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于山島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

于山島(うざんとう、ウサンド、우산도)は、1431年朝鮮で編纂された『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に記述されたものから、1908年に編纂された『増補文献備考』「輿地考」まで、朝鮮の数多くの歴史書や地図に登場している島。朝鮮半島の東、現在の鬱陵島周辺に描かれているが、実際のどの島に当たるかは分かっていない。「于山」という名称は1145年に編纂された『三国史記』に512年の史実として「于山国」という名称で記載されたものが最も古い。

現在、韓国では于山島を現在の竹島(独島)であるとしている。

概要

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「于山島」が現れる古文献や古地図のひとつひとつに即して検討作業を加えれば、

  1. 明らかに鬱陵島を意味する場合
  2. 鬱陵島とは別の島を指す場合
  3. 現在の竹島(韓国名:独島)を指す場合

の3つに大きく分類できる[1]

韓国に現存する地図のなかでも古いものでは于山(島)は鬱陵島近傍の西、あるいは北に描かれることが多いが、これに比定できる島は存在しない。18世紀後半以降は鬱陵島の東に隣接して描かれるようになり、しだいに鬱陵島北東に隣接する現在の竹嶼付近に于山島を描いている。

鬱陵島は朝鮮政府にとっては辺境の遠隔地で渡航も難しく、1417年以降は入島・居住を全面禁止する「空島政策」をとっていた。安龍福の密航により鬱陵島の帰属が日本と朝鮮間の外交問題となった後、朝鮮政府は鬱陵島をたびたび調査を行った。これら調査で得られた知見により、于山島は鬱陵島の北東近傍に一つの島として描かれるようになった。日本では、鬱陵島と于山島の位置(方角、距離)、形状(1つの島)より竹嶼であるとする説が有力である[注釈 1]

『三国史記』(1145)における「于山国」

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三国史記』巻四「新羅本紀」。512年の記事。「于山国は溟州東方の海の島にあり、別名鬱陵島という」の記述がある。

1145年に編纂された朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、「512年6月に于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島という」とある。すなわち、「于山国」とは鬱陵島の別名である。韓国政府は、後年の『世宗実録』地理志に基づく韓国側の解釈をこの『三国史記』に遡及適用することによって、竹島は512年以降ずっと韓国領であると主張している。しかし、『三国史記』には鬱陵島以外の島のことは全く記されていない。なお、島の大きさについては、通常1里=400メートルで計算すると100里だと約40キロメートルとなるが、実際の鬱陵島より大き過ぎるので、ここでは短里の1里=80メートルが使われて8キロメートル四方であると考える方が自然である。

原文[3]

(※可読性向上のため空白を入れ、固有名詞以外は旧字体を新字体に変更。以下同様)

『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀

十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 為何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以討服 乃多造木偶師子 分載戦船 抵其国海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 国人恐懼則降

翻訳
『三国史記』巻第四 新羅本紀 智証麻立干紀

智証麻立干)十三年(512年)夏六月、于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州(現在の江原特別自治道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、百里(8㎞)四方ある。渡航が困難なことを恃みにして服従しなかった。何瑟羅州の軍主となった伊飡の異斯夫が言うには、于山人は愚かで凶暴である。威嚇するのは難しいが計略をもってすれば服従させることができる。そこで木製の獅子の像を多く造り戦艦に分けて載せその国の海岸に着くと、誑かして「お前たちがもし服属しなければ、すぐにこの猛獣を放ち踏み殺させるぞ。」と告げると、于山国人は恐れ慄きすぐに降伏した。

6世紀初めに「于山国」が新羅に服属して朝貢関係にあったことは『三国史記』の記すところであるが、1022年(顕宗13年)頃まで用いられていた「于山国」の呼称は、この時期を最後に『高麗史』や『高麗史節要』などの文献資料から姿を消すようになり、このことについて、韓国の金柄烈(戦争法・国際法専門)は11世紀初頭の女真族の高麗侵攻の影響を挙げている[4]

15世紀の文献に登場する「于山」

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『太宗実録』(1431)の流山国島と于山島

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1431年に編纂された韓国の文献『太宗実録』の太宗十二年(1412年)の項に「流山国島」の名が現れる。その中で、江原道高城於津に漂着した白加勿らは「11戸60人余りが、武陵島から流山国島に移った。流山国島は、東西と南北がそれぞれ2息、周囲が8息で豆や麦が採れる」と観察使に証言している[4]。なお、1息は約12キロメートルであり、それによれば東西・南北それぞれ24キロメートル、外周が96キロメートルということになる。金柄烈は、白加勿らが生まれ育った「武陵島」を鬱陵島附属の竹嶼とみなし、移り住んだ「本島」すなわち「流山国島」を鬱陵島に比定している[4]。「流山国島」の流山は于山の発音を表記で充てたものと考えられるが、「武陵島」を鬱陵島とみなす前提に立てば「流山国島」に該当する島が周囲にないことが問題になる。これに先立つ1403年、太宗は倭寇を警戒し鬱陵島住民に本土へ移住するよう命じていたため(空島政策の始まり)、白加勿らは観察使の質問に架空の島を証言したのではないかという推測を生むわけである。金柄烈自身は、当時にあっては鬱陵島のことが「于山国島(その転訛として、流山国島)」、竹嶼のことが「武陵島」と呼ばれるのが、むしろ自然であったとしており、于山国島は独島ではなかったとしている[4]

鬱陵島は、はるか海上にあるので観察使が来ることが少なく、逆に兵役や税を逃れる者が本土より密かに移住したり、住民が倭寇を装い本土を襲ったりしたため、1416年政府は空島政策を堅持する方針を立て、その後鬱陵島住民を強制的に本土に引き上げさせている。

翌年の『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に于山島という名が初めて現れる[4]。そこには「按撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と報告しており、住人の数や戸数より上記の「流山国島」のことを表していると考えられ、この于山島は鬱陵島の事を示していると考えられる[4]。ここでは「于山武陵島住民の刷出与出」が議論されており、「武陵の住民は刷出せず、五穀と農器を与えて生業を安定」させてほしいとの請願もあったところから、金柄烈は鬱陵島本島である「于山」を先に書き、属島竹嶼である「武陵」を後に書いたと推測している[4]。これについては、「按撫使の金麟雨は于山島から還り、‥‥」の部分を鬱陵島の傍らにある現在の竹嶼から還ったと解し、この于山島や流山国島はその竹嶼だとする解釈もある。いずれにせよ、ここでいう「于山島」が現在の竹島(韓国でいう独島)であるという解釈は、島の大きさや島内環境の記載からみて成り立ちようがない。

「流山國島」に関する原文[5]
『太宗実録』第二十三之四 十二年

○命議政府 議処流山國島人 江原道観察使報云 流山國島人白加勿等十二名 来泊高城於羅津 言曰 予等生長武陵 其島内 人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息 周回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗出二十石或三十石 麦一石出五十余石 竹如大椽海錯果木皆在 焉窃慮此人等逃還 姑分置于通州高城扞城○

