足利国朝
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 元亀3年(1572年) |
死没 | 文禄2年2月1日(1593年3月3日) |
改名 | 乙若丸(幼名)→国朝 |
戒名 | 法常院殿球山良公あるいは就山成公法常院 |
墓所 | さくら市喜連川璉光院 |
官位 | 右兵衛督あるいは左兵衛督 |
氏族 | 足利氏(小弓公方) |
父母 | 父:足利頼純、母:佐野晴綱娘 |
兄弟 | 月桂院(豊臣秀吉側室)、瓊山法清尼(東慶寺19世)、国朝、頼氏 |
妻 | 正室:氏姫(足利義氏娘) |
足利 国朝(あしかが くにとも)は、安土桃山時代の武士。右兵衛督(『喜連川判鑑』)[1](『寛政重修諸家譜』では左兵衛督[2])。
『喜連川判鑑』では男性の関東公方家当主としては唯一、花押の記載がない[3]。
生涯
[編集]元亀3年(1572年)、足利頼純(頼淳)の嫡男として誕生する。母は佐野晴綱(大炊介)の娘[2]。童名は乙若丸[1][2]。
天正18年(1580年)、豊臣秀吉は関東を平定すると、名家の足利氏が断絶することを惜しみ、足利頼純に対して下野国喜連川の地に400貫の領地を与えた[4]。さらに翌年3月7日、秀吉は義氏の娘・足利氏姫(氏女)と、足利頼純の子の国朝の結婚を命じている[5]。
しかし、古河公方の跡取り娘と小弓公方を創始した離反者の孫という対立公方家間の政略結婚であったため、双方の家臣は自分たちが真の足利氏後継と考えていた[要出典]。そのため、国朝は秀吉から下野国喜連川の地に400貫の所領を与えられたが、氏姫たちは古河の鴻巣館で暮らし、のちの喜連川藩立藩の際にも喜連川には足を踏み入れなかったという。
文禄2年(1593年)2月1日、文禄の役に従軍して肥前国名護屋に赴く途上の安芸国海田で、病のために22歳で死去した。法常院殿球山良公(『喜連川判鑑』)[1](『寛政重修諸家譜』では就山成公法常院[2])。喜連川の璉光院に葬られた[2]。
秀吉の命により、氏姫を国朝の弟・頼氏の妻とした[6]。氏姫と頼氏の間に、義親が生まれている[6]。
諱について
[編集]諱の「国」(旧字体:國)、「朝」の両字は祖先にあたる河内源氏の人物が[7]使用したものに由来するとされる[要出典]。佐藤博信氏は、足利家国からの偏諱としている[8]。
脚注
[編集]- ^ a b c 古河市史編さん委員会 1981, p. 714.
- ^ a b c d e 寛政譜 1922, p. 432.
- ^ 塙 1925, p. 345.
- ^ 大野 1935.
- ^ さくら市 2008.
- ^ a b 古河市史編さん委員会 1981, p. 715.
- ^ 「国」は足利氏の創始者源義国などが、「朝」は源頼朝などが用いた。
- ^ 佐藤 2006.
参考文献
[編集]- 大野太平「喜連川頼氏の寄寓に就て」『房総郷土研究』2巻1号、1935年。
- 古河市史編さん委員会 編『古河市史』《資料 中世編》古河市、1981年3月31日 。(要登録)
- 佐藤博信「足利家国についての考察」『中世東国政治史論』、塙書房、2006年。
- さくら市史編纂委員会 編『喜連川町史』 第六巻 通史編Ⅰ、さくら市、2008年。
- 「巻第七十八 清和源氏 義家流 足利流 喜連川」『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日 。