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金相福 (軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金 相福
김 상복
生誕 1923年11月9日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮平安南道安州郡
所属組織  満洲国軍
大韓民国陸軍
軍歴 1944-1945(満洲国軍)
1946-1968(韓国陸軍)
最終階級 少尉(満洲国軍)
中将(韓国陸軍)
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金 相福(キム・サンボク、김상복1923年11月9日[1] - 不詳)は大韓民国の軍人。最終階級は陸軍中将。第3共和国体制で第17代参謀次長朝鮮語版、26代内務部次官、2代大統領政務首席秘書官朝鮮語版を務めた。カトリック教徒で洗礼名はヨセフ[2]

経歴

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平安南道安州出身。1944年に奉天医科大学中国語版(現・中国医科大学)卒業後、満洲国軍司薬少尉として終戦を迎える[3] 。帰国後、1946年3月23日付で軍事英語学校第1期卒業、任参尉(軍番10076番)。警備隊第1連隊医務部(部長・朴東均正尉)補佐官として勤務を開始する[4]

その後転科し、朝鮮戦争勃発時は陸軍本部調達監であったが、翌年前線に転じ[注釈 1]、1952年より第2砲兵団長[3][注釈 2]を経て、砲兵戦力の強化人員として「16人の砲兵将星」の一人に選抜され[注釈 3]、光州砲兵学校で3か月の基礎訓練を受けたのち米国に留学[7][8]、帰国後は第1軍団砲兵司令官朝鮮語版

停戦後は第20師団長第3師団長を歴任。国防部管理局長であった際、5・16軍事クーデターで軍を追われ、石油公社社長に就任したが、1か月で呼び戻されて米参謀大学に留学、1963年に第2訓練所所長第1軍団長第2軍団長を経て参謀次長に就任[5]。しかし数週間足らずで内務部次官、さらに大統領政務首席秘書官朝鮮語版に電撃抜擢される。青瓦台襲撃未遂事件を受け、郷土防衛・対スパイ作戦に長けた人材と見なされた事が背景とされる[3]

1971年より韓国電力公社社長、全経連理事、新東亜火災保険(現・ハンファ損害保険朝鮮語版 )会長を務めた。

年譜

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  • 1946年:軍事英語学校第1期卒業、任少尉。
  • 1950年5月1日:陸軍本部調達監
  • 1951年12月:第8師団附?
  • 1952年
    • 第2砲兵団長
    • 10月:光州砲兵学校入学
  • 1953年5月11日:第1軍団砲兵司令官(~1953年9月25日)[9]
  • 1954年10月1日:陸軍本部人事局長(~1955年7月15日)[10]
  • 1955年:第20師団長
  • 1956年:国防大学院入学(~1957年)
  • 1957年8月:第3師団長
  • 1959年6月2日:軍事発展局長
  • 時期不明:国防部管理局長(~1961)
  • 1961年
    • 5月[11]:失職、大韓石油公社社長
    • 6月[11]:復帰、少将
  • 1963年
  • 1964年8月[11]第1軍団長
  • 1965年2月26日:第2軍団長
  • 1966年7月18日:国防部管理次官補[13]
  • 1968年
    • 2月15日:参謀次長
    • 2月26日:予備役編入、内務部次官
  • 1969年4月12日:大統領府政務首席秘書官(~1971年7月9日)
  • 1971年7月22日:韓国電力社長
  • 1973年:新東亜火災保険会長

注釈

[編集]
  1. ^ 中央日報報道では第8師団の所属として854高地の戦闘に参加したとしている[5]が、戦史では参加は確認できない[6]
  2. ^ 現行の第2砲兵団は1983年設立。第1軍団隷下の第2野戦砲兵団(1952年3月25日創設、1953年7月27日解体)もしくは第2師団砲兵団の事か
  3. ^ 朴正煕大領(第2軍団砲兵団長 、大統領)、朴璟遠(第11砲兵団長、内務長官)・李奇建(第9砲兵団長、准将)、李明載(이명제、少将)、 宋錫夏(少将)、李昌禎(이창정、少将)、金永周(김영주、准将)、崔慶萬(中将)、朴炫洙(박현수、少将)、金東洙(第15砲兵団長、准将)、李春景(이춘경、第20砲兵団長、准将)、金相福(中将)、姜泰敏大領(第9師団砲兵団長、少将)、金東斌(第7師団砲兵団長、中将)、李喜権(이희권、第12師団砲兵団長、少将)、李白雨(이백우、第12砲兵団長、少将)の16人。