翻訳
『太宗実録』第二十三之四 十二年(1412年)
政府の命による流山國島人について、江原道観察使は、流山國島人の白加勿ら十二名が高城於羅津に来泊し「私達は武陵で育ったが、その島の内、十一戸の男女合わせ六十人余りが今この島(流山國島)に移住した。この島は、東から西までと南から北までそれぞれ二息(約24km)、周囲が約八息(約96km)、牛・馬・水田はなく、唯一豆が一斗から二十石あるいは三十石、麦は一石から五十石余り採れる。大垂木のような竹、海と錯覚する果実の木など色々ある。」と言っていると報告した。これよりこの人たちが逃げ帰るのを憂慮し、しばらく通州、高城、扞城に分け住まわせた。
「于山島」に関する原文[6]
『太宗実録』第三十三之四 十七年

○按撫使金麟雨 還自于山島 献土産大竹 水牛皮 生苧 綿子 検樸木 等物 且率居人三名以来 其島戸凡十五口男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颶風 僅得其生○

翻訳
『太宗実録』第三十三之四 十七年(1417年)
按撫使の金麟雨は于山島から還り、土地の産物の大きな竹・水牛の皮・生芋・綿子・アシカ等を献上し、また島民三名を率いてきた。その島の戸数はおよそ十五、男女併せて八十六人。麟雨が行って還る時、再び嵐に遭い、何とか生き延びた。

『高麗史』(1451)の于山島

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1451年に完成した『高麗史』に、「鬱陵島は県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵とも言われ、百四方ある。……一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。」と于山島の記述が見られる。韓国側の見解では、晴れていれば鬱陵島から竹島が望めるので、この于山島を独島(竹島)と考えるのが自然だとする。 一方日本側の見解では、現在の竹島のような、遠く離れた無人の小島の名に国名を使う訳がないとする。この文章の表題は鬱陵島となっており、また問題の一文では于山島と武陵島を同格に表現しているが、本文は全て鬱陵島の内容で、現在の竹島を示すような内容は書かれていない。鬱陵島周辺には鬱陵島と同程度の島は存在しないが、『太宗実録』に86人が住む于山島の証言があるため、編者は二島である可能性を捨てきれず、一説として問題の一文を書いた可能性が高い。これらのことから、日本では、朝鮮王朝が鬱陵島近辺の地理を掌握しておらず、架空の于山島から見た武陵島、武陵島から見た于山島、あるいは朝鮮本土から見た于山・武陵(鬱陵島)のことを風説に基づき書いたと考えられている。

原文[7]
『高麗史』巻五十八 地理三

欝陵島
在県正東海中 新羅時 称于山国 一伝武陵 一伝羽陵 地方百里 智證王十二年 来降太祖十三年 其島人 使白吉 土豆献方物 穀宗十一年 王聞欝陵地広土肥 旧有州県 可以居民 遣溟州道監倉金柔立 往視 柔立回奏云 島中有大山 従山頂 向東行至海一万余歩 向西行一万三千余歩 向南行一万五千余歩 向北行八千余歩 有村落基址七所 有石仏鉄鐘石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可居 遂寝其議 一云 于山 武陵 本二島 相距不遠 風日清明則可望見

翻訳
『高麗史』巻五十八 地理三

鬱陵島

県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵とも言われ、百四方(約40km)ある。智證王十二年から太祖十三年の間、その島の人は白吉を使いに出し、その地の豆などを献上した。穀宗十一年、王は鬱陵の地が広く土地が肥え、昔は民を居住させることができる州や県があったと聞いた。溟州道の倉金を監督として擁立し遣わせ、回奏を擁立し見に行かせたという。島の中央には大きな山があり、山頂から東に向かって行くと一万歩余りで海に至る。西に向かって行くと一万三千歩余り、南に向かって行くと一万五千歩余り、北に向かって行くと八千歩余りだ。村落の址が七ヶ所あり、石仏や鉄の、石塔がある。柴胡石南花が多く生え、岩石が多くあるので人が居住することができないが、何とかそこで寝ることにした。一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。

『世宗実録』(1454)の于山島

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1454年に編纂された『世宗実録』世宗七年の項には、「于山茂陵等の所で按撫使の金麟雨は‥‥」となっており、それまで「鬱陵」「武陵」「羽陵」などと呼んでいた島を今度は「茂陵」としている。「于山茂陵等」として、于山と茂陵が中心になっており、これまでの経緯からその両方が鬱陵島を指していると考えられる。韓国側は、この地理志の記録をもって于山島を竹島に比定し、以降の史料に出てくる全ての于山島に竹島を自動的に当てはめて解釈をしている。また、1417年から1438年まで実施された鬱陵島の刷還政策の過程で得た竹島の知識が反映されたとする韓国人学者もいるが[8]、それらを示す具体的な史料は現存しない。日本側は、地理志の于山島や于山国の内容は、過去の『高麗史』や『三国史記』を編集した内容になっていると解釈している。

原文
『世宗実録』世宗七年十月乙酉條

于山茂陵等処按撫使金麟雨 捜捕本島避役男婦二十人 来復命 初麟雨領兵舩二艘 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄風不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十餘人 而失四十餘人 何益哉

『世宗実録』地理志 江原道蔚珍縣

于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国一云欝陵島 地方百里 恃険不服 智證王十二年 異斯夫為何琵羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以計服 及多以木造猛獣 分載戦船 抵其国 誑之曰 汝若不服 則即放此獣 国人懼来降 高麗太祖十三年 其島人 使白吉 土豆 献方物 毅宗十三年 審察使金柔立等 回来告 島中有泰山 従山頂向東行至海 一万余歩 向西行 一万三千余歩 向南行 一万五千余歩 向北行 八千余歩 有村落基址七所 或有石仏像 鉄鐘 石塔 多生柴胡蒿本 石南草 我太祖時 聞流民迯人其島者甚多 再命三陟人金麟雨 為安撫使 刷出空其地 麟雨言 土地沃饒 竹大如柱 鼠大如猫 桃核大於升 風物称是

翻訳
『世宗実録』世宗七年十月乙酉條

于山茂陵等の所で按撫使の金麟雨が、役を逃れた男女二十人を探し捕まえ復命した。最初、麟雨は兵船二艘で茂陵島に入ったが、船軍四十六名の一艘の所在が嵐で行方不明になった。上様(王)は諸卿に「麟雨は二十人余りを捕まえて還ったが、四十人余りを失っては何の利益があろうか。」と言った。

『世宗実録』地理志 江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る。二島はお互いにそれほど遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅時代には于山国と称していた。一説に鬱陵島と言い、百里四方ある・・

『八道総図』の于山島

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東国輿地勝覧付属の八道総図(鬱陵島周辺部)

于山島が描かれている地図は多数見つかっているが、その内最も古い地図は1481年成宗12年)に編纂された『東国輿地勝覧』付属の『八道総図』である。韓国では、世宗実録地理志に基づく推定をこの地図の于山島に当てはめることにより竹島であるとする。日本では、鬱陵島の西にこの様な大きな島は存在しないこと及び同時代の記録である太宗実録に記載された金麟雨の于山島実地調査が鬱陵島を示すことから、二重写しの鬱陵島と考えている。

