらさぬはなかりけり。
- 重衡生捕
- 清盛の五男、三位中将重衡の馬が矢にやられた。換えの馬に乗る部下後藤盛長は、馬を渡さずに逃げた。重衡は生捕。
- 敦盛最期
- 平敦盛は清盛の弟経盛(忠盛の三男)の末子。
「さては、汝にあうては名乗るまいぞ[注釈 15]。 汝がためにはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取って人に問へ。見知らうずるぞ」
「いかなる親なれば、子の討たるるを助けずして、これまでは逃れ参って候ふやらん。」
泣く泣くはるかにかきくどき、「南無」ととなふる声共に、海にぞ沈み給ひける。
巻第十
[編集]- 首渡
- 多くの平家の首が京にさらされた。
- 内裏女房
- 三位中将重衡の引き回し。重衡は愛人の内裏女房と面会できた。
- 八島院宣
- 屋島へ院宣。三種の神器を返還すれば重衡を許すと。
- 請文
- 平家の棟梁、清盛の次男宗盛は、三種の神器の返還を拒否。
- 戒文
- 重衡は法然と面会し受戒。
- 海道下
- 重衡を鎌倉へ護送。
- 千手前
- 手越の長者の娘、千手前が派遣され、今様を歌い琵琶を弾き、重衡を一晩もてなす。
よはひ廿ばかりなる女房の、色白うきよげにて、まことに優にうつくしきが、目結の帷に染付の湯巻して、湯殿の戸をおしあけて参りたり。..
- 横笛
- 以後重盛の長男維盛の物語が6章段続く。維盛は屋島を出て高野山に行く。高野山の斎藤時頼(滝口入道)と横笛の挿話。
- 高野巻
- 維盛と滝口入道は高野山をめぐる。
- 維盛出家
- 維盛と2人の従者は出家。
- 熊野参詣
- 維盛らは熊野三山を参詣する。
- 維盛入水
- 維盛は那智の沖で入水。2人の従者も後を追う。
高声に念仏百返計となへつつ、南無と唱ふる声共に、海へぞ入り給ひける。
- 三日平氏
- 伊勢の三日平氏の乱を義経が平定[注釈 16]。
- 藤戸
- 源範頼軍と平資盛[注釈 17]軍が備前国で藤戸の戦い。佐々木盛綱は浅瀬を見つけて馬で渡って戦った。
- 大嘗会之沙汰
- 都では大嘗会。範頼は屋島へ追撃をしなかった。
参河守範頼、(中略)室、高砂にやすらひて、遊君遊女共召しあつめ、あそびたはぶれてのみ月日をおくられけり[注釈 18]。
巻第十一
[編集]夜もすがらはしる程に、三日にわたる処をただ三時ばかりにわたりけり。
- 勝浦 付大坂越
- 義経は阿波国から讃岐国へ一晩で移動。80騎ほどを大軍と見せかけて屋島の戦いを開始。
「さだめて大勢でぞ候らん。とりこめられてはかなふまじ。」
あやまたず扇の要際一寸ばかりを射て、ひふっとぞ射切ったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。
- 弓流
- 義経は弓を落とすが、命がけで拾い上げる。
「わう弱たる弓のかたきのとりもって、『これこそ源氏の九郎義経が弓よ』とて、嘲弄せんずるが口惜しければ、命にかへてとるぞかし。」
源平の国あらそひ、今日をかぎりとぞ見えたりける。
- 先帝身投
- もはやこれまでと、清盛の妻平時子は、孫、安徳天皇を抱いて入水。
其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って、千尋の底にぞ入り給ふ。
- 能登殿最期
- 安徳天皇の母徳子も入水するが、源氏方に助けられる。宗盛親子も浮いて源氏が助けた。教盛の次男能登守教経は
「われと思はん者どもは、寄って教経にくんでいけどりにせよ。」
- と言い、向かってきた源氏の武士2人を道連れに入水[注釈 20]。
- 内侍所都入
「見るべきほどの事は見つ。いまは自害せん。」
- と中納言知盛も入水。戦いは終わった。義経は草薙の剣を回収できなかった。
- 剣
- 草薙の剣の由来を解説。
- 一門大路渡
- 宗盛を筆頭に、生け捕りの平家が都に入り、引き回し。
同廿六日、平氏のいけどりども京へいる。みな八葉の車にてぞありける。前後の簾をあげ、左右の物見を開く。
- 鏡
- 神鏡の由来を解説。天照大神の形見。
- 文之沙汰
- 義経は平時忠の娘を妻にする。
- 副将被斬
- 賀茂の河原で宗盛の次男副将が切られた。
- 腰越
- 義経は宗盛親子をつれて鎌倉へ。ただし梶原の讒言で義経は腰越で止められ、鎌倉に入れてもらえない。
梶原さきだって鎌倉殿に申しけるは、「日本国は今はのこる所なうしたがひ奉り候。ただし御弟九郎大夫判官殿こそ、つひの御敵とは見えさせ給ひ候へ。」
- 大臣殿被斬
- 宗盛と長男清宗は近江国で切られた。
大臣殿念仏をとどめて、「右衛門督もすでにか」と宣ひけるこそ哀れなれ。公長うしろへ寄るかと見えしかば、頸はまへにぞ落ちにける。
