第百七十六号哨戒特務艇
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第百七十六号哨戒特務艇 | |
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基本情報 | |
建造所 |
船体:徳島合同造船 兵装艤装:呉海軍工廠 |
運用者 |
大日本帝国海軍 第二復員省/復員庁 |
艦種 |
特務艇(1945年5月) 掃海艦(1945年12月) |
級名 | 第一号型哨戒特務艇 |
建造費 | 1,350,000円(予算成立時の価格) |
艦歴 | |
計画 | マル戦計画 |
竣工 | 不明、1945年8月17日船体工程100%で工事中止[注釈 1] |
最期 | 1946年4月18日遭難擱坐 |
除籍 | 1946年8月20日(復員庁) |
その後 | 1947年11月22日解体指令 |
改名 |
第百七十六号哨戒特務艇(1944年11月) 哨特第百七十六号(1945年12月) |
要目(哨戒特務艇・計画時) | |
基準排水量 | 238トン |
水線長 | 28.50m |
水線幅 | 6.14m |
吃水 | 2.35m |
機関 | 400型中速ディーゼル1基、1軸 |
出力 | 400bhp |
速力 | 9.0ノット |
燃料 | 重油26トン |
航続距離 | 8ノットで4,000カイリ |
乗員 | 34名 |
兵装 |
25mm機銃 連装1基、単装2基 12センチ噴進砲2門 爆雷12個、魚雷落射機2基 |
搭載艇 | 短艇1隻 |
レーダー | 13号電探1基 |
ソナー | 三式水中探信儀三型1基 |
第百七十六号哨戒特務艇[注釈 2](だいひゃくななじゅうろくごうしょうかいとくむてい)は、日本海軍の未成特務艇(哨戒特務艇)。第一号型哨戒特務艇の70番艇。太平洋戦争後に掃海艦として就役したが、掃海作業中に遭難した。
艇歴
[編集]マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の176番艇、仮称艦名第2296号艦として計画。1945年5月5日、第百七十六号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の70番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年5月31日、船体概成により徳島合同造船株式会社から呉海軍工廠へ引き渡し。
終戦時は呉で兵装艤装中。8月17日、工事中止が発令された。本艇は後述するとおり第二復員省の掃海艦となったが、工事を再開した建造所と竣工年月日は、いずれも不明。
1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐世保支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百七十六号としている。
1946年4月18日、下関市吉見沖で掃海作業中、荒天に遭遇し擱坐した。同日、同じ場所で哨特第百三十七号も座礁し、こちらは同地で放棄されている。その後哨特第百七十六号は林兼重工業彦島造船所へ移送されたが、部品取りとして使用され行動を再開することは無かった。5月10日、佐世保支部から除かれ、呉地方復員局掃海部下関支部所属に改められる。
1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。8月20日、哨特第百七十六号は下関掃海部から削除され、掃海艦の定めを解かれた。
1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
脚注
[編集]- 注釈
- ^ 進捗率は福井静夫『昭和軍艦概史III』 p. 66による。ただし、同ページには「ごく大体のもの」と注意書きが添えられている。
- ^ 本来の艇名表記は第百七十六號哨戒特務艇(1945年12月1日以降は哨特第百七十六號)。
- 脚注
参考文献
[編集]- 海軍省、第二復員省、復員庁
- 昭和20年5月5日付 達第97号、内令第381号、内令第389号。
- 昭和20年12月1日付 内令第5号、内令第7号。
- 昭和21年5月10日付 内令第66号。
- 昭和21年6月15日付 復二第5号。
- 昭和21年8月20日付 復二第182号、復二第183号。
- 昭和22年2月1日付 復員庁第二復員局総務部 二復総第49号。
- 在東京アメリカ極東海軍司令部
- 1947年11月22日付 残存舊日本海軍行動不能艦艇(第二復員局保管)ニ關スル件。
- (a) 解撤スベキ艦船ノリスト。
- (b) 民需用トシテ内務省ヘ引渡スベキ艦艇ノリスト。
- 1947年11月22日付 残存舊日本海軍行動不能艦艇(第二復員局保管)ニ關スル件。
- 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
- 福井静夫 『昭和軍艦概史III 終戦と帝国艦艇 -わが海軍の終焉と艦艇の帰趨-』、出版共同社、1961年。
- 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第88巻 『海軍軍戦備(2) -開戦以後-』、朝雲新聞社、1975年。
- 丸スペシャル No. 49 日本海軍艦艇シリーズ 『駆潜艇・哨戒艇』、潮書房、1981年。