16世紀の文献における「于山」

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『新増東国輿地勝覧』(1530)の于山島

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1530年に編纂された『新増東国輿地勝覧』では于山島と鬱陵島を併記し、添付の江原道の地図には于山島を鬱陵島の西に描いている。しかし鬱陵島の西にはその様な島は存在しない。本文にもある通り一説に本来一つの島であるとしていることから、鬱陵島を二島と誤認していたことが分かる。

この文章には「天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。」という一文がある。韓国では、この一文を竹島(独島)から見た鬱陵島だと主張しており、日本では朝鮮本土から見た鬱陵島であるとする説もある。しかし、どちらも実際には快晴であっても山頂の樹木や山麓の海岸を歴々見ることはできない。そのため、これは過去の『高麗史』や『世宗実録』を参考に、鬱陵島の西にあるとされる鬱陵島から見た于山島の噂をそのまま加筆記載したものと考えられている。「三つの峰が及業(きゅうぎょう)として空を支え、南の峰はやや低い。」「于山と鬱陵は本来一つの島で百里(約40km)四方ある。」の部分は鬱陵島の様子を示しており、また「風が良ければ二日で到達できる」と言う部分では、当時の船で朝鮮本土から鬱陵島まで二日、日本側の資料で竹島(鬱陵島)から松島(現在の竹島)まで一日かかるので、于山島・鬱陵島は朝鮮本土から行く鬱陵島と考えられる。現在の竹島を于山島とする説では、距離だけでなく添付の地図の位置や大きさも全く違い、その可能性は極めて低い。

1760年代に編纂された『輿地図書』では、「欝陵島 一羽陵 島在府東南海中 三峯岌業掌空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木山根沙渚歴々可見」と新増東国輿地勝覧とほぼ同じ記述内容をもって「鬱陵島」の説明としている。
なお、1690年代に起きた鬱陵島(当時の日本ではこの島を竹島と呼んでいた)をめぐる日本と朝鮮との領有問題(竹島一件)の生じた時には、当時の朝鮮はこの一文を理由に鬱陵島は古来より朝鮮本土から見えていたので朝鮮領だと主張している。

原文[9]
『新増東国輿地勝覧』巻之四十五 蔚珍縣

于山島 欝陵島

一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里
翻訳
『新増東国輿地勝覧』巻之四十五 蔚珍縣

于山島 鬱陵島
時に武陵、或いは羽陵とも呼ばれ、二島は県の真東の海中に在る。三つの峰が及業(きゅうぎょう)として空を支え、南の峰はやや低い。

天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。風が良ければ二日で到達できる。一説に于山と鬱陵は本来一つの島で百里(約40km)四方ある。

『西渓雑録』の于山島

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1628年に書かれた朝鮮半島の地図の複写。于山島と鬱陵島が描かれている。

朴世堂が書いた『西渓雑録』の中の「鬱陵島」の項に、ある僧侶からの伝聞として于山島の記述がある。その記述によると、その僧侶は文禄の役(1592~1593年)の時に日本の捕虜となって日本の船で鬱陵島に行ったと言っており、その後他の捕虜7人と朝鮮半島まで帰ったとしている。このときの鬱陵島と于山島の記述に、「于山島は高さが低く、天気が極めて良くなければ、また最も高い頂に登らなければ、見ることができない。」とあることから、韓国では、天気が極めて良いときに最も高い頂に登らなければ見ることができないのは、鬱陵島から見た独島(現在の竹島)しかないとしている。しかしその前文の、「二島はここからそう遠くはなく、一度風に乗れば到着することができるだろうという。」としているところでは、二島を一纏めにして朝鮮半島からそう遠くないとしていることから、日本では、この二島は朝鮮半島から見てほぼ同じ方向にあると認識されていた島であり、当時の朝鮮の地図に描かれている鬱陵島と架空の島の于山島又は竹嶼であるとしている。

原文

『西渓雑録』 鬱陵島
新羅史曰 于山國島名鬱陵地名百里
 (略)
嘗遇一僧自稱 壬辰之亂俘入日本 丙午隨倭船至鬱陵 島々有大山 三峯尤峻發島三面皆壁立 萬仞南邊稍開豁然亂山 若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸 則白沙平鋪長松列植 山開望濶 而江水流出縁江行十餘里 則篔簹作藪不見天日大若梁柱小不減椽杠 又穿藪行十餘里 則有竹林 其脩大若篔簹竹林既窮 而原野夷曠有村居墟落 山多珍木藥草 倭方伐竹採藥 留渠守船 鄰船適有同俘七人 夜與相語 天將曉發船 以來日纔晡已 到寧海地面 云蓋 二島去此不甚遠 一颿風可至 于山島勢卑 不因海氣極淸朗 不(登最)高頂 則不可見 鬱陵稍峻風浪息 則(尋常可)見 麋鹿熊獐往々越海出來 朝日纔高(三丈 則)島中黄雀群飛來投接竹邊串 島中竹實時々漂出 形如大博棊海女拾之爲 雜佩篔簹及竹亦或漂出 一節有數尺者宜箭箆多有之

翻訳

『西渓雑録』 鬱陵島
新羅の歴史書によると、于山国の島名を鬱陵といい、地名を百里という。
 (略)
かつて一人の僧に出会い自ら言うには、文禄の役で捕虜として日本に入ったが丙午の年日本の船に随行し鬱陵島に至った。・・・<鬱陵島の様子>・・・渠に留め船を守っており、隣の船にはちょうど同じ捕虜7人がいた。夜に相談して将官が夜明けに船を出し、早くも夕方までに寧海の地(慶尚北道 盈徳郡 寧海面)に到着した。二島はここからそう遠くはなく、一度風に乗れば到着することができるだろうという。 于山島は高さが低く、天気が極めて良くなければ、また最も高い頂に登らなければ、見ることができない。鬱陵はやや急峻で波風が収まれば普通に行くことができる。大きな鹿やのような鹿がおり、往々にして海を越えて出て来る。朝日が少し昇ると、島の中から黄雀の群れが竹邊串に飛来する。・・・

17世紀の文献における「于山」

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『東国輿地志』の于山島

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「東国輿地志」巻之七 江原道

1656年に編纂された柳馨遠の『東国輿地志』には、『新増東国輿地勝覧』と同じ文が転記されている。

原文
『東国輿地志』巻之七 江原道 蔚珍

于山島 欝陵島
一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里

安龍福証言における「于山島」

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1600年代後半の朝鮮半島の地図。朝鮮半島と鬱陵島との間に于山島が描かれている。

