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喜連川昭氏

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喜連川 昭氏
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永19年10月24日1642年12月15日
死没 正徳3年11月12日1713年12月29日
改名 梅千代(幼名)、昭氏
戒名 令徳院殿孝山恭公大居士
墓所 龍光寺栃木県さくら市
官位 左馬頭左兵衛督
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉家宣家継
下野国喜連川藩
氏族 清和源氏義家流足利流[1]喜連川氏
父母 父:喜連川尊信、母:某氏
兄弟 女子(福原資敏妻)、女子(永山榮和尚)、女子(天野雄重妻)、昭氏氏信
正室:桜井松平忠倶の養女(織田信勝の娘)※忠倶の実の娘とも
菊千代、女子(喜連川氏春の正室)
養子:氏信氏春
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喜連川 昭氏(きつれがわ あきうじ、寛永19年(1642年)10月24日 - 正徳3年(1713年)11月12日)は、江戸時代前期〜中期の大名[2]下野国喜連川藩の第4代藩主[2][3]。梅千代、左馬頭左兵衛督[4]

生涯

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寛永19年(1642年)10月24日、第3代藩主・尊信の長男として生まれる[2][4]足利義昭で絶えた足利氏宗家(将軍家)を継承する者として、その1字をとって昭氏と名乗った[要出典]

正保4年(1647年)、藩の主導権をめぐって喜連川騒動が起こった。慶安元年(1648年)、父・尊信の隠居により7歳で跡を継ぐ[4]。慶安3年(1650年)、徳川家光の命により、榊原忠次(松平忠次)が後見となった[5]。正徳3年(1713年)11月12日に死去した[2][4]。享年72[2][4]。孝山恭公令徳院[4]

男児がいたが、早世し、養嗣子にした弟の氏信も早世したため、婿養子氏春が跡を継いだ[4]

系譜

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正室

養子

脚注

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参考文献

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  • 近藤瓶城 編『史籍集覧』 〔18〕 喜連川判鑑,みよしき、近藤活版所、1893年。doi:10.11501/769670全国書誌番号:40012260 オープンアクセス
  • 寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年。doi:10.11501/1082717全国書誌番号:21329090 オープンアクセス

外部リンク

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