マリア・ゴロホフスカヤ
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マリア・ゴロホフスカヤの写真を図柄に使用したソビエト連邦の切手(1957年発行)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム |
露: Мари́я Кондра́тьевна Гороховская ウクライナ語: Марія Кіндратівна Гороховська 英: Maria Kondratyevna Gorokhovskaya | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛称 | Муся(ムシャ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | ウクライナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧国籍 | ソビエト連邦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1921年10月17日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
生誕地 | クリミア イェウパトーリヤ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 2001年7月22日(79歳没) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
死没地 | イスラエル テルアビブ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
種目 | 体操競技 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
代表 | ソビエト連邦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
所属 |
Stroityel Kharkov Burevestnik Leningrad | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
引退 | 1954年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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マリア・コンドラーチエヴナ・ゴロホフスカヤ(英: Maria Kondratyevna Gorokhovskaya 露: Мари́я Кондра́тьевна Горохо́вская ロシア語発音: [mɐˈrʲijə kɐnˈdratʲjɪvnə ɡərɐˈxofskəjə] ウクライナ語: Марія Кіндратівна Гороховська[† 1], 1921年10月17日 - 2001年7月22日)は、ソビエト連邦(現ロシア連邦)の元女子体操競技選手。30歳で1952年のヘルシンキ五輪に出場して7個のメダル(金メダル2個、銀メダル5個)を獲得し[1]、1954年の世界体操競技選手権ローマ大会でも2個のメダル(金メダル1個、銅メダル1個)を獲得した[2]。
経歴
[編集]1921年10月17日、マリア・ゴロホフスカヤはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 クリミア自治社会主義ソビエト共和国[† 2](現ウクライナ クリミア自治共和国)イェウパトーリヤ[† 3]でユダヤ系ウクライナ人の家庭に[3]生まれた[1]。幼少の頃からスポーツを始め[3]、1941年にフェオドシヤ体育大学を卒業して[4]レニングラード(現サンクトペテルブルク)のレスガフト記念レーニン体育研究院に入学した[5]。在学中の1941年6月にナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を実行して独ソ戦が起こり[4]、その年の9月にレニングラード包囲戦が始まるとゴロホフスカヤは毎日、昼間は軍の病院で働き[6]、夜間は建物の屋根の上で働いてナチス・ドイツが投下する焼夷弾からの火災を防ぐという生活を送ったため極度の疲労に陥ったが[3]、包囲されているレニングラードから「生命の氷の道」を経由してカザフ・ソビエト社会主義共和国(現カザフスタン共和国)のアクモラ州へ搬送され、奇跡的に助かった[3]。
1944年夏にソビエト赤軍がクリミアを解放した後、イェウパトーリヤへ戻ったが[3]、父はナチスに銃で撃たれ、兄は前線で戦死していた[7]。こうした家族の悲劇を経験したゴロホフスカヤは、体操競技の選手になって戦争の恐怖にも挫けない強靭な意志を示そうと決意した[3]。第二次世界大戦が終わると体育学校で子供たちのコーチを務める一方で自分自身も体操競技選手としてトレーニングを続けた[4]。しばらく後にパヴェル・アルヴァリヤンと結婚して[8]ハルキウへ移り、地元のスポーツクラブ「ストロイチェリ」に加入した[4][9]。1948年のソビエト連邦選手権では平均台で優勝し、初の金メダルを獲得した[3][10]。これ以降、現役生活中にソビエト連邦選手権で合計10個の金メダルを獲得している[3](詳細は『オリンピック大会以外での成績』のセクションを参照)。
1952年7月、フィンランドのヘルシンキで夏季五輪が開催された。1928年アムステルダム五輪で女子体操競技が五輪競技になって以来[11]、五輪大会の女子体操競技では団体総合のみが実施されてきたが、この大会から女子の団体種目として団体総合に加えて手具体操団体が実施され[12]、女子の個人種目として個人総合、跳馬、段違い平行棒、平均台、ゆかの5種目が実施された[13]。また、従来、五輪大会に参加していなかったソビエト連邦がこの大会で初参加した[14]。ゴロホフスカヤはソビエト代表チームのメンバーに選ばれてこの大会に初出場し、チームの団体総合での金メダル獲得[15][16]と手具体操団体での銀メダル獲得[1]に貢献したほか、種目別でも跳馬、段違い平行棒、平均台、ゆかで銀メダルを獲得し[17]、個人総合では金メダルを獲得して五輪大会における女子個人総合の初代金メダリストになった[18]。このとき彼女は30歳であり、2017年12月現在で五輪同競技種目の最年長金メダリストである[19]。ゴロホフスカヤは最終的に大会で実施された女子体操競技の全種目で表彰台に立ち、あわせて7個のメダル(金メダル2個、銀メダル5個)を獲得した[1]。これは2021年8月現在、競泳のエマ・マキーオンと並び1つの五輪大会で女子選手が獲得したメダル数として史上最多記録である[19](詳細は『1つの五輪大会で女子選手が獲得したメダル数のランキング』のセクションを参照)。
