河田賢治
河田賢治 かわだ けんじ | |
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生年月日 | 1900年1月1日 |
出生地 | 京都府与謝郡与謝野町 |
没年月日 | 1995年12月17日(95歳没) |
死没地 | 京都府京都市 |
出身校 | 東京工科学校(現・日本工業大学) |
前職 | 党京都府委員会委員長 |
所属政党 | 日本共産党 |
称号 | 党名誉役員・50年党員 |
選挙区 | 京都府選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1968年7月8日 - 1980年7月7日 |
選挙区 | 旧京都2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1951年2月19日 |
河田 賢治(かわだ けんじ、1900年1月1日 - 1995年12月17日)は日本の労働運動家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)、元参議院議員(同、通算2期)。日本共産党名誉幹部会委員。日本共産党設立時のメンバーでもある。「河賢」の愛称で親しまれた。
来歴
[編集]戦前
[編集]京都府与謝郡岩滝村(岩滝町を経て現在は与謝野町)出身。小学校卒業後の1912年には舞鶴海軍工廠に勤務、1917年には上京して富士電機や日本鉄工で働きながら、東京工科学校(現・日本工業大学)に通学。日本鉄工時代は友愛会東京鉄工組合支部に入り、労働運動に取り組むが、1921年に解雇される。
1922年からは日本労働総同盟(総同盟)関東同盟主事に就き、総同盟内の左派を纏め上げる存在となる。同年、日本共産党設立と同時に22歳で入党する[1]。1925年には日本労働組合評議会(評議会)中央委員に就任。 1927年には著作『大衆闘争と工場班』が発売禁止処分を受ける[2]。 1928年の三・一五事件にて検挙・投獄され、当初の懲役10年を超えて予防拘禁が長引いた末、1943年に出所。
戦後
[編集]郷里の京都で共産党の再建に尽力。共産党京都府委員長、党中央委員を務め[3]1949年の衆院選で京都2区から立候補し初当選、京都1区の谷口善太郎と共に、府初の共産党国会議員が誕生する。しかし、1951年に占領政策に反したとして逮捕状が出された。逮捕はされなかったが、公職追放(レッドパージ)となった。
その後、地下活動(いわゆる北京機関に所属していた時期もあった)を経て1957年公然活動に復帰し、翌年の第7回党大会後に開かれた京都府党会議にて府委員長に選出[4]。また、同年中央委員、1964年には日本共産党中央委員会幹部会員に就任する。この間、蜷川虎三の対抗馬として京都府知事選挙に出たこともある(共産党公認、落選)[5]。
1968年の参院選に京都府選挙区から出馬し初当選、京都地方区では初の共産党議員が生まれた。また、1974年の参院選でも勝利し、2期12年参議院議員を務めた。 1977年には参議院懲罰常任委員長に就任[3]。その後、1980年に引退を表明する。
1995年12月17日、老衰のため京都府京都市の病院にて死去。95歳。
脚注
[編集]- ^ 戦前、多くの不屈の青春があった2004年7月15日付「しんぶん赤旗」
- ^ 発売禁止に現れた出版界の傾向(一)『東京朝日新聞』昭和2年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p275 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ a b 河田賢治『出身県別 現代人物事典 西日本版』p375 サン・データ・システム 1980年
- ^ 京都府党のあゆみ 第二部 60年の歩み 第三章 第7回党大会と綱領確定による京都府党の前進日本共産党京都府委員会ウェブサイト
- ^ 蜷川は1950年に社会党公認、共産党なども参加する全京都民主戦線統一会議(民統)推薦で府知事に当選した。しかし3期目の選挙を控えた1958年、自民党と政策協定を結んだことから、共産党が別候補を立てて戦った。
参考文献
[編集]関連項目
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議会 | ||
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先代 江藤智 |
参議院懲罰委員長 1977年 - 1980年 |
次代 小澤太郎 |