海住山長房
表示
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
---|---|
生誕 | 仁安3年(1168年) |
死没 | 仁治4年(1243年)1月16日 |
別名 | 海住山民部卿入道 |
官位 | 正三位、参議、正三位、民部卿 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流九条家 |
父母 | 父:九条光長、母:藤原俊経の娘 |
兄弟 | 長房、二条定高、藤原盛房、藤原宣房、長範、光遍、長信、女子、女子 |
子 | 二条定高、藤原宣通、藤原宣房、長全、女子(藤原資家の室、藤原資季の母)、女子、女子 |
海住山 長房(かいじゅうせん ながふさ)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての公卿。参議、正三位、民部卿。この在俗時代の名を藤原長房という。出家して海住山寺二世となり、海住山民部卿入道と号す。父は参議九条光長、母は参議藤原俊経の女。家は弟の二条定高が嗣いだ。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 治承3年(1179年)1月19日、大膳権亮に任ぜられる。
- 寿永2年(1183年)1月5日、従五位下に除される[1]。
- 元暦元年(1184年)12月20日、民部少輔に任ぜられる。
- 文治元年(1185年)12月29日、和泉守を兼ねる。
- 文治3年(1187年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 文治4年(1188年)10月14日、右衛門権佐に任ぜられる[2]。
- 建久元年(1190年)1月5日、正五位下に昇叙。同年4月16日、中宮大進を兼ねる。
- 建久2年(1191年)12月28日、蔵人に補される。
- 建久5年(1194年)9月17日、右少弁に任ぜられる[3]。
- 建久6年(1195年)6月2日、父の光長の喪に服す。同年7月28日、復任する。同年11月12日、蔵人と右衛門権佐を辞した。同年12月9日、左少弁に転任[4]。
- 建久9年(1198年)12月9日、右中弁に転任。
- 正治元年(1199年)9月23日、修理右宮城使を兼ねる。同年11月27日、従四位下に昇叙[5]。
- 正治2年(1200年)4月15日、春宮のもとへの昇殿を許される。
- 建仁元年(1201年)1月23日、従四位上に昇叙[6]。同年8月19日、左中弁に転任。
- 建仁2年(1202年)10月29日、蔵人頭に補される。同年閏10月24日、左宮城使を兼ねる。同年11月19日、正四位下に昇叙。
- 元久元年(1204年)4月12日、参議に任ぜられる。同年12月28日、従三位に昇叙。
- 元久2年(1205年)1月29日、近江権守を兼ねる。
- 承元3年(1209年)1月13日、参議を辞して民部卿に任ぜられる。同年2月5日、本座を許される。同年4月14日、正三位に昇叙。
- 承元4年(1210年)9月22日、解脱房貞慶を戒師として出家[7]。解脱房貞慶の後を継ぎ海住山寺二世慈心房覚真となる。
- 仁治4年(1243年)1月16日、寂す。享年75。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 臨時
- ^ 父の光長が参議右大弁を辞しての申任による。和泉守は元の如し。
- ^ 蔵人と右衛門権佐は元の如し
- ^ 同日、蔵人と右衛門権佐を兼ねたか。
- ^ 朝覲行幸時の院使による。
- ^ 朝覲行幸時の東宮御給。
- ^ 「解脱上人特集」中の「海住山寺二世慈心房覚真の在俗時代 - その一」(黒田彰子 愛知文教大学教授)
出典
[編集]- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
- 「解脱上人特集」中の「海住山寺二世慈心房覚真の在俗時代 - その一」(黒田彰子 愛知文教大学教授) http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k6.html