藤原行隆
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 大治5年(1130年) |
死没 | 文治3年3月17日(1187年4月27日) |
別名 | 葉室行隆 |
官位 | 正四位下、左大弁 |
主君 | 美福門院→二条天皇→安徳天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原顕時、母:藤原有業の娘 |
兄弟 | 行隆、盛方、盛隆、有隆、時光、顕運、道顕、藤原是憲室、領子 |
妻 | 美福門院女房越前(藤原行兼の娘) |
子 | 行房、行時、行長、信空、行方、葉室宗行、覚顕、源雅、重喜 |
藤原 行隆(ふじわら の ゆきたか)は、平安時代後期の貴族。葉室行隆とも呼称する。藤原北家勧修寺流、権中納言・藤原顕時の長男。官位は正四位下・左大弁。
経歴
[編集]初め中宮大進として美福門院に仕え、のちにその養子であった二条天皇に仕えて、永暦元年(1160年)五位蔵人、長寛3年(1165年)左少弁を歴任する。しかし、同年に二条天皇が崩御し、翌永万2年(1166年)二条親政派が瓦解すると行隆は解官されてしまい、以後長年に亘って不遇を託つ。
治承3年(1179年)に平清盛によるクーデター(治承三年の政変)が発生すると、右中弁・平親宗、右少弁・平基親と2名の弁官が解官されたことに伴って、清盛の推挙を受けて左少弁に還任するとともに、安徳天皇の五位蔵人となる(この経緯は平家物語の「行隆之沙汰」の段に詳しい)。その後は、治承5年(1181年)従四位下・権右中弁、寿永2年(1183年)右中弁、寿永3年(1184年)左中弁、元暦2年(1185年)正四位下・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。
この間、山城守を務めたほか、養和元年(1181年)には造東大寺長官に任ぜられ、平家の南都焼討によって焼失していた東大寺の復興を担当した。造東大寺大勧進職に就いた重源と協力し任務に当たったものの、事業の完成を見ることなく死去してしまったことから、重源は生前の行隆の尽力に報いるために、彼の遺族を東大寺領である備前国南北条荘の預所に任じている[1]。
文治2年(1186年)左大弁として弁官の筆頭に昇るも参議には任ぜられず、下僚の右大弁・九条光長が先に参議となっている。翌文治3年(1187年)3月17日卒去。享年58。最終官位は左大弁正四位下兼造東大寺長官。
官歴
[編集]『弁官補任』による。
- 時期不詳:従五位上。治部大輔。中宮権大進[2]
- 永暦元年(1160年) 10月4日:五位蔵人[2]
- 時期不詳:正五位上
- 長寛3年(1165年) 正月23日:権左少弁(依位次越右少弁長方)。6月25日:止蔵人。8月17日:左少弁
- 永万2年(1166年) 4月6日:解官
- 治承3年(1179年) 11月17日:左少弁(還任)。11月18日:五位蔵人
- 治承4年(1180年) 6月28日:兼山城守
- 治承5年(1181年) 6月26日:造東大寺長官。9月:被止山城国務。12月4日:従四位下、権右中弁、即山城守、還昇
- 寿永元年(1182年) 11月23日:従四位上
- 寿永2年(1183年) 12月10日:右中弁
- 寿永3年(1184年) 9月18日:左中弁
- 元暦2年(1185年) 正月20日:正四位下。12月29日:右大弁
- 文治2年(1186年) 12月15日:左大弁、造東大寺長官如元
- 文治3年(1187年) 3月17日:卒去(左大弁正四位下兼造東大寺長官)