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内藤政業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤政業
時代 江戸時代中期
生誕 元文5年(1740年
死没 文化8年3月29日1811年5月21日
改名 銀一郎(幼名)、政業
別名 亮長、葛山(号)
墓所 神奈川県鎌倉市の光明寺
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
陸奥湯長谷藩
氏族 内藤氏
父母 内藤政醇黒田直邦
兄弟 政業政勝
貞幹
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内藤 政業(ないとう まさのぶ)は、江戸時代中期の大名陸奥国湯長谷藩5代藩主。官位従五位下播磨守

略歴

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元文5年(1740年)、4代藩主・内藤政醇の長男として誕生[1]寛保元年(1741年)、父の死去により2歳で跡を継ぐ。宝暦5年(1755年)11月に徳川家重御目見し、宝暦6年(1756年)12月に叙任する。正室や実子がいないため宝暦11年(1761年)11月14日、養子・貞幹徳川宗直の六男)に家督を譲って隠居した。隠居した理由は不明である。

文化8年(1811年)3月29日、死去[2]。一説には明和6年(1769年)に死去したとも。

系譜

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父母

養子

脚注

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  1. ^ 内藤政業』 - コトバンク
  2. ^ 徳川実紀 第七編』(経済雑誌社、1904年)p.69