コンテンツにスキップ

藤波家 (大中臣氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤波家
家紋
雪笹ゆきささ
本姓 大中臣朝臣嫡流
家祖 中臣常磐
種別 公家半家
華族子爵
出身地 伊勢国度会郡藤波
主な根拠地 伊勢国度会郡藤波
山城国平安京
東京市芝区白金台町
著名な人物 藤波教忠
藤波言忠
凡例 / Category:日本の氏族

藤波家(ふじなみけ)は、大中臣氏嫡流である公家華族の家。公家としての家格半家、華族としての家格は子爵[1]

概要

[編集]

欽明天皇から中臣連の賜姓を受けた中臣常磐を家祖とする[2]大中臣氏は代々伊勢祭主及び神祇大副を世襲した。江戸時代藤波種忠官位従五位下に留まり地下人に転落し、その子の藤波友忠は再び堂上家に復帰するが承応2年(1653年)に後光明天皇の勅勘を蒙り佐渡国流罪となった[3]。友忠の子の藤波景忠正二位神祇大副1647年 - 1727年)の代に家名を藤波に確定する。

子孫は引き続き伊勢祭主及び神祇大副を世襲する。

江戸時代の家禄は172[注釈 1]。他に祭主料666石余。幕末藤波教忠従二位神祇大副1823年 - 1891年)は、日米修好通商条約締結に反対し、「廷臣八十八卿列参事件」に参加した公卿の一人であった。

明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると藤波家も旧公家として華族に列した[4][5]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として言忠子爵位が授けられる[7]

言忠は侍従として明治天皇に仕えた他、新冠牧馬場および下総種畜場の御用掛となり、主馬頭を務めた。御厩制度の調査のために欧米にも出張し、日本の馬匹の飼養・改良に貢献した[8]。その功で従二位勲一等に叙せられた[9]

藤波子爵家の邸宅は東京市芝区白金台町にあった[9]

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の藤波家領は、山城国愛宕郡西賀茂村のうち13石1升9合、山城国葛野郡梅小路村のうち32石9斗6升、山城国乙訓郡鶏冠井村のうち90石、山城国紀伊郡吉祥院村のうち36石2斗であり、合計4村・172石1斗7升9合。
  2. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規はこの大納言直任の例があるかどうかで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[6]

出典

[編集]
  1. ^ 小田部雄次 2006, p. 335.
  2. ^ 『大中臣祭主 藤波家の歴史』1頁。
  3. ^ 佐渡市指定 民俗文化財:藤波友忠奉納絵馬[佐渡の文化財] (日本語) - 佐渡市産業観光部世界遺産推進課文化財室 2017年10月4日閲覧
  4. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  5. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  6. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  7. ^ 小田部雄次 2006, p. 325.
  8. ^ 藤波家」『世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6コトバンクより2022年11月16日閲覧 
  9. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 313.
  10. ^ 当初、梅渓通条の養子。後に千種有敬の養嗣子として千種家の名跡を相続。
  11. ^ 冷泉宗家の2男。
  12. ^ 広橋胤保の2男。
  13. ^ 松平茂昭の5男。

参考文献

[編集]
  • 藤波家文書研究会編『大中臣祭主 藤波家の歴史』続群書類従完成会、平成5年。
  • 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館2010年
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館1996年
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 

関連項目

[編集]