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竹内家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹内家
家紋
笹竜胆ささりんどう
本姓 清和源氏義光流平賀庶流
家祖 竹内氏治
種別 公家半家
華族子爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
東京府
著名な人物 竹内季治
竹内惟庸
支流、分家 垪和竹内氏武家士族
凡例 / Category:日本の氏族

竹内家(たけのうちけ / たけうちけ)は清和源氏平賀氏庶流公家華族の家。公家としての家格半家、華族としての家格は子爵[1]

概要

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いわゆる堂上源氏家系清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。大内惟信の系統である竹内信治左近将監)・氏治(竹内大夫)父子が竹内を称したのに始まる。家業弓箭和歌

文明18年(1486年)には竹内基治久我家領の摂津国大島荘の百姓達に対して書状を送っている。また基治は永正元年(1504年)8月10日に昇殿を許されて諸大夫層の筆頭となっており、中御門宣胤は「諸大夫昇進事、非普通儀」と反応している[2]

永正17年(1520年)5月22日に山城国久我荘の在地百姓である五郎左衛門が提出した起請文によると、何らかの不忠によって処刑されそうになった五郎左衛門を「少将」という人物の侘言のために助命されたという。大永6年(1526年)の「小寺有勝起請文」には「竹内少々殿」とあり、当時「少将」を称した竹内氏の人物がいたことがわかる[3]

天文14年(1545年)8月吉日の「竹内季治他四名連署起請文」には竹内宮内少輔季治源十郎一治の名前が見え、久我家の家僕として荘務をこなしていた竹内氏は久我荘内祭礼の神事頭役を(経済的な負担をして)担い千種祭に参加することで名主としての地位を確立することができたと考えられる[4]

久我家諸大夫だった氏治の子孫の正三位大膳大夫竹内季治1518年1571年)の時代、将軍・足利義輝執奏によって竹内家は堂上家に加えられた。しかし、季治は織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したために信長の逆鱗に触れ、元亀2年(1571年)9月18日に近江永原で斬首された[5]

竹内惟庸冷泉派の歌人で歌道の名人として知られた。その継嗣・惟永以後は冷泉家一門の藤谷家からの養子が続き、冷泉派和歌の家となった。

極位極官正三位非参議だったが、孝治(惟庸の祖父)、惟庸、惟永は特に従二位に叙されている。

江戸時代の家禄は187[注釈 1]

明治2年(1869年)6月17日1869年7月25日)に公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると竹内家も公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として治則子爵に叙位された[1]

系図

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脚注

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注釈

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  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の竹内家領は、山城国葛野郡梅小路村のうち72石6升、山城国乙訓郡樋爪村のうち11石2升7合、山城国乙訓郡大山崎庄のうち11石8斗、山城国乙訓郡石見上里村のうち45石8斗、山城国乙訓郡大原野村のうち10石2斗4升、山城国紀伊郡吉祥院村のうち9石4斗6升、山城国綴喜郡八幡庄27石6斗の計7村・187石9斗8升7合。
  2. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[6]

出典

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  1. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 333.
  2. ^ 井出麻衣子「永正年間の補任歴名について[1]
  3. ^ 平生遠「戦国期京郊公家領荘園にみる社会変容 : 山城国久我荘における家僕と土豪をめぐって[2]
  4. ^ 平生遠「戦国期京郊公家領荘園にみる社会変容 : 山城国久我荘における家僕と土豪をめぐって[3]
  5. ^ ガスパル・ヴィレラ著『耶蘇会士日本通信
  6. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  7. ^ 藤谷為茂の子。
  8. ^ 藤谷為脩の2男。

参考文献

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  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館2010年
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館1996年
  • 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版1994年