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喜連川頼氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜連川 頼氏
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正8年(1580年
死没 寛永7年6月13日1630年7月22日
改名 龍王丸(幼名)→喜連川頼氏
別名 足利頼氏
戒名 凉山蔭公大樹院
墓所 龍光寺栃木県さくら市喜連川)
官位 左馬頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
下野国喜連川藩藩主
氏族 足利氏喜連川家
父母 父:足利頼純、母:佐野晴綱
兄弟 女子、月桂院豊臣秀吉側室)、瓊山法清尼、国朝頼氏
正室:足利義氏の娘・氏姫
義親、女子、女子(嶋田利木妻)、女子、頼厳
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喜連川 頼氏(きつれがわ よりうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士大名下野国喜連川藩初代藩主。左馬頭[1]

略歴

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天正8年(1580年)、足利頼純の次男として誕生した[1]。母は佐野晴綱(大炊介)の娘[1]。龍王丸[1]。祖父は、小弓公方足利義明[1]

文禄2年(1593年)2月、兄・国朝文禄の役のため九州に赴く途上、安芸国で病死する[1]。同3年(1594年)、上洛して豊臣秀吉に謁見し、遺領を継ぐこととなった[1]。このとき、国朝の室であった足利氏姫を娶った[1]

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると、10月20日から頼氏は関東十刹についての公帖を発給しはじめる[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、頼氏は会津の上杉景勝を押さえる結城秀康に従って本拠地の喜連川城に在陣し、その戦功を評価され、慶長7年徳川家康から1000石を加増された[3]

元和2年(1616年)正月の年頭御礼の際、頼氏の順番は国持大名と諸大夫の間に位置づけられており、太刀目録の進上については徳川国松松平忠直徳川御三家と同じ方法が用いられている[4]。喜連川藩の知行地はわずか5000石弱に過ぎなかったが、江戸幕府を開いた徳川家康から足利氏末流の名族として重んじられ、10万石並の国主格大名の待遇を受けた[要出典]。これに対し、泉正人は、頼氏が江戸幕府から那須衆の一員として位置づけられていたとしている[3]

寛永7年(1630年)6月13日、死去した[5]。51歳[5]。凉山蔭公大樹院と号す[5]龍光院に葬られた[5]

嫡孫・尊信が跡を継いだ[5]

龍光寺

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慶長6年(1601年)、父・頼純が死去した際、下野国の安国寺だった束勝寺に葬り、頼純の戒名「龍光院殿全山機公大禅定門」から「龍光院」と改称した[6]。以来、足利家(喜連川家)の菩提所と定めた[6]寺領50石[6]

系譜

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○出典:『寛政重修諸家譜[7]

父母

兄弟姉妹

子女

  • 義親 - 生母は氏姫
  • 女子 - 生母は氏姫
  • 女子 - 母は某氏。嶋田出雲守利木の妻
  • 女子 - 母は某氏
  • 頼厳 - 母は某氏。僧となり、下総国千葉寺の住職となる

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 寛政譜 1922, p. 432.
  2. ^ 斉藤 1987.
  3. ^ a b 泉 2010.
  4. ^ 阿部 2006.
  5. ^ a b c d e 寛政譜 1922, p. 433.
  6. ^ a b c 龍光寺”. 栃木県さくら市観光ナビ. 栃木県さくら市 産業経済部 商工観光課. 2024年12月7日閲覧。
  7. ^ 寛政譜 1922, pp. 432–433.

参考文献

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  • 阿部能久「喜連川家の誕生」『戦国期関東公方の研究』、思文閣出版、2006年。 
  • 泉正人「近世初期の喜連川家と徳川氏―関ヶ原の戦いを中心に―」『早実研究紀要』第44号、2010年。 
  • 斉藤司 著、信濃史学会 編「〔研究ノート〕喜連川家の公帖発給について」『信濃』第39巻、第3号、信濃史学会、68-73頁、1987年3月1日。ISSN 0288-6987https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6069929 (要無料登録要登録)
  • 巻第七十八 清和源氏 義家流 足利流 喜連川」『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/226 オープンアクセス

外部リンク

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