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今川範主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
今川範主
時代 江戸時代中期
生誕 元禄11年(1698年
死没 享保13年6月28日1728年8月3日
別名 彦五郎、民部(通称
戒名 浄修院殿功山源英大居士[1]
墓所 東京都杉並区和田の長延寺
幕府 江戸幕府高家
主君 徳川家宣家継吉宗
氏族 品川家→今川家
父母 父:品川伊氏 母:蒔田定行の娘
養父:今川範高
兄弟 横瀬貞国室、範高範主品川範増
正室:なし
範彦松平勝文、娘(赤井林幸室)、義泰、娘(稲垣正庸室)
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今川 範主(いまがわ のりぬし)は、江戸時代中期の高家旗本今川家17代当主[2]

生涯

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高家旗本品川伊氏の次男。宝永7年(1710年11月28日、13歳で将軍徳川家宣御目見する。

正徳2年(1712年)、本家今川家を継いでいた兄範高の末期養子となり、5月26日に家督を相続した。表高家に列した。

享保13年(1728年)6月28日に死去、享年31。

系譜

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直房以来、親族からの養子による継承を重ねてきた今川家だったが、以後は幕末の範叙まで範主の男系子孫によって継承されることになる。一方、長男と次男を今川家の継嗣に送り出した品川家は、三男の範増の夭折によって一旦断絶することになる。

範主に正室はいないが、側室は少なくとも2人いた。身分が低いなどの理由で正室に立てられなかったものと推測されている[3]

3男2女がおり、長男範彦が家督を継いだ。次男松平勝文は旗本松平勝秀(500石)の養子となっている。長女は大番士赤井林幸(550石)に嫁いだが、のちに離婚した。三男義泰は範彦の養子として家督を継ぐ。次女は御小姓稲垣正庸(600石)の妻となった。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第九十四
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

脚注

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  1. ^ 『今川氏と観泉寺』p.75、「近世今川家歴代法号一覧表」。
  2. ^ 家祖・国氏から数えた代数。
  3. ^ 『今川氏と観泉寺』p.48