内藤政広
表示
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 明和7年(1770年)[1] |
死没 | 天明7年9月13日[1](1787年10月23日) |
改名 | 雅之進(幼名)、政広 |
戒名 | 顕明院殿端光玉山大居士 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の光明寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 陸奥湯長谷藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 | 内藤貞幹、土方雄端娘 |
兄弟 | 政為、政広、政吉、政偏、長谷川勝浮正室 |
子 | 政偏 |
内藤 政広(ないとう まさひろ)は、江戸時代中期の大名。陸奥国湯長谷藩7代藩主[1]。
略歴
[編集]明和7年(1770年)、6代藩主・内藤貞幹の次男として誕生[1]。長兄・政為が病弱を理由に廃嫡されたため世子となる。安永7年(1778年)、父の死去で跡を継いだ。天明2年(1782年)より天明の大飢饉が発生し領内で多数の死者を出した[1]。
天明7年(1787年)9月13日、18歳で死去した[1]。実子はなく、弟・政偏が養子となって跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
養子
- 内藤政偏 ー 実弟