川又昂
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(川又昴から転送)
かわまた たかし 川又 昻 | |||||||||||
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『キネマ旬報』1961年2月下旬号より | |||||||||||
生年月日 | 1926年7月3日 | ||||||||||
没年月日 | 2019年10月5日(93歳没) | ||||||||||
出生地 | 東京府東京市下谷区 | ||||||||||
出身地 | 日本・茨城県水戸市 | ||||||||||
死没地 | 日本・神奈川県藤沢市 | ||||||||||
職業 | 撮影監督 | ||||||||||
活動期間 | 1945年 - 1993年 | ||||||||||
事務所 | 松竹 | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『青春残酷物語』 『太陽の墓場』 『ゼロの焦点』 『影の車』 『砂の器』 『八つ墓村』 『事件』 『鬼畜』 『黒い雨』 | |||||||||||
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川又 昻(かわまた たかし、1926年7月3日[1] - 2019年10月5日[2])は、日本の撮影監督。日本映画撮影監督協会(J.S.C.)元・副理事長・名誉会員[3]。
川又昂と正字体で表記されることもあるが、戸籍上の氏名は川又昻である。川又昴(すばる)の表記は明らかな間違いである。
経歴
[編集]茨城県水戸市出身[2]。茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、日本映画学校卒業。1945年松竹に入社[1]。
松竹大船撮影所で小津安二郎作品の撮影助手を経て、33歳で撮影監督に抜擢される[4]。
以降、同世代の大島渚、野村芳太郎監督らのコンビで98本に及ぶ作品で撮影監督を務める。新人の頃、スター女優・原節子に付けられたあだ名は「訛りの坊や」[4]。
代表作には、『青春残酷物語』『拝啓天皇陛下様 』『砂の器』『八つ墓村』『震える舌』『疑惑』。日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞した『事件』『鬼畜』『黒い雨』など多数。
2010年に公開された大島渚監督の半生を描いたドキュメンタリー映画『THE OSHIMA GANG』では出演をしている。
2019年10月5日、多臓器不全のため藤沢市内の病院で死去。93歳没[2]。
撮影作品
[編集]※太字は日本アカデミー賞撮影賞受賞作。★印は大島渚監督作品。☆印は野村芳太郎監督作品。
1940~50年代
[編集]- 長屋紳士録 (1947年)
- 風の中の牝雞 (1948年)
- 晩春 (1949年)
- 麦秋 (1951年)
- お茶漬の味 (1952年)
- 東京物語 (1953年)
- 早春 (1956年)
- 東京暮色 (1957年)
- 彼岸花 (1958年)
1960年代
[編集]- 銀座のお兄ちゃん挑戦す (1960年)☆
- 彼女だけが知っている (1960年)
- 黄色いさくらんぼ (1960年)☆
- 死者との結婚 (1960年)
- 青春残酷物語 (1960年)★
- 太陽の墓場 (1960年)★
- 最後の切札 (1960年)☆
- 日本の夜と霧 (1960年)★
- ゼロの焦点 (1961年)☆
- 図々しい奴 (1961年)
- 恋の画集 (1961年)☆
- 背徳のメス (1961年)☆
- 春の山脈 (1962年)☆
- からみ合い (1962年)
- 左ききの狙撃者 東京湾 (1962年)☆
- あの橋の畔で 第1部 (1962年)☆
- あの橋の畔で 第2部 (1962年)☆
- 裸体 (1962年)
- あの橋の畔で 第3部 (1963年)☆
- 拝啓天皇陛下様 (1963年)☆
- あの橋の畔で 完結篇 (1963年)☆
- 続・拝啓天皇陛下様 (1964年)☆
- 拝啓総理大臣様 (1964年)☆
- 五瓣の椿 (1964年)☆
- ウナ・セラ・ディ東京 (1965年)
- 素敵な今晩わ (1965年)☆
- ユンボギの日記 (1965年)★
- 望郷と掟 (1966年)☆
- 炎と掟 (1966年)
- 暖流 (1966年)☆
- おはなはん (1966年)☆ - テレビドラマの映画化版
- 命果てる日まで (1966年)☆
- あゝ君が愛 (1967年)☆
- 春日和 (1967年)
- 女の一生 (1967年)☆
- 男なら振りむくな (1967年)☆
- 夜明けの二人 (1968年)☆
- こわしや甚六 (1968年)
- 白昼堂々 (1968年)☆
- コント55号と水前寺清子の神様の恋人 (1968年)☆
- 黒薔薇の館 (1969年)
- でっかいでっかい野郎 (1969年)☆
- ひばり・橋の 花と喧嘩 (1969年)☆
- ワン.ツー.パンチ 三百六十五歩のマーチ (1969年)☆
- チンチン55号ぶっ飛ばせ!出発進行 (1969年)☆
1970年代
[編集]- 影の車 (1970年)☆
- こちら55号 応答せよ!危機百発 (1970年)☆
- なにがなんでも為五郎 (1970年)☆
- コント55号と水前寺清子の大勝負 (1970年)☆
- 花も実もある為五郎 (1971年)☆
- コント55号とミーコの絶体絶命 (1971年)☆
- 初笑いびっくり武士道 (1972年)☆
- 辻が花 (1972年)
- 同棲時代-今日子と次郎- (1973年)
- 喜劇 男の泣きどころ (1973年)
- 新・同棲時代-愛のくらし- (1973年)
- しなの川 (1973年)☆
- ダメおやじ (1973年)☆
- しあわせの一番星 (1974年)
- 東京ド真ン中 (1974年)☆
- 砂の器 (1974年)☆
- 想い出のかたすみに (1975年)
- 昭和枯れすすき (1975年)☆
- 友情 (1975年)
- 錆びた炎 (1977年)
- 八つ墓村 (1977年)☆
- 夜が崩れた (1978年)
- 事件 (1978年)☆
- 鬼畜 (1978年)☆
- 俺は上野のプレスリー(1978年)
- 配達されない三通の手紙 (1979年)☆
1980年以降
[編集]受賞歴
[編集]- 1960年 第4回三浦賞:『太陽の墓場』
- 1978年 第33回毎日映画コンクール:撮影賞『事件』『鬼畜』
- 1979年 第2回日本アカデミー賞:最優秀技術賞(撮影)『事件』『鬼畜』
- 1990年 第13回日本アカデミー賞:最優秀撮影賞『黒い雨』
- 1991年紫綬褒章
参考文献
[編集]- 川又武久『キャメラを振り回した男 撮影監督・川又昻の仕事』ボイジャー(原著2010-12-1)。ISBN 978-4862390592。
脚注
[編集]- ^ a b 『[//kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E5%8F%88%0A%E6%98%BB 川又 昻]』 - コトバンク
- ^ a b c “撮影監督の川又昻さんが死去 「砂の器」や「黒い雨」”. 共同通信社. (2019年10月7日) 2019年10月7日閲覧。
- ^ “日本映画撮影監督協会メンバーリスト”. J.S.C. (2012年5月12日). 2013年4月7日閲覧。
- ^ a b c “タウンニュース藤沢版『川又 昻(たかし)さん 』”. タウンニュース社 (2009年8月21日). 2013年4月7日閲覧。
- ^ 「91年春の褒章 晴れの受章835人 女性は兼高かおるさんら64人」『読売新聞』1991年4月28日朝刊
- ^ “川又昂”. 日本映画データベース. 2013年4月7日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 川又昻 - 日本映画データベース
- 川又昻 - allcinema
- 川又昻 - KINENOTE
- Takashi Kawamata - IMDb