品川高如
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長17年(1612年) |
死没 | 寛文11年4月20日(1671年5月28日) |
別名 | 新太郎、内膳(通称) |
戒名 | 晴山 |
墓所 | 万昌院 |
官位 | 従四位上侍従、内膳正、式部大輔 |
幕府 | 江戸幕府高家 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
氏族 | 清和源氏足利氏流今川氏庶流品川家 |
父母 | 父:品川高久、母:鷲尾筑後娘 |
兄弟 | 高如、八木九郎右衛門室、高寛、岡山弥清室 |
妻 |
正室:松平勝隆養女 継室:青木利長娘(増山正利姉) |
子 |
松平重治 養子:伊氏 |
品川 高如(しながわ たかゆき)は、江戸時代前期の高家旗本。
生涯
[編集]旗本品川高久の長男として生まれる。
寛永元年(1624年)、13歳で将軍徳川家光に御目見する。寛永16年(1639年)閏11月7日、父高久の死去により、家督を相続し、表高家に列する。正保元年(1644年)4月10日に高家職に就任し、12月29日に従四位下・内膳正に叙任する。正保3年(1646年)12月晦日、侍従となる。
慶安元年(1648年)、閏正月28日に仁和寺宮覚深法親王が他界したため、仙洞への御使を務める。慶安3年(1650年)9月3日に西丸高家に転任し、翌年に高家に戻る。寛文3年(1663年)4月には徳川家綱の日光東照宮参詣に供奉する。寛文9年(1669年)11月、鷹司房子の入内に際し松平定房の副使として入洛する。12月23日に従四位に昇った。
寛文11年(1671年)4月25日死去、60歳。
本家の今川家は、今川直房の没後、短命の当主が続き、高家職に登用されなかった。それに代わって、分家の品川家から高如、伊氏と2代にわたって高家職に登用された。伊氏の代には本家をしのぐ1500石の知行取りにまでなった。
正妻は松平勝隆の娘(勝隆の姪で養女とも)。後妻は宝樹院(徳川家光側室)の妹。一男あり、重治は、母方の祖父能見松平勝隆の養子になった。品川家は、重治の次男伊氏が相続した。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十四