遠山政亮
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永2年(1625年) |
死没 | 元禄6年11月7日(1693年12月3日) |
改名 | 百助(幼名)、政亮 |
別名 | 頼直、内藤政亮 |
戒名 | 覚性院殿円心光山大居士 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の光明寺 |
官位 | 従五位下主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 陸奥湯長谷藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 | 父:内藤忠興、母:小山田氏娘・天光院殿 |
兄弟 | 内藤義概、美興、政亮、土方雄次正室、本堂親栄正室、武田信興正室 |
妻 | 正室:真田信政娘 |
子 | 養子:政徳、品川高寛娘 |
遠山 政亮(とおやま まさすけ)は、江戸時代前期の大名。陸奥国湯長谷藩(当初は湯本藩)初代藩主。別名頼直。官位は従五位下・主殿頭。
略歴
[編集]寛永2年(1625年)、陸奥磐城平藩の藩主・内藤忠興の三男として誕生。幼名は百助。寛文10年(1670年)12月、父の隠居の際1万石を分与されて湯本藩主となった。分家ののち、浅草寺知楽院別当(宣存?)の意見に従い「遠山」姓を名乗った。延宝4年(1676年)11月に居所を湯長谷に移したため、湯長谷藩主となる。
藩政においては、湯長谷陣屋の築城、そして城下町の建設に尽力した。延宝8年(1680年)には、増上寺で内藤忠勝による永井尚長殺害事件が起きた際に忠勝を拘束した[1]功績などを賞されて丹波国氷上郡などに新たに2000石を加増された。貞享4年(1687年)、大坂定番を命じられたことから河内国内に新たに3000石を与えられ、合計1万5000石を領することとなる。
元禄6年(1693年)11月7日、大坂定番在任中に死去。実子はなく、養嗣子・政徳(堀直行の次男)が跡を継いだ。
辛辣な大名批評で知られる『土芥寇讎記』では「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣を助け育て奢ることしない。誉れの将なり」と高評価されている。
系譜
[編集]父母
正室
- 真田信政の娘
養子、養女