続いて1954年の世界体操競技選手権ローマ大会に出場し、団体総合で金メダル[20]、ゆかで銅メダルを獲得した後[21]、ゴロホフスカヤは競技生活から引退した[5]。引退後はコーチを務める一方、数多くの国際競技大会で審判員としても活動した後[4]、1977年に故郷のイェウパトーリヤに戻り、コーチの仕事を続けた[7]。その後、1990年にイスラエルへ移住して[7]現役時代のライバルだったハンガリーのケレティ・アーグネシュと再会し[7]、それ以来、同年齢の2人の交友は続いた[6]。
2001年7月22日、ゴロホフスカヤはイスラエルのテルアビブで死去した[1]。
オリンピック大会以外での成績
[編集]年 | 大会 | 個人総合 | 団体総合 | ||||||
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1947 | ソビエト連邦選手権 | 銀 | |||||||
1948 | ソビエト連邦選手権 | 銀 | 金 | ||||||
1949 | ソビエト連邦選手権 | 銅 | 銅 | 銀 | 金 | ||||
1950 | ソビエト連邦選手権 | 銀 | 銅 | 銅 | 銅 | 金 | |||
1951 | ソビエト連邦選手権 | 金 | 銅 | 銀 | 金 | ||||
1952 | ソビエト連邦選手権 | 金 | 銅 | 金 | 銀 | 金 | |||
1953 | ソビエト連邦選手権 | 金 | |||||||
1954 | 世界選手権 | 金 | 銅 | ||||||
ソビエト連邦選手権 | 銀 | 金 |
1つの五輪大会で女子選手が獲得したメダル数のランキング
[編集]選手 | 国 | 競技 | 大会 | 金 | 銀 | 銅 | 合計 |
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エマ・マキーオン | オーストラリア | 競泳競技 | 2020 夏 | 4 | - | 3 | 7 |
マリア・ゴロホフスカヤ | ソビエト連邦 | 体操競技 | 1952 夏 | 2 | 5 | - | 7 |
クリスティン・オットー | 東ドイツ | 競泳競技 | 1988 夏 | 6 | - | - | 6 |
ケレティ・アーグネシュ | ハンガリー | 体操競技 | 1956 夏 | 4 | 2 | - | 6 |
ベラ・チャスラフスカ | チェコスロバキア | 体操競技 | 1968 夏 | 4 | 2 | - | 6 |
ラリサ・ラチニナ | ソビエト連邦 | 体操競技 | 1956 夏 | 4 | 1 | 1 | 6 |
ラリサ・ラチニナ | ソビエト連邦 | 体操競技 | 1960 夏 | 3 | 2 | 1 | 6 |
ダニエラ・シリバシュ | ルーマニア | 体操競技 | 1988 夏 | 3 | 2 | 1 | 6 |
ラリサ・ラチニナ | ソビエト連邦 | 体操競技 | 1964 夏 | 2 | 2 | 2 | 6 |
ナタリー・コーグリン | アメリカ合衆国 | 競泳競技 | 2008 夏 | 1 | 2 | 3 | 6 |
コロンディ・マルギット | ハンガリー | 体操競技 | 1952 夏 | 1 | 1 | 4 | 6 |
2021年8月現在。五輪の夏季・冬季両大会を合わせたランキングのうち、上位11記録を掲載した。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ゴロホフスカヤはウクライナ人であり、標準的なウクライナ語発音にしたがえば、日本語では氏名を「マリア・キンドラーチウナ・ホロホウシカ」と表記するのが比較的原音に忠実である[要出典]。しかし、彼女の現役時代には氏名をロシア語で表記・発音するのが一般的だったため[要出典]、本項目では氏名を「マリア・コンドラーチエヴナ・ゴロホフスカヤ」と表記する。
- ^ ソビエト連邦の成立は1922年であるため、ゴロホフスカヤが生まれた時点ではソビエト連邦はまだ存在していない[要出典]。
- ^ ロシア連邦は「2014年3月にクリミア自治共和国はクリミア共和国としてウクライナから独立し、クリミア共和国は同月の編入条約によりロシア連邦に編入された」と主張している[要出典]。アルメニア、キューバなどの少数の国はロシアの主張を認めており、この立場からは「ロシア連邦 クリミア共和国 イェウパトーリヤ」と表記されることになる[要出典]。一方、国際連合は2014年3月末にロシアによるクリミア編入を無効とする趣旨の総会決議を採択しており、2017年12月現在、ウクライナおよび日米欧をはじめとする多くの国はクリミア共和国の独立とロシアへの編入を認めていない[要出典]。そのため、本項目では「ウクライナ クリミア自治共和国 イェウパトーリヤ」と表記する。
出典
[編集]- ^ a b c d e “マリア・ゴロホフスカヤ”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: Maria Gorokhovskaya biography” (英語). Gymn-Forum (2004年9月6日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Фредди Бен Натан (2016年6月23日). “ДВЕ ЗВЕЗДЫ - КАСКАД” (ロシア語). Kackad.com. 2018年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月3日閲覧。
- ^ a b c d e “Гороховская Мария Кондратьевна - биография. Российская Гимнастка Олимпийская чемпионка” (ロシア語). Ruspekh.ru. 2018年1月3日閲覧。
