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大泉寛三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大泉寛三
おおいずみ かんぞう
生年月日 1894年9月4日
出生地 埼玉県
没年月日 (1981-02-04) 1981年2月4日(86歳没)
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 従四位
勲三等旭日中綬章
藍綬褒章
紺綬褒章

選挙区 旧埼玉1区
当選回数 3回
在任期間 1949年1月23日 - 1953年3月14日
1963年11月22日 - 1966年12月27日

選挙区 埼玉県選挙区
当選回数 1回
在任期間 1960年 - 1962年

当選回数 1回
在任期間 1947年4月 - 1948年12月
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大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年明治27年)9月4日[1] - 1981年昭和56年)2月4日[2])は、日本政治家衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。

経歴

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1917年、大泉工場(機械鉄鋼場)を創業。1921年、立憲政友会入党。

1940年10月、埼玉県立川口工業高等学校設備拡充費として1万円寄付により1941年9月13日紺綬褒章受章[3]。1941年12月、川口市役所備品として乗用車1台寄付により1942年4月28日紺綬褒章受章(飾版)[4]

1947年、埼玉県川口市長(第5代。公選制としては初代)。1949年の第24回衆議院議員総選挙埼玉1区民主自由党から立候補し、初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙落選。

1960年に長年、鋳造業に携わり発展に努め関係団体の要職に就いて業界の指導発展に寄与したとして藍綬褒章受章[5]。同年、大沢雄一第29回衆議院議員総選挙立候補に伴う第4回参議院議員通常選挙埼玉県地方区補欠選挙に立候補し、日本社会党瀬谷英行を破り、初当選[6]。1962年の第6回参議院議員通常選挙で、瀬谷に敗れ落選。

1963年の第30回衆議院議員総選挙当選。1964年、第3次池田改造内閣第1次佐藤内閣北海道開発政務次官を務める。1967年の第31回衆議院議員総選挙落選。同年の秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章[2]

1981年2月4日死去、86歳。死没日をもって従四位に叙される[7]

脚注

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  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、102頁。
  2. ^ a b 大泉 寛三」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B3%89%20%E5%AF%9B%E4%B8%89コトバンクより2022年12月18日閲覧 
  3. ^ 官報 1941年9月19日 五八四-五八五頁
  4. ^ 官報 1942年5月6日 一八四頁
  5. ^ 『官報』第10008号41-42頁 昭和35年5月4日号
  6. ^ 戦後の補欠選挙 Archived 2006年12月10日, at the Wayback Machine.
  7. ^ 『官報』第16212号13-14頁 昭和56年2月10日号
公職
先代
高石幸三郎
川口市旗埼玉県川口市長
1947年 - 1948年
次代
田中徳兵衛
議会
先代
苫米地英俊
日本の旗 参議院懲罰委員長
1961年-1962年
次代
辻武寿