これまでの文献や地図を見ると于山島が松島(現在の竹島)でない事は間違いないが、朝鮮国慶尚道東莱県に住む漁夫安龍福は于山島を日本人の呼ぶ松島だと言っている。彼は二度日本に来た記録があるが、彼の言動を総合すると松島に行った可能性は非常に少ない。彼は日本への二回目の渡航時、鬱陵島から隠岐への通過点である松島を見たかもしれないが、この松島は彼の想像する于山島ではなく接岸することも難しい小さな島である。彼は鬱陵島は何度も訪れているが、『朝鮮八道古今総覧図』に描かれている架空の大きな島の于山島が見当たらず、日本人の呼ぶ松島をこの于山島だと信じていたようである。というのも、日本での村上家記録や朝鮮へ帰国したときの粛宗実録の記録には「于山島」ではなく「子山島」と記されているが、このように言っているのは安龍福だけで、地図を見て地図に書かれた文字を読み違えていることが窺えるからである。彼は于山島を鬱陵島より北東に約20km、船で約1日で行ける居住可能な大きな島で「日本人が魚膏(アシカの油)を煮炊きしている(子山島倭等方列釜煮魚膏)」と述べている。

『竹嶋紀事』

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1693年元禄6年)4月、朝鮮国慶尚道東莱の漁夫安龍福は「鮑と和布(わかめ)かせぎ」のため鬱陵島に渡ったが、ここで同じく漁をし鉄砲を所持していた日本の漁夫たちに捕らえられ日本に連行される。そして日本で取調べを受けた後、幕府の指示により対馬経由で朝鮮に送還される。(竹島一件

竹嶋紀事』によると、対馬藩での取り調べに安龍福は、鬱陵島の北東に大きな島があり、この島を知っている者が于山島だと言ったとしている。また安龍福はこの島を鬱陵島にいた時に二度見たが行ったことはないと言っている。後に彼は日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)をこの于山島だと言うのだが、鬱陵島へ鮑やワカメなどを採りに来た安龍福は海岸近くにいたはずであり、海岸付近からの松島は水平線の下になり、快晴でも全く見えない。また方角も全く違い、大きな島でもないので本当の松島ではないことがわかるが、鬱陵島から一日余りで着き逗留中にようやく二度見た島と言うと、山頂付近に登ったり、かなり沖へ出ると見えた可能性もあるので松島と言えなくもない。しかし安龍福が日本へ連行された折に同行していた朴於屯の証言によると、鬱陵島から隠岐への航海中、鬱陵島の「前後、さらに他島なし」と言っており、隠岐への通過点である松島を認識していない。安龍福の言う于山島が本当の松島である可能性は極めて低い。

原文
この度参候島より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法 一日路余もこれ有るべく候。

『村上家文書』(1696)

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1696年(元禄9年)5月、日本の隠岐安龍福ら11人を乗せた朝鮮船が着岸。取り調べたところ、安龍福は『朝鮮八道之図』を示し、日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であり、松島は子山(于山)という島であって朝鮮領に属するとし、自分たちは伯耆守へ訴願するためここへ立ち寄ったと説明している。当時の日本では鬱陵島の事を竹島、現在の竹島のことを松島と呼んでおり、この時安龍福が話した内容の記録が隠岐の村上家文書に残っている。

鬱陵島と朝鮮本土の距離が30里(約12km)、鬱陵島と于山島の距離が50里(約20km)で、鬱陵島から于山島まで船でその日の内に着くと言っているが、実際の鬱陵島と朝鮮本土との距離は約140km、鬱陵島と現在の竹島(松島)の距離は約90kmで大きく食い違っている。安龍福は鬱陵島には何度も渡っていることから、おおよその距離は把握していると考えられ、この違いは鬱陵島と于山島と呼ばれる島を朝鮮領としたいがために、全体に朝鮮本土側へ寄せ偽証したとも言われている。しかし、安龍福の証言する距離の比を実際の距離に当てはめてみても、やはりかなり食い違っている。また彼は朝鮮八道之図に鬱陵島と子山(于山島)を記し、松島を経由したように言っているが、この当時発行されている朝鮮の地図朝鮮八道古今総覧図には最初から鬱陵島が描かれており、鬱陵島の北には実在しない于山島も描かれている。村上家文書には安龍福から聞き取ったと見られる「朝鮮の八道」の名称を列記したものもあり、江原道の文字の下だけに「此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之」と書き留められている。安龍福の、鬱陵島と実在しない于山島を朝鮮領にしようとする強い意気込みが、読み取れる。

なお、朝鮮側は、安龍福は漂風の愚民であって政府の関知するところではない、としており、後の対馬藩の『朝鮮通交大紀』には安龍福が勝手に日本に提出した文書について朝鮮側は「妄作の罪あり」としている。

原文
元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書

(略)
一 安龍福申候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋と申朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申島御座候是ヲ竹ノ嶋と申由申候則八道ノ図ニ記之所持候
一 松嶋ハ右同道之内子山と申嶋御座候是ヲ松嶋と申由是も八道之図ニ記申候
(略)
一 ……五月十五日竹嶋出船同日松島江着同十六日松嶋ヲ出十八日之朝隠岐嶋内西村礒へ着……

一 竹嶋と朝鮮之間三十里竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候
現代文
元禄九年 丙子の年 朝鮮船着岸 一巻の覚書

(略)
一 安龍福が言うには、竹島を竹ノ島と言う。朝鮮国江原道東莱府の中に鬱陵島と言う島があり、これを竹ノ島と言うからだと言うので、それで八道ノ図に記しこれを所持している。
一 松島は右の江原道のうち子山と言う島であり、これを松島と言うのでこれも八道之図に記したと言っております。
(略)
一 ……五月十五日竹島を出船、同日松島へ着、同十六日松島を出て、十八日の朝隠岐島の中の西村の磯へ着。……

一 竹島と朝鮮の間は三十里、竹島と松島の間は五十里あると言っております。

『粛宗実録』(1728)と安龍福証言

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1728年李氏朝鮮で編纂された書物『粛宗実録』には、1696年粛宗22年)に朝鮮の安龍福鬱陵島での日本人の漁労に抗議するために日本へ行った時のことが書かれている。帰国時に不法渡航の疑いで朝鮮政府に捕らえられ、備辺司で尋問された時の証言内容の中に(安龍福は、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。……」と言った。)とある。当時の日本では現在の竹島のことを松島と呼んでおり、これ以外にも「鬱陵子山島等を以て朝鮮の地界と定めた関白の書契がある」との記述があることから、韓国では現在の竹島(独島)が于山島であり朝鮮領だった確証だとしている。しかし、安龍福の証言に(……倭人は「我らは本来松島に住んでいる。偶然漁に出て来ただけ……」)とあるが、松島は人が住める環境ではない。つまり安龍福は日本人の呼ぶ松島を鬱陵島の近くにあるとされる于山島とし、話をでっち上げたのである。一連の安龍福の証言は他にも事実と合わない内容が多いことから、日本では、安龍福は当時朝鮮から渡航が禁止されている鬱陵島や日本への不法渡航や日本に訴訟を起こそうとした罪を免れるため事実を過大に脚色し創作したと考えられている。 (安龍福の虚言については安龍福を参照)

