喜連川茂氏
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 |
元禄13年12月2日(1701年1月10日) ※異説あり |
死没 | 明和4年5月15日(1767年6月11日) |
改名 | 梅千代・松次郎(幼名)、茂氏 |
戒名 | 玄徳院殿恭山懿公大居士 |
墓所 | 栃木県さくら市の龍光寺 |
官位 | 左兵衛督 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 下野喜連川藩主 |
氏族 | 喜連川家 |
父母 | 父:喜連川氏春 |
妻 |
正室:松平忠喬の娘 継室:加藤泰恒の娘 |
子 | 梅千代、氏連、娘(前田長恭室)、娘(今川義泰室のち井上正延継室)、娘(山名豊暄正室) |
喜連川 茂氏(きつれがわ しげうじ)は、江戸時代中期の大名。下野喜連川藩の第5代藩主。
生涯
[編集]元禄13年(1700年)12月2日(もしくは元禄15年(1702年))、第4代藩主・喜連川氏春の長男として生まれる。享保2年(1717年)5月15日、徳川吉宗に御目見し、享保6年(1721年)に父が死去したため跡を継いだ。弓術に秀で、一寸の強弓を扱う事で知られた。宝暦7年(1757年)12月25日、次男の氏連に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)5月15日に死去した。
民政に尽力し、特に治安の安定によく努めたという。そのため、茂氏の治世のもとで喜連川藩は一度も盗賊が現れず、夜も戸締りの必要なしとまで謳われ、茂氏自身も「民政安定の名君」と称された。しかし晩年は子の氏連が先立って若死にするなど、不幸でもあったという。
系譜
[編集]父母
- 喜連川氏春(父)
正室、継室
子女
養女
- 玉淵尼 - 鎌倉東慶寺22世。1728年(享保13年)に高辻前中納言の娘が、東慶寺の住持になることを前提に入山したが、前例(喜連川尊信の娘の永山尼が21世)に倣い、一旦喜連川家の養女となってのち入山した。