九条光長
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 天養元年(1144年) |
死没 | 建久6年6月2日(1195年7月10日) |
別名 | 九条三位 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後白河院→近衛基実→松殿基房→九条兼実 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流九条家 |
父母 | 父:藤原光房、母:藤原俊忠の娘 |
兄弟 | 藤原信方、吉田経房、光長、隆遍、隆範、藤原定長、藤原為頼、藤原光綱、光慶、光玄、中山忠親室 |
妻 | 正室:藤原朝親の娘、 藤原俊経の娘 |
子 | 海住山長房、二条定高、藤原盛房、藤原宣房、長範、光遍、長信、女子、女子 |
九条 光長(くじょう みつなが)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、権右中弁・藤原光房の子。官位は正三位・参議。九条三位と号す。勧修寺流九条家の始祖。
経歴
[編集]皇嘉門院の乳母を務めた皇嘉門院御匣殿[1]の養子となった縁で女院に仕え、久安6年(1150年)7月に皇嘉門院判官代に任ぜられると、翌月には叙爵を受ける。その後、兵部権少輔、右衛門権佐などを歴任。兄・吉田経房や弟・藤原定長同様、後白河院の傍にあって実務官僚としての務めをよく果たしたが、光長の場合は摂関家の家司としての活動も顕著であり、近衛基実・松殿基房についで仕えた九条兼実には特に重用された。号として九条三位を許され、勧修寺流九条家の祖となっている。経房・定長と共に三事兼帯を果たしたが、三兄弟としてのそれは古今に例のない栄誉と賞賛された(『山槐記』元暦元年9月18日条)。その一方で、後白河院が秘かに弟の定長に対して「学問も人望も申し分は無いが、摂政(九条兼実)を重んじて自分を軽んじている」と不満を漏らしている(『玉葉』文治2年閏7月2日条)[2][3]。
文治元年(1185年)に蔵人頭に任ぜられると、翌2年(1186年)に参議に昇叙。この年兼実が摂政・藤氏長者となると執事別当と氏院別当を兼ねるた上、殿下渡領である備前国鹿田荘の預を務めた[3]。同4年(1188年)に従三位、建久6年(1195年)に正三位に昇叙。同年出家し、6月に薨去。
日記として『光長記』を残している。
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:藤原光房
- 母:藤原俊忠の娘
- 正室:藤原朝親の娘
- 男子:二条定高(1190年 - 1238年)
- 藤原俊経の娘
- 生母不詳の子女
- 次男:藤原盛房
- 男子:長範
- 男子:光遍
- 男子:長信
- 女子:葉室宗方室
- 女子:中山忠季室
脚注
[編集]- ^ 経歴は不詳だが、九条兼実も彼女に敬意を抱いており、没後21年目の法要を行っている(『玉葉』建久2年7月20日条)。宮崎康充は藤原俊忠の娘で藤原伊通の室になった後に離別された女性(すなわち光長の叔母)と推測している。
- ^ 『朝日日本歴史人物事典』
- ^ a b 『平安時代史事典』
出典
[編集]- 『新訂増補国史大系・尊卑分脉』吉川弘文館
- 『新訂増補国史大系・公卿補任』吉川弘文館
- 『増補史料大成 ・山槐記』臨川書店
- 奥田環「藤原光長」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P1465
- 関口力「藤原光長」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7) P2185
- 宮崎康充「皇嘉門院御匣殿と藤原光長」 小原仁 編『変革期の社会と九条兼実 『玉葉』をひらく』(勉誠出版、2018年) ISBN 978-4-585-22217-0