大久保忠順
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おおくぼ ただより 大久保忠順 | |
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生誕 | 1857年5月19日 |
死没 | 1914年5月11日 |
墓地 | 目青不動教学院 |
国籍 | 日本 |
職業 | 貴族院議員、柔術家 |
流派 | 天神真楊流柔術 |
大久保 忠順(おおくぼ ただより、安政4年4月26日(1857年5月19日) - 大正3年(1914年)5月11日)は、江戸末期の大名、明治から大正期の日本の政治家、華族。勲等爵位は勲三等子爵。
烏山藩大久保家の9代目の当主で、下野烏山藩第8代(最後)藩主、同藩初代知藩事、烏山県初代知事、貴族院の子爵議員などを歴任した。
経歴
[編集]第7代藩主大久保忠美の長男。母は側室・原田きぬ。先妻は慈光寺有仲の娘。後妻は稲垣長明の娘。子は大久保忠春(長男)、大久保忠誠(次男)、大久保忠篤(三男)、大久保忠邦(四男)、桜井忠正(五男)、娘(諫早家興夫人のち森俊六郎夫人)
元治元年(1864年)、父の死去に伴い8歳で襲封する。明治元年(1868年)11月21日に従五位下・佐渡守の官位を与えられる[1]。明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる[1]。同年華族に列す。
明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い烏山県(現在の栃木県那須烏山市)知事となる。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[2]。1890年(明治23年)7月10日、貴族院子爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[4]。
大正3年(1914年)、58歳で没した。
栄典
[編集]家族
[編集]父母
妻
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (烏山)大久保家初代 1884年 - 1914年 |
次代 大久保忠春 |