この安龍福の松島の発言は後の朝鮮の書記に影響したと考えられ、これが明治時代の日本の記録にまで影響し、現在の竹島問題へと発展している。

原文
『粛宗実録』巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司 推問安龍福等 龍福以為 渠本居東莱 為省母至蔚山 適逢僧雷憲等 備説頃年往来欝陵島事 且言本島海物之豊富 雷憲等心利之 遂同乗船 與寧海蒿工劉日夫等 倶発到本島 主山三峰高於三角 自南至北 為二日程 自東至西亦然 山多雑木 鷹鳥猫倭船亦来泊 船人皆恐 渠倡言欝島本我境 倭人何敢越境侵犯 汝等可共縛之 仍進船頭大喝 倭言吾等本住松島 偶因漁採出来 今当還往本所 松島即子山島 此亦我國地 汝敢住此耶 遂拾良翌暁沱舟入子山島 倭等方列釜煮魚膏 渠以杖撞破 大言叱之 倭等収聚載船 挙帆回去 渠仍乗船追趁 埣偶狂飆漂到玉隠岐 島主問入来之故 渠言頃年吾入来此処 以鬱陵子山島等 定以朝鮮地界 至有関白書契 而本国不有定式 今又侵犯我境 是何道理云 爾則謂当転報伯耆州 而久不聞消息 渠不勝憤椀 乗船直向伯耆州 仮称欝陵子山兩島監税将 使人通告 本島送人馬迎之 渠服青帖裏 着黒布笠 穿及鞋 乗轎 諸人並乗馬 進往本州 渠興島主 対坐廳上 諸人並下坐中階 島主問何以入来 答曰 前日以兩島事 受出書契 不啻明白 而対馬島主 奪取書契 中間偽造 数遣差倭 非法横侵 吾将上疏関白 歴陳罪状 島主許之 遂使李仁成 構疏呈納 島主之父 来懇伯耆州曰 若登此疏 吾子必重得罪死 請勿捧入 故不得禀定於関白 而前日犯境倭十五人 摘発行罰 仍謂渠曰 兩島既属爾国之後 或有更為犯越者 島主如或横侵 並作国書 定譯官入送 則当為重処 仍給糧 定差倭護送 渠以帯去有幣 辞之云雷憲等諸人供辞略同 備辺司啓請 姑待後日 登対禀処 允之。

翻訳
『粛宗実録』巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司安龍福等に推問した。彼は東莱(現在の釜山)に住んでおり帰省し母に会うため蔚山に赴くと、ちょうど僧の雷憲等に逢った。近年鬱陵島に往来した事を説明し、またこの島は海産物が豊富だと言うと、雷憲等は心を動かされ遂に船に同乗した。寧海の蒿仕事の劉日夫等を奮い立たせ、ともに出発しその島に到着した。主な山は三つの峰が三角にそびえている。南北にも、東西にも2日程かかる。山は雑木・鷹・鳥・猫が多く、の船もまた来泊していたので船人は皆恐れた。彼は先に「鬱陵島は本来我領域だ。倭人は何故敢えて越境侵犯するのだ。おまえら皆縛り上げるぞ。」と言って、進み寄り船頭を大喝すると、倭人は「我らは本来松島に住んでいる。偶然漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ。」と言うので、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ。」と言った。そして翌暁、船を曳いて子山島に入ると、倭人達は釜を並べ魚の膏を煮ていた。杖で撞いてひっくり返し、大いに叱り付けると、倭人達は片付け船に乗せ、帆を揚げ帰り去った。彼はなお船に乗り追いかけたが、狂風に遭遇し隠岐に漂着した。島主が入来の訳を聞いたので、彼は「近年私がここへ来たとき、鬱陵子山島等を以て朝鮮の地界と定めた関白の書契があるが、この国は徹底していない。今又我境界を侵犯するとはどういう訳なのだ。」と言った。そこで、伯耆州にこれを伝えるように言ったが、久しく消息がない。彼は我慢しきれなくなって、船に乗り直接伯耆州に向かった。「鬱陵子山両島監税将」と仮称し、人を使い通告すると、本島(本土)は人馬を送って迎えた。彼は青帖裏(官服)を着て、黒い布の笠をかぶり、靴を履き、籠に乗り、他の者は並んで馬に乗り、この州を進んで行った。彼は島主(鳥取藩主)を奮い立たせ対座し聴かせ、多くの人が並んでその下に下座した。島主(鳥取藩主)は入来の訳を聞いたので、「先日両島の事で書契をもらったのは明白であるが、対馬島主が書契を奪い取り、間で偽造し数人を遣わし倭は非法に(鬱陵子山島等を)横取りしている。私は関白に上訴し罪状を陳情する。」と答えた。島主(鳥取藩主)はこれを許したので、遂に李仁成を使い訴状を提出しようとすると、島主(対馬藩主)の父が伯耆州に来て、「もしこの訴状が提出されると、我が子は必ずや死罪になる。」と言い、この話はなかったことにしてくれと頼むので、関白に上訴することができなかった。しかし、先日国境を犯した倭の十五人は摘発され処罰された。そして、「両島があなたの国に属した後、更に国境を越える犯人がいたり、島主(対馬藩主)が横取りするようなことがあれば、国書を作り官吏を送り重大事とする。」と言ったと言う。そして、食料を与え代わりに倭が護送すると言ったが、彼は退去するので好意を断ると、雷憲ら他の者も同じように断ったと言う。備辺司は、後日その対処が決定するまでしばらく待つことを承知するよう申し付けた。

18世紀の文献における「于山」

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『欝陵島図形』の于山島

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1711年に鬱陵島へ渡った検察使の朴昌錫が、于山島が描かれている『欝陵島図形』(ソウル大学 奎章閣蔵)[1]を製作している。于山島を描いた古地図は多数発見されており、どの地図にも于山島は鬱陵島の近傍に描かれているが、この地図に書かれた于山島は鬱陵島の東近傍に附属島のように描かれ、その中央には「海長竹田 所謂于山島」と記されている。海長竹は竹の種類で、田のように広く自生していることを示していると考えられている。鬱陵島の東近傍には、実際に「竹嶼」という古地図と同様南北に長い小島があって、多くの竹が自生しているため、この頃からこの島を于山島と呼んでいたと考えられる。

朝鮮王朝が鬱陵島を調査した1694年作成の記録『蔚陵島事蹟[10]には「東方五里に一つの小島があり、高くはないが大きい海長竹が一面に生えている」とした記述がある。東方五里(約2km)としていることから、この小島は鬱陵島から東に2.2km離れた竹嶼であることが窺え、『欝陵島図形』の記述と共に于山島が竹嶼であることを裏付けている[11]

