藤原光隆
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時代 | 平安時代末期-鎌倉時代初期 |
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生誕 | 大治2年(1127年) |
死没 | 建仁元年8月1日(1201年8月30日) |
別名 | 猫間中納言 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家利基流 |
父母 | 父:藤原清隆、母:藤原家子(藤原家政の娘) |
兄弟 | 藤原清隆#系譜参照 |
妻 | 藤原信通の娘、藤原実兼の娘、源師頼の娘 |
子 | 雅隆、家隆、兼隆、清玄、平親国室、光子 |
藤原 光隆(ふじわら の みつたか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家利基流、権中納言・藤原清隆の長男。官位は正二位・権中納言。屋敷があった地名から壬生・猫間を号しており、「猫間中納言」と称された[1]。
『平家物語』巻八「猫間」においては、寿永2年(1183年)に源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲のやかたで光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに掻き込みなさい」などと責められて興醒めし、話をせずに帰った、というものである。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 長承2年(1133年)
- 長承3年(1134年)閏12月30日 - 淡路守
- 保延2年(1136年)4月7日 - 安芸守
- 保延4年(1138年)12月29日 - 出雲守
- 保延6年(1140年)10月29日 - 従五位上
- 永治元年(1141年)12月2日 - 左衛門佐を兼ねる
- 永治2年(1142年)2月2日 - 正五位下
- 康治2年(1143年)1月3日 - 従四位下
- 久安2年(1146年)12月29日 - 但馬守
- 久安3年(1147年)1月2日 - 従四位上
- 久安5年(1149年)2月13日 - 正四位下
- 久安6年(1150年)1月29日 - 備中守
- 久寿元年(1154年)12月28日 - 内蔵頭を兼ねる
- 保元2年(1157年)
- 平治元年(1159年)12月27日 - 平治の乱を起こした藤原信頼に縁座して解官される
- 永暦元年(1160年)
- 4月3日 - 治部卿に還任される
- 8月14日 - 従三位
- 長寛2年(1164年)
- 仁安元年(1166年)8月27日 - 参議
- 仁安2年(1167年)8月1日 - 権中納言
- 仁安3年(1168年)
- 1月6日 - 従二位
- 1月11日 - 権中納言を辞退
- 安元元年(1175年)1月4日 - 正二位
- 安元2年(1176年)1月30日 - 治部卿を退任
- 建久3年(1192年)10月26日 - 大宰権帥
- 建久9年(1198年)
- 1月30日 - 大宰権帥を退任
- 5月7日 - 出家