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足利聡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
足利聡氏
時代 江戸時代末期 - 大正時代後期
生誕 安政4年4月13日1857年5月6日
死没 不詳[1]大正10年(1921年1月21日とも)
改名 延喜久(幼名)→足利聡氏→宮原聡氏
別名 喜連川聡氏
墓所 東京都台東区の台徳院正覚寺
官位 従五位下、左馬頭
幕府 江戸幕府
下野喜連川藩
氏族 足利氏宮原家喜連川家→宮原家)
父母 父:宮原義直
養父:足利(喜連川)縄氏宮原義路
うめ
宮原厳夫
養子:於菟丸
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足利 聡氏(あしかが さとうじ[1]/としうじ[1])は、幕末明治初期の大名下野喜連川藩の第12代(最後)の藩主・知藩事

生涯

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幕臣1400石高家職宮原摂津守義直の次男として江戸に生まれる。実母は宮原家の家女。明治2年(1869年)4月8日に先代足利(喜連川)縄氏の養嗣子となり、同年5月5日に縄氏が隠居したために家督を相続した。同年6月18日、従五位下・左馬頭に叙任する。版籍奉還に伴い、喜連川藩の知藩事に任ぜられる。

明治3年(1870年)7月18日に知藩事を返上、喜連川藩は日光県に合併された。同日に東京在住を命じられ、明治4年(1871年)2月5日に永世禄として現米193石を下賜された。

明治9年(1876年)9月3日に病のため隠居し、先代縄氏の長男の足利於菟丸を養嗣子として家督を譲る。同年9月25日、実家の宮原家へ復籍する。なお、隠居・離籍の本当の理由は、債務返済の行き詰まりのためであった。大正10年(1921年)1月21日に死亡、享年65。妻のうめは昭和17年(1943年)1月17日に死亡、享年71。宮原家の方の家督は実子の宮原巌夫が相続した。

系譜

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父母

正室

  • うめ

子女

養子

脚注

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参考文献

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聡氏の出自については以下の文献に記述がある。

  • 「華族明細短冊」(東京大学史料編纂所所蔵)には「実祖父従四位少将宮原故義周 元高家 実父宮原方斎義直 元高家」
  • 「下野喜連川足利家譜」(東京大学史料編纂所所蔵『栃木県史 史料編 近世4』1975年、同県に当主略譜のみ抄録)には「宮原弾正大弼義路養方ノ弟」
  • 平成新修旧華族家系大成』(1996年、霞会館)には「宮原方斎二男」とそれぞれ記述される。
  • 実父宮原義直については太田亮『姓氏家系大辞典 3』(1963年、角川書店)や『大日本人名辞書 4』(1887年初版、1974年講談社復刊)にも記述がある。
  • 養兄宮原義路については国立公文書館所蔵「明細短冊」(『江戸幕臣人名事典 4』所収)と岡部家所蔵「(岡部)系譜」と「(岡部豊常)親類書」(『京都町奉行日記 安政三年編』1995年、新人物往来社所収)に記述がある。