脚注

[編集]
  1. ^ 世界政経調査会 編『韓国・北朝鮮人名辞典 1979年版 /上』世界政経調査会、1980年3月、150頁。NDLJP:12170777/99 
  2. ^ “金(김) 내무차관 入敎(입교)” (朝鮮語). カトリック新聞. (1968年5月12日). https://www.catholictimes.org/article/202307110193139 2024年11月2日閲覧。 
  3. ^ a b c “内務部次板 金相福” (朝鮮語). 毎日経済新聞. (1968年2月29日). https://m.mk.co.kr/amp/46249 2024年11月2日閲覧。 
  4. ^ 白楊会 編『満州国陸軍軍医学校 : 五族の軍医団』白楊会、1980年5月、360頁。NDLJP:11933299/201 11933299/201 
  5. ^ a b “第17代参謀次長 金相福中将(“17대 참모차장 김상복 중장”)” (朝鮮語). 中央日報. (1968年2月16日). オリジナルの2022年4月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220421194926/https://www.joongang.co.kr/article/1151176 2016年4月24日閲覧。 
  6. ^ 韓國戰爭史第8巻 對陣中期(1952.4.1~1952.12.31)”. 韓国国防部軍史編纂研究所. pp. 84-94. 2022年11月2日閲覧。
  7. ^ “<865>老兵이 걸어온 길-115-포병장교 무더기 진급” (朝鮮語). 국방일보. (2008年11月27日). http://kookbang.dema.mil.kr/kookbangWeb/view.do?ntt_writ_date=20081127&parent_no=1&bbs_id=BBSMSTR_000000000228 2022年11月2日閲覧。 
  8. ^ “<866>老兵이 걸어온 길-116-미군의 반대를 뚫다” (朝鮮語). 국방일보. (2008年12月1日). http://kookbang.dema.mil.kr/kookbangWeb/view.do?ntt_writ_date=20081201&parent_no=1&bbs_id=BBSMSTR_000000000228 2022年11月2日閲覧。 
  9. ^ 김행복 (2005). 흥남철수작전. 국가보훈처. pp. 57 
  10. ^ 陸軍本部 1956, p. 284.
  11. ^ a b c d 世界政経調査会 1966, p. 53.
  12. ^ “金相福氏(韓電社長)” (朝鮮語). 毎日経済新聞. (1971年7月22日). https://m.mk.co.kr/amp/145723 2024年11月2日閲覧。 
  13. ^ “管理=金相福中将|軍需=朴重潤少将(관리=김상복 중장|군수=박중윤 소장)” (朝鮮語). 中央日報. (1966年7月18日). オリジナルの2016年5月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160506201538/http://news.joins.com/article/1061140 2024年11月28日閲覧。 

参考文献

[編集]
  • 世界政経調査会 編『韓国・北朝鮮人名辞典』世界政経調査会、1966年6月20日、53頁。NDLJP:2973356/31 
  • 陸軍本部 編纂 (1956). 六・二五事變 後方戰史(人事篇). 陸軍本部軍史監室 
軍職
先代
-
陸軍本部調達監
初代:1950.5.1 - 1951.12.9
次代
張好珍
先代
任忠植
陸軍本部人事局長
第14代:1954.10.1 - 1955.7.15
次代
金容培
先代
宋錫夏
第20師団長
第3代:1955.7 - 1956
次代
朴炫洙
先代
李喜権
第3師団長
第?代:1957.8 - 1959.6.2
次代
兪義濬
先代
不明
第2訓練所
第14代:1963.8 - 1964.8
次代
金炳徽
先代
李相喆
陸軍第1軍団軍団長
第17代:1964.8 - 1965.2.26
次代
沈興善
先代
李相喆
第2軍団長
第15代:1965.2.26 - 1966.7
次代
盧載鉉
先代
文亨泰
参謀次長朝鮮語版
第17代:1968.2.15 - 1968.2.26
次代
韓信
公職
先代
李養浩
大韓民国の旗 内務部次官
第26代:1968.2.28 - 1969.4.12
次代
朴英秀朝鮮語版
先代
金鶴烈(代理)
大韓民国の旗 大統領政務首席秘書官朝鮮語版
第2代:1969.4.12 - 1971.7.9
次代
洪性澈朝鮮語版
先代
金一煥
韓国電力公社社長
第5代:1971.7.22 - 1973.10
次代
閔忠植