この他にも『欝陵島図形』という地図が別に二枚確認されており、1699年製作といわれるもの(韓国国立中央博物館蔵)と、1701年製作といわれるもの(三陟市立博物館蔵)には、「大于島」「小于島」という島が描かれている[12]。これらの地図には鬱陵島の北海岸から北東にかけて、孔巖、錐峰、蟻竹岩、など、今日の象岩、錐山、竹岩と比定される鬱陵島沿岸の岩を書いており、更に東北部から東にかけた海岸沿に「芋田」や「倭船倉」(日本の船倉)の文字が記載され、安龍福がこの辺りで日本人に遭遇していたことがうかがえる[11]。そのすぐ対岸に「大于島」と「小于島」が描かれ、これらの相対的な位置関係からそれぞれ現在の竹嶼と観音島とみられる[12]

『備辺司謄録』(1735)の于山島

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1735年1月19日(英祖11年1月)の備辺司での記録には「その(鬱陵島)西にまた于山島があり、また広闊だという」としている[13]が、実際には鬱陵島の西に島は存在しない。備辺司は朝鮮の軍事を担当する官庁であるが、安龍福への尋問後にも、備辺司は于山島が鬱陵島の西にあると認識している。

原文
又所啓 江原監司趙最壽狀啓 鬱陵島搜討 今年當擧行 而道內農事不免慘凶 往來時所入雜物 皆出民間 營將及倭學等 所率甚多 累朔候風 所費不貲 當此荒年 必多騷擾 今年姑爲停止 待年豐擧行事陳請矣 今年關東年事 果爲凶歉 多人治送 累朔候風 不無弊端 而此是定式以三年一往者也 昨年旣不得擧行 今年又爲停止 則雖無當初定式之意 何以爲之 上曰 此事何如 行左參贊金取魯曰 丁丑·戊寅年間朝家送張漢相 看審圖形以來 而聞鬱陵島 廣闊土沃 曾有人居基址 或有往來之痕 其西又有于山島 而亦且廣闊云矣 其後仍有三年一搜討之定式 此與年例操停止有異 事係海防申飭 恐不當以本道凶歉些少弊端 每年停廢矣 戶曹判書李廷濟曰 往在丁丑年間 倭人請得鬱陵島 故朝家嚴飭不許 而使張漢相往見此島 三年一往仍爲定式矣 本道凶荒 固爲可念 而此事之每每停廢 亦甚可悶矣 上曰 兩重臣所達是矣 候風雖有弊 而此蓋憚於越海不欲往見之致也 此地若棄之則已 不然 豈可不爲入送耶 今年則搜討事擧行之意 分付可也

『広輿図』の于山島

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「広輿図」所収鬱陵島の図。東に隣接している島が于山島

1737~1776年の間に作成されたと考えられる『広輿図』(ソウル大学 奎章閣韓国学研究院 所蔵)に于山島を描いた關東道(江原道)と鬱陵島の図がある。この關東道の図の沿岸の島には大きく「欝陵島」と書かれ、その左に併記して小さく「干山島」と書かれている。また、鬱陵島単独の地図には鬱陵島の東沿岸に竹嶼と見られる「所謂干山島」と書かれた小さな島が描かれている。

『春官志』の于山

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1745年英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』に、竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹は皆同じ島であり、竹を産する事が書かれている。

原文[14]
蓋 是島 以其産竹也 故謂竹島 以有三峯也 故謂三峯島 至於 于山 羽陵 蔚陵 武陵 磯竹 皆音轉訛 而然也
翻訳
恐らくこの島は、竹を産するので竹島と言い、三つの峰があるので三峯島とも言うのだろう。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹に至っては、皆、音が転訛したようなものだ。

『旅菴全書』(1756)の于山

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1756年(英祖32年)、申景濬が編纂を担当した『旅菴全書』巻之七「疆界考」に于山の名が表れる。本文にある通りこの一節は『輿地志』の記述と他の文献や地図を見比べ、于山島と鬱陵島は別の島で、一島が松島で、恐らく二島とも于山国であろうとしている。「その所謂松島」とは、『輿地志』が編纂された後日本に渡った安龍福の証言を引用している可能性が高い。安龍福は上述の『粛宗実録』の記載にあるように松島が于山島であるとしている。しかし、この頃すでに多くの鬱陵島の古地図には『旅菴全書』の記述と同様の表現で「所謂于山島」と書いた島が描かれており、これらの島はその位置関係などからほぼ現在の「竹嶼」に比定できる。申景濬は竹嶼に比定できる于山島を日本人のいう松島(現在の竹島)と誤認していたことになる。

原文
申景濬『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島

按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也

翻訳
申景濬『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島

思案すると、輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島であると言っているが、しかし諸図志を考えると、二島である。一つは、すなわちその所謂松島であり、恐らく二島は共に于山国である。

『東国文献備考』(1770)の于山

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1770年(英祖46年)に編纂された『東国文献備考』所収で申景濬が編纂した「輿地考」の分註に「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(輿地志に言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。)との一節がある。
日本では当時、現在の竹島のことを松島と呼んでいたため、韓国政府は現在の独島(竹島)が于山で、于山は于山国の一部であり、すなわち朝鮮領であるとしている。また、この一節の中の『輿地志』は安龍福が日本に訴願しに来る40年前の1656年柳馨遠によって編纂されているので、安龍福の証言以前から朝鮮が領有していたとしている。これは朝鮮政府の文献なので、韓国では国の領有を決定付ける最も有力な証拠としている。

しかし最近、現存しないとされていた「輿地志」(『東国輿地志』)が見つかり、于山島の記述は『新増東国輿地勝覧』の転記しかない事が分かった。『東国文献備考』に書かれている「于山則倭所謂松島也」(于山は即ち倭の所謂松島である)の部分は、従来の日本の主張通り『輿地志』からの引用ではなく『旅菴全書』の「疆界考」と同様申景濬の私見だったのである。この文が安龍福の証言を元にしているかどうかは定かではないが、『東国文献備考』や「疆界考」の書かれた時期、朝鮮人と日本人が鬱陵島で遭遇した時期を考えると『粛宗実録』にある安龍福の証言を引用している可能性が高く、安龍福の虚言や多くの不自然な発言に鑑みるとその内容も信用するに値しないことになる。

また、1700年代初頭までの朝鮮の地図に記されている于山島は、全て松島とは全く違う位置や形・大きさで記されており、当時の朝鮮政府は松島を全く把握していないことが分かる。この頃の于山島も鬱陵島の東に隣接して描かれており、日本では、その位置関係や大きさ、形状、後の文献内容からも、于山島は現在の竹嶼を描いていると言われている。つまり、朝鮮政府は日本人の言う松島の存在を知らず、竹嶼と誤認していることになる。

『日省録』の于山島

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朝鮮王朝官撰『日省録』鬱陵島(ソウル大学校奎章閣蔵、1807年)
中ほどに「北有于山島周回為二三里許」の文言がみえる。

1760年から1910年までの朝鮮王朝の国政全般を記した官撰の『日省録』に于山島の名が現れる[15]

1793年の項には「臣按本曹謄録 蔚陵外島其名松島 即古于山國也」(『礼曹謄録』を按ずるに、鬱陵島近隣の島である松島は、即ち昔の于山国である)という記述があり、『東国文献備考』の記述を見ていると考えられる。

1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり、「北有于山島周回為二三里許」(北に于山島があって周囲は二三里をなしている)と報告している。于山島が鬱陵島の北にあって周囲が約800m-1200m(朝鮮の1里は約0.4km)であることが分かる。この記述に一番近い島でいえば竹嶼ということになる。竹嶼は鬱陵島の北東にあって、南北に約700mほどの縦長の島である。

19世紀の文献における「于山」

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『万機要覧』(1808)の于山

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1808年に朝鮮王朝政府が編纂した『万機要覧』軍政篇に『東国文献備考』の文をそのまま転写した文が書かれている。

「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」
(輿地志に言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は則ち倭の所謂松島である。)

『青邱図』(1834)の于山

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青邱図を元に作られた「大東輿地図」(1861年)。鬱陵島の東に于山と記された島が隣接している

1834年青邱図鬱陵島が描かれており、その東に隣接して于山という島が描かれている[16]。この地図には、目盛りが振られており、他の多くの地図同様大きさや形状、位置関係から現在の竹嶼と比定される。一目盛り十里(約4km)とされる目盛りが振られていることから、韓国の主張する独島(竹島)を意図的に鬱陵島近くに描いた島ではないことが分かる。

『承政院日記』と『啓草本』の于山島

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1882年高宗19年)4月、朝鮮国王は460年以上も無人島にしていた鬱陵島を本格的に調査する。検察使は李奎遠で、百名ほどで調査報告した。そこには、高宗が李奎遠に鬱陵島へ出発する前の4月7日、高宗は「松竹島、于山島は鬱陵島の傍らに在るが、その相互の距離の遠近はどうなのだ。またどのような物が有るのか分からん。」と下問している。この質問に李奎遠は「于山島は、すなわち鬱陵島のことで、于山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で、相互の距離は三数十里、その産物は檀香簡竹であると言います。」と答えている。そして高宗は「芋山島あるいは松竹島と称する島は皆『輿地勝覧』が出自である。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島との三つで鬱陵島と呼ばれる島を成している。その様子を良く検察しなさい。」と命令した。

『承政院日記』の原文
承政院日記 高宗19年4月7日
上曰, 鬱陵島, 近有他國人物之無常往來, 任自占便之弊矣。 且松竹島·芋山島, 在於鬱陵島之傍, 而其相距遠近, 何如? 亦有何物與否, 未能詳知, 今番爾行, 特爲擇差者, 各別檢察。 且將設邑爲計, 必以圖形與別單, 詳細錄遠[達]也。 奎遠曰, 謹當𨃃蹶奉行矣。 芋山島卽鬱陵島, 而芋山, 古之國都名也。 松竹島, 卽一小島, 而與鬱陵島相距, 爲三數十里, 其所産, 卽檀香與簡竹云矣。 上曰, 或稱芋山島, 或稱松竹島, 皆輿地勝覽所載也, 而又稱松島·竹島, 與芋山島爲三島, 統稱鬱陵島矣。 其形便, 一體檢察, 鬱陵島, 本以三陟營將·越松萬戶, 輪回搜討者, 而擧皆未免疎忽, 只以外面探來, 故致有此弊, 爾則必詳細察得也。 奎遠曰, 謹當深入檢察矣, 或稱松島·竹島, 在於鬱陵島之東, 而此非松竹島以外, 別有松島·竹島也。

李奎遠は4月29日に出帆し鬱陵島を調査した後5月13日に本土へ戻ってくるが、鬱陵島より遥か先には島は全く無く、現地に渡った住民も近くの小島に松竹島や于山島等の名を適当に当てているだけで、于山が欝陵島を指しているのは、耽羅済州島を指しているようなものだと結論付けている。

このように、当時の朝鮮政府の認識は于山島が鬱陵島であり、再調査した結果も検察使の李奎遠は于山島を鬱陵島の別名だと解している。

『啓草本』の原文
是白乎? 松竹于山等島 僑寓諸人皆 以傍近小島当之 然既無図籍之可拠 又無嚮導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指称欝陵 即如耽羅指称済州
翻訳
松竹于山等の島を、現地へ渡った人たちは皆、近傍の小島をこれに当てている。しかし根拠となる地図はなく、又これを案内する人もいない。晴れた日に高く登り遠くを眺めると、千里をうかがうことができたが、一かけらの石や一つまみの土も無かった。よって、于山を指して欝陵と称するは、耽羅を指して済州と称するようなものだ。

『大韓地誌』(1899)の于山

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大韓全図の鬱陵島周辺部

1899年光武3年)に朝鮮の歴史家兼書道家玄菜(1886 - 1925年)によって編纂された地理書『大韓地誌』のなかに、大韓全図という経緯度入りのかなり正確な付属図が付いている。この地図中に鬱陵島と並んで于山の名が記載されている。于山島と書いていないことから、于山が鬱陵島とその周囲に記載されている島全体を指しているか、または于山の文字の位置関係から、現在の鬱陵島に付属する竹嶼という島であることが推測できる。また大韓帝国の領域は東経130度35分までと記しており、現在の竹島を大韓帝国領とはしていない。この『大韓地誌』は大韓帝国の学校でも使われたことのある信用性の高い地図である。

20世紀の文献における「于山」

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現在の韓国政府の公式見解としては、歴史的に「于山」と呼称されてきた島こそが、現在の独島(日本名:竹島)にほかならないという立場に立っており、それが「独島が韓国固有の領土」だとする根拠となっている。しかしながら、鬱陵島を鬱島と改称し、鬱陵郡の管轄範囲を定めた1900年10月25日の大韓帝国「勅令第四十一号」には「于山」の名は登場せず、「郡庁は台霞洞に置き区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄する事」として「竹島」「石島」が登場している。韓国政府は、この「石島」こそ独島だとしている。

『韓海通漁指針』における竹島(独島)呼称

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日本人葛生修亮が1903年(明治36年)に書いた『韓海通漁指針』には当時の朝鮮人は、現在の「竹島」(韓国名:独島)を「ヤンコ」(「リアンクール岩礁」に由来。日本では「リャンコ」)と呼んでいたという記述[17]があり、「石島」とは呼んでいない。こうしたことから日本では一般に「石島」が竹島(韓国名:独島)であるとの見方は成り立ちがたいとされている。

『増補文献備考』(1908)の于山島

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1908年高宗の命により編纂された『増補文献備考』「輿地考」には、于山島と鬱陵島は東に三百五十里(約140km)(実際の距離は約144km)にあるとしていることから、朝鮮本土から同じ距離にある事がわかり距離もほぼ正確に測量している。また、高宗の命により編纂され「芋山」という文字があることから『承政院日記』を参考に書かれていると見られ、于山島と鬱陵島は同じ島で芋山であるとしている。
この他、過去の文献にある于山島の記録をまとめた記述や、『東国文献備考』の文をそのまま転写した文「于山は則ち倭の所謂松島である。」の記述もあり、この当時鬱陵島の別名と見られていた于山を日本人のいう松島と誤認している。

于山島 鬱陵島 在東三百五十里 一作蔚 一作芋 一作羽 一作武 二島一即芋山 『續』今爲鬱島郡」
于山島 鬱陵島 は東へ三百五十里(約140km)にある。蔚、芋、羽、武の字が付けられ、二島は一つですなわち芋山である。現在鬱島郡となっている。)

「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」
(輿地志に言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は則ち倭の所謂松島である。)

『高等学校 国史』(1982)の于山

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韓国の国史教科書『高等学校 国史』には韓半島の地図が複数出てくるが、政府見解と異なり[2]そこでは同島を「울릉도(鬱陵島)」[18]または「우산(于山)」[19][19][20][21]と記してあり独島表記もない[22]。少なくとも1982年まで韓国における公的教育において于山と独島を同一視していなかった。また当時の教科書では独島に関する記述内でも于山島についてはまったく触れられていない[23]。 しかし2011年の『高等学校韓国史』においては日本側の主張に含め「韓国が主張する于山島が独島」と表記している[24]

存在于山島

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鬱陵島周辺の島の記述がある最初の記録は、『太宗実録』の太宗十二年(1412年)に流山国島の名で出てくる。その中で、白加勿らは「11戸60人余りが、武陵島から流山国島に移った。流山国島は、東西と南北がそれぞれ約24km、周囲が約96kmで豆や麦が採れる」と観察使に証言している。武陵島とは鬱陵島のことで、「流山」は過去に呼ばれていた「于山」の音号から転訛したものと考えられている。

鬱陵島の空島政策以後、島の周辺を知る者は限られ、安龍福の事件に絡む竹島一件後の18世紀になってからは、鬱陵島へ朝鮮政府の本格的な調査が定期的に入り、その最大の付属島である竹嶼を于山島として描いた地図が増えてくる。

「于山島=独島」説

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韓国政府の公式見解は以下のようなものである[2]

  • 鬱陵島は、羽陵、武陵、鬱陵などと呼ばれていたのに対して、独島は于山あるいは三峰島と呼ばれていた(1953年7月13日付韓国政府見解[25])。
  • ここに韓国政府は、文献上の于山島が間違いなく現在の独島(日本でいう竹島)だということを再び指摘しなければならない(1954年9月25日付韓国政府見解[25])。
  • 大韓民国政府は、すでに朝鮮時代初期から、韓国が二名二島の島々として于山島と鬱陵島を認知しており、また、于山島が独島(現在、日本でいうタケシマ)であることを、具体的な文献に基づいて主張してきた(1956年9月20日付韓国政府見解[25])。

脚注

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注釈

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  1. ^ 川上健三は1966年の『竹島の歴史地理学的研究』において、『高麗史地理志』、『世宗実録地理志』、『太宗実録』、『新増東国輿地勝覧』などを渉猟して比較分析し、当時の于山・鬱陵二島説はまったくの観念的なもので、なんら実際の知識にもとづいたものではないと指摘している[2]。また、朝鮮における最も権威の高い地図である19世紀の『大東輿地図』などをみても、于山が今日の竹島(韓国人のいう「独島」)でないことは明らかだとしている[2]。しかし、日本人学者でも梶村秀樹堀和生などは于山は独島だと言明している[2]

出典

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  1. ^ 池内(2016)p.30
  2. ^ a b c d e 金(2007)pp.121-123
  3. ^ 原文(8ページ参照)(PDF)
  4. ^ a b c d e f g 金(2007)pp.128-134
  5. ^ 原文(53ページ参照)(PDF)
  6. ^ 原文(17ページ参照)(PDF)
  7. ^ 原文 (51-52ページ参照)(PDF)
  8. ^ 保坂祐二(2016)pp.57-62
  9. ^ 原文 (57ページ参照・于山島の位置は4,5ページ参照)(PDF)
  10. ^ 独島博物館所蔵
  11. ^ a b 舩杉力修「絵図・地図からみる竹島(Ⅱ) 1.韓国側作製の地図の分析」『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』(2007)pp.107-108
  12. ^ a b 2007年11月27日「山陰中央新報」23面 - Web竹島問題研究所「竹島問題への意見:質問-A江戸時代まで」より)
  13. ^ 「備辺司謄録」奎章閣
  14. ^ 原文
  15. ^ 「日省録」奎章閣
  16. ^ 青邱図」奎章閣蔵
  17. ^ 葛生修亮 1903, p. 123「韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び」
  18. ^ 『高校国史(下)』I.近代社会の胎動、1.朝鮮後期の社会変動と対外関係、(3)産業の発達、対外貿易「朝鮮後期の貿易地域と商業活動」(조선 후기의 무역지와 상업 활동 )」
  19. ^ a b 『高校国史(上)』I.古代社会の発展、4.統一新羅と渤海の発展、(5)新羅末期の社会変動、禅9山の登場「新羅の5教9山 (신라의 5교 9산)」
  20. ^ 『高校国史(上)』II.中世社会の発展、1.高麗の建国と貴族社会の成立、(2)統治構造の整備、政治組織と軍事組織「3京5東宝8首(3경 5도호 8목)」
  21. ^ 『高校国史(上)』II.中世社会の発展、2.貴族社会の発展と変動、(1)高麗前期の社会、外国貿易の発達「高麗の外国貿易(고려의 해외 무역 )」
  22. ^ 井上秀雄 全訳世界の教科書シリーズ31『韓国 その人々の歴史』帝国書院 1983 図版 p43「9州5小京 于山」、p52「新羅の5教9山 于山」、p58「3京5都護8牧 鬱陵島」*原典では于山、p66「高麗の海外貿易 于山」、p145「朝鮮後期の貿易地と商業活動 鬱陵島」など
  23. ^ 『韓国 その人々の歴史』 p193
  24. ^ 『検定版 韓国の歴史教科書 高等学校韓国史』p387-389
  25. ^ a b c 大韓民国外務部『独島関係資料集(I)II―往復外交文書(1852-76)』

参考文献

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  • 葛生修亮『韓海通漁指針』黒竜会、1903年1月。doi:10.11501/802140 
  • 下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文藝春秋
  • 川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、復刻新装版、1996 ISBN 978-4772218566(原著 1966)
  • 内藤正中朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社、2007
  • 池内敏『竹島—もうひとつの日韓関係史』中央公論新社、2016年1月。ISBN 978-4-12-102359-9 
  • 内藤正中金柄烈『史的検証 竹島・独島』岩波書店、2007年4月。ISBN 978-4-00-023774-1 
    • 内藤正中「第1部 竹島の歴史」『史的検証 竹島・独島』岩波書店、2007年。ISBN 978-4-00-023774-1 
    • 金柄烈「第2部 独島の歴史」『史的検証 竹島・独島』岩波書店、2007年。ISBN 978-4-00-023774-1 
  • 保阪正康『歴史でたどる領土問題の真実』朝日新聞出版朝日新書〉、2011年8月。ISBN 978-4-02-273409-9 
  • 保坂祐二『<独島・竹島>の日韓史』論創社、2016年7月。ISBN 978-4846015527 

関連項目

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外部リンク

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