任忠植
任忠植 임충식 | |
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生誕 |
1922年4月23日 日本統治下朝鮮全羅南道海南郡 |
死没 |
1974年1月29日(51歳没) 大韓民国 |
所属組織 |
満州国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
准尉(満州国軍) 大将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院将軍第2墓域2号 |
任忠植 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 임충식 |
漢字: | 任忠植 |
発音: | イム・チュンシク |
日本語読み: | にん ちゅうしょく |
任 忠植(イム・チュンシク、임충식、1922年 - 1974年1月29日[1]または12月9日[2])は大韓民国の軍人、政治家。朝鮮戦争開戦時の第18連隊長。本貫は長興任氏[3]。創氏改名による日本名は石川貞吉[4]。
人物
[編集]1922年4月、全羅南道海南郡に生まれる。1936年、延吉中学校卒業。1941年、間島特設隊に入隊(特設隊3期生)[4]。歩兵第2連第1排中士班長[4]。
1946年2月、第4連隊に入隊し、6月に警備士官学校第1期卒業、任少尉(軍番121番)、第3連隊の創設に参加。
1948年6月、第6連隊大隊長。1949年3月、第12連隊長。1949年9月、太白山地区戦闘司令部参謀長。1949年11月に第18連隊長。1950年4月、歩兵学校に入校。
朝鮮戦争が勃発すると連隊長に復帰。第18連隊は議政府方面に投入され辛酸を嘗める。その後、平沢-鎮川-清州-報恩-義城道沿いに遅滞行動を展開した。1950年8月、大佐に昇進。杞渓・安康の戦いで勇戦。
1951年2月、第18連隊の配属が首都師団から第3師団に変更。同年4月、第7師団副師団長。同年6月、第2師団副師団長。
1952年9月、第7師団長。准将に昇進。
1953年8月、憲兵司令官。同年12月、陸軍本部人事局長。
1955年、第1師団長。
1956年11月、第2師団長。
1957年5月、第6軍団長。
1958年、国防大学院卒業。
1959年6月、陸軍本部軍需参謀次長[5]。同年10月1日、任少将[6]。
1960年1月、陸軍本部人事参謀副長。
1962年2月、任中将。同年3月、第5軍団長。
1963年12月、国防部人材次官補。
1965年4月、陸軍参謀次長。
1967年4月、合同参謀議長、任大将。
1968年8月、予備役編入。同年9月、国防部長官。
1974年、死去。
2008年4月28日に民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[7]。
勲章
[編集]- シルバースター - 1950年[8]
- 太極武功勲章 - 1953年5月20日
- レジオン・オブ・メリット - 1953年9月23日[9]
出典
[編集]- ^ “任忠植議員(임충식의원) 別世(별세)”. NAVER Newslibrary. 매일경제 (1974年1月30日). 2023年9月8日閲覧。
- ^ “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年9月8日閲覧。
- ^ “(122) 장흥임씨|「3정승 5판서」낸 고려의 명문” (朝鮮語). 중앙일보 (1984年10月20日). 2022年8月18日閲覧。
- ^ a b c 金 2008, p. 185.
- ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年6月3日) 2019年10月22日閲覧。
- ^ “國防部人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年10月1日) 2019年10月22日閲覧。
- ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日) 2018年10月1日閲覧。
- ^ “Chong Shik In”. Military Times. 2016年1月4日閲覧。
- ^ “Im Chung Sik”. Military Times. 2015年12月2日閲覧。
参考
[編集]公職 | ||
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先代 崔栄喜 |
大韓民国国防部長官 第17代:1968 - 1970 |
次代 丁來赫 |
軍職 | ||
先代 石主岩 |
大韓民国陸軍憲兵司令官 第11代:1953.8.18 - 1953.12.7 |
次代 宋孝淳 |
先代 張昌国 |
大韓民国軍合同参謀本部議長 第10代:1967 - 1968 |
次代 文亨泰 |