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毛利元倶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利元倶
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正13年(1585年[1]
死没 正保2年3月14日1645年4月10日[2]
別名 通称:忠三郎
官位 主膳正志摩守山城守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:天野元政、母:木梨隆盛の娘
兄弟 毛利元倶天野元以阿曽沼元理天野元雅天野就員天野元嘉毛利元宣正室、細川元董室、椙杜元周室、女(梅香寺専誉瑩)
宍戸元続の娘
元法秋里元平天野就常榎本就時正室
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毛利 元倶(もうり もととも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将長州藩の一門家老である右田毛利家の2代当主。父は毛利元就の七男である天野元政[1]

生涯

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天正13年(1585年)、毛利元就の七男である天野元政の子として生まれる。

寛永2年(1625年)、藩内の領地替えにより三丘から佐波郡右田に移る[1]。そのため右田毛利家と呼ばれ、宍戸家に次ぐ一門家老第二席の家格となる。元倶は藩主・毛利秀就に仕え、加判役、御国留守居を務めた。寛永5年(1628年)、領内に郷校時観園」を設立して学問を振興した。寛永12年(1635年)、家督を嫡男・元法に譲り隠居する。

正保2年(1645年3月14日に死去。享年61[2]

脚注

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参考文献

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  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション