金容培
金容培 | |
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生誕 |
1923年4月21日 日本統治下朝鮮京畿道京城府 |
死没 |
2006年3月13日(82歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
軍歴 |
少尉(日本陸軍) 大将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第1墓域32号 |
金容培 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김용배 |
発音: | キム・ヨンベ |
金 容培(キム・ヨンベ、김용배)は大韓民国の軍人、実業家。第17代陸軍参謀総長を務め大将に昇進した。太極武功勲章授与者。
人物
[編集]1923年4月21日、京城府に生まれる。1942年、京畿高等学校卒業。1944年、京城法学専門学校卒業。学徒出陣して日本陸軍少尉。
1946年3月23日付で軍事英語学校を卒業して少尉に任官(軍番10077番)[1]。第1連隊C中隊小隊長。以後、第7連隊や第13連隊に在任して中領まで昇進した。1949年1月15日、第1師団参謀長[2]。同年9月17日、第8師団第21連隊長[3]。
1950年1月から6月まで陸軍歩兵学校教育課程に入校。朝鮮戦争が勃発すると東海岸の戦闘、7月の遅滞作戦、釜山橋頭堡の戦いで勇戦。1950年10月、第3師団副師団長。
1951年1月、第7師団副師団長。中国人民志願軍の2月攻勢、キラー作戦、4月攻勢で師団長を補佐した。同年4月27日、陸軍本部作戦教育局要員。同年5月28日、第7師団長。6月の917高地争奪戦を指揮。8月、ヤンガルレ高地(732高地)を占領。以後、西南地区戦闘司令官、晋州地区衛戍司令官を歴任。
1952年3月、陸軍歩兵学校副校長。同年5月、陸軍本部人事局長。
1953年2月、第7師団長。前哨陣地争奪戦を展開した。
1954年6月から翌年までアメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。
1955年7月、陸軍本部人事局長。
1956年1月、金昌龍中将暗殺事件調査委員。同年9月、陸軍本部企画参謀副長。
1960年4月、第5軍団長。
1960年10月、陸軍本部情報参謀副長。
1961年1月、任中将。同年5月、陸軍士官学校長。
1962年、陸軍参謀次長。
1963年6月、第2軍司令官。
1965年4月、陸軍参謀総長、任大将。
1966年9月、予備役編入。
1967年1月、忠州肥料社長。
1968年、大韓重石鉱業社長。
1980年、国防部政策諮問。
叙勲
[編集]- 太極武功勲章 - 1953年8月27日
- 乙支武功勲章
- 忠武武功勲章
- 花郎武功勲章
- 保国勲章統一章
- 大統領表彰
- レジオン・オブ・メリット - 1954年5月13日[4]
尹泰鉉少領即決処分問題
[編集]1950年7月、金率いる第21連隊は江陵からの撤退後、慶尚北道の栄州邑・豊基面で防衛線を張り朝鮮人民軍第12師団との壮絶な戦闘を続けていた。このとき、独断撤退を繰り返したとして第1大隊長の尹泰鉉少領を軍法会議を経ることなく17日に銃殺した。 しかし、陸軍参謀総長による即決処分許可令が発動されたのは8日後の25日であり、したがって尹の処刑は合理的な根拠のないものであった。
当時、日本軍出身の金と光復軍出身の尹とは何かと摩擦が多く、処刑も怨恨によるものとの噂が流れたが、真相は定かではない[5]。
真実和解の為の過去史整理委員会による調査の結果、2008年に尹の名誉回復がなされ、国が正式に遺族に謝罪した[6]。
出典
[編集]- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、88頁。
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、211頁。
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、209頁。
- ^ “Kim Yong Bae”. Military Times. 2015年12月30日閲覧。
- ^ 6·25를 가로지르다
- ^ “韓国戦争の時「即決処分」尹泰鉉少領真実究明(“한국전쟁때 ‘즉결처분’ 윤태현 소령 진실규명 ”)”. ハンギョレ. (2008年11月27日) 2016年5月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
外部リンク
[編集]軍職 | ||
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先代 ? |
大韓民国陸軍西南地区戦闘司令官 第?代:1951.9.1 - 1952? |
次代 尹春根? |
先代 姜英勲 |
大韓民国陸軍士官学校校長 第16代:1961.5.22 - 1962.5.28 |
次代 朴重潤 |
先代 張昌國 |
大韓民国陸軍第2軍司令官 第7代:1963 - 1965 |
次代 朴璟遠 |
先代 閔キ植 |
大韓民国陸軍参謀総長 第17代:1965.4.1 - 1966.9.1 |
次代 金桂元 |