- ^ a b Татьяна КОРАБЛЕНКО (2005年7月21日). “Газета "Крымские известия"-Дорога в большой спорт начинается в детстве” (ロシア語). на газету «Крымские известия». 2006年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月3日閲覧。
- ^ a b Евгений Гик (2008年10月17日). “Сегодня день рождения первой советской олимпийской чемпионки по гимнастике - Архив публикаций Ни война, ни Путин не нужны МК” (ロシア語). газета Московский Комсомолец. 2012年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月3日閲覧。
- ^ a b c d ЛИНЫ ГОРОДЕЦКОЙ (2016年7月22日). “Мария Гороховская. Блокада и Еврейский спортивный зал Славы… - Страницы Лины Городецкой” (ロシア語). Linagor. 2018年1月3日閲覧。
- ^ Елена ДРАГА (2000年11月10日). “Старейшая украинская олимпийская чемпионка нина бочарова: «один московский прохиндей уговорил меня... - Газета «ФАКТЫ»” (ロシア語). «Факты и комментарии». 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Две звезды, или Искусство побеждать - ИСРАГЕО” (ロシア語). Исрагео (2016年8月22日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1948 USSR Championships, Women's AA, EF and Team” (英語). Gymn-Forum (2004年8月22日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ Jessica Taylor Price (2015年12月11日). “Our First Olympics: Women’s Gymnastics at Amsterdam 1928” (英語). The Gymternet. 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymnastics at the 1952 Helsinki Summer Games: Women's Team Portable Apparatus” (英語). Sports-Reference.com. 2018年1月3日閲覧。
- ^ Jessica Taylor Price (2016年3月2日). “Our First Individual Medals: Helsinki 1952” (英語). The Gymternet. 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Великие традиции советских побед” (ロシア語). ロシアオリンピック委員会. 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1952 Olympic Games, Women's Team” (英語). Gymn-Forum (2005年3月28日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1952 Olympics, Women's Team Results by Gymnast” (英語). Gymn-Forum (2005年3月28日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1952 Olympic Games, Women's EF” (英語). Gymn-Forum (2004年10月2日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1952 Olympic Games, Women's AA” (英語). Gymn-Forum (2004年2月6日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ a b Gigi Khaback Farid (2013年11月5日). “The Oldest (Age) Olympic All Around Champions - WOGymnastika” (英語). WOGymnastika. 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1954 World Champs, Women's Team” (英語). Gymn-Forum (2004年2月4日). 2018年1月3日閲覧。
- ^ “Gymn Forum: 1954 World Champs, Women's EF” (英語). Gymn-Forum (2004年2月4日). 2018年1月3日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- マリア・ゴロホフスカヤ - Olympedia
- マリア・ゴロホフスカヤ - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- マリア・ゴロホフスカヤ - FIG
- マリア・ゴロホフスカヤ - Gymn Forum