- 重衡被斬
- 三位中将重衡は奈良で切られた。
高声に十念となへつつ、頸をのべてぞきらせられける。
巻第十二
[編集]- 大地震
- 京に大地震(翌月改元され文治地震と呼ばれる)。
- 紺掻之沙汰
- 今度は本物の源義朝(頼朝の父)の首ですと言って、文覚が頼朝に頭蓋骨を持ってきた。
- 平大納言被流
- 平時忠は能登に流刑。
- 土佐房被斬
- 土佐坊昌俊は頼朝の命令で義経を殺そうとしたが、逆に処刑された。
- 判官都落
- 頼朝は範頼に義経討伐を命じたが範頼は辞退。義経は都落ち。奥州へ向かう。
大物の浦より船に乗って下られけるが、折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける。吉野法師にせめられて、奈良へおつ。奈良法師に攻められて、又都へ帰り入り、北国にかかって、終に奥へぞ下られける。
- 以後の義経の記述は、覚一本平家物語にはない。
- 吉田大納言沙汰
- 文治の勅許で頼朝は守護地頭を置く。つまり東国の治安維持と収税を引き受けた。
- 六代
- 文治元年 (1185年) 清盛の嫡子重盛の嫡子維盛の嫡子六代(12歳)が見つかった。文覚の活躍で六代は危機一髪で助命。
「若公ゆるさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候。」とて、とり出して奉る。
- 泊瀬六代
- 文治2年 (1186年) 六代は長谷寺で家族と再会。
- 六代被斬
- 建久3年 (1192年) 後白河院没。正治元年 (1199年) 土御門天皇即位時の陰謀嫌疑で、文覚は隠岐国へ流罪。六代は結局死罪。屋代本などはこうして終わる。
それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ。
灌頂巻
[編集]建礼門院(平徳子)の後日談(この巻をまとめた事が覚一本系の特徴)。
- 女院出家
- 元暦2年 (1185年) 徳子は東山の吉田で出家(屋代本などではこの章は巻11)。
- 大原入
- 文治元年 (1185年) 地震があり、徳子は大原寂光院に移る。 (以後の章段は、屋代本などでは巻12)
- 大原御幸
- 文治2年 (1186年) 後白河法皇が寂光院を訪問[注釈 21]。
春過ぎ夏きたって、北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ御幸なる。
かぎりある御事なれば、建久二年きさらぎの中旬に、一期遂に終らせ給ひぬ。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この数え方は24歳で死んだ清盛の次男平基盛を飛ばしている。
- ^ これらは安元3年 (1177年) 以後のこと。
- ^ これは治承三年の政変後のこと。
- ^ 『愚管抄』によれば、この事件の報復を命じたのは、清盛ではなく重盛。
- ^ 「俊寛沙汰鵜川軍」から「一行阿闍梨之沙汰」に至る一連の事件と、鹿谷の陰謀との関係が、平家物語はわかりにくい。早川厚一や川合康の説は、清盛が後白河から比叡山攻めを命じられたため、それを拒否するために「鹿谷の陰謀」を捏造して、後白河院の側近を排除したとする。
- ^ 俊寛は鬼界が島でいつ死んだか、信頼できる資料はない。なぜ赦免されたのが2人だったのか、赦免時にすでに死んでいたとすれば自然に説明できる。
- ^ 『方丈記』や『明月記』によればこれは治承4年のこと。
- ^ 『玉葉』によれば重衡・維盛軍。
- ^ 頼朝は以仁王の宣旨を受けたが、後白河院の院宣をこの時受けた史実はない。
- ^ これは平兼盛の歌。
- ^ 市古貞次の編集では玄肪、岩波書店の編集では還亡。
- ^ 寿永二年十月宣旨は、徴税権など頼朝の東国支配を認めたもの。頼朝の征夷大将軍就任は1183年ではなく、1192年。
- ^ 『玉葉』によれば大将は重衡。
- ^ 『吾妻鏡』によれば70騎。
- ^ 当時身分が上の者が下の者に対して自ら名乗る必要はなかった。
- ^ この乱は平定までに3日ではなく1ヶ月余要した。平家物語の作者は三日平氏の乱 (鎌倉時代)と混同したのかもしれない。
- ^ 『吾妻鏡』によれば基盛の子平行盛。
- ^ これは範頼への酷評。『吾妻鏡』によれば範頼は屋島攻撃はしなかったが、葦屋浦の戦いをして九州を平定した。
- ^ 戦いの途中に潮の流れが変わったという記事は、平家物語にも、当時の他の記録にもない。
- ^ 『吾妻鏡』は教経は一ノ谷で戦死したと書いている。一方『玉葉』は首渡の時点で教経は現存と書く。
- ^ 平家物語のすべての巻に登場する唯一の人物が後白河法皇である。