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毛利宗広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利 宗広
時代 江戸時代中期
生誕 享保2年7月6日[1][2]1717年8月12日
死没 寛延4年2月4日1751年3月1日[1]
改名 百合助[1](幼名)、維広(初名)[1]、宗広
別名 大膳[1]、松平大膳[2]
戒名 観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士[1]、観光公[1]
墓所 山口県萩市桜江の大照院[1]
官位 従五位下大膳大夫[1]従四位下[1]侍従[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
長州藩
氏族 毛利氏
父母 毛利吉元[1][2]、永昌院[1]
兄弟 元朝(宗元)元陳宗広、皆姫、寧ら
松平宗昌娘勝姫[1]
齢、百合姫ら
重就[3]
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毛利 宗広(もうり むねひろ)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏20代当主。長州藩6代藩主。5代藩主・毛利吉元の五男[1][2]。正室は松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。は初め維広これひろ[1]、後に8代将軍徳川吉宗の諱を拝領して宗広に改名した[2]

経歴

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享保2年(1717年7月6日萩城で生まれる[1][2]。長兄で嫡子だった宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保12年(1727年)に松平大膳と称し、諱を維広とする[2]。同年、将軍・吉宗から偏諱を受け宗広と改名する[2]。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く[1][2]

その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中の出来事として、寛保2年江戸洪水の手伝い普請がある。

寛延4年(1751年2月4日、35歳で死去した[1]。世嗣となる男児がいなかったため、支藩である長府藩から重就末期養子として迎えられた。

系譜

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偏諱を受けた人物

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※死後
  • 毛利重(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 時山弥八編 1916, p. 100.
  2. ^ a b c d e f g h i 吉田 1976, p. 236.
  3. ^ 時山弥八編 1916, p. 101.

参考文献

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  • オープンアクセス時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/45 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961