アンジェルジェ家
アンジェルジェ家(フランス語:Ingelgeriens)は、ないしアンジュー家(フランス語:Première maison d'Anjou)は、カロリング帝国初期に創立したフランス貴族の家系。10世紀から11世紀にかけてアンジュー伯位を継承した。
起源
[編集]同家で最初に記録された人物は9世紀頃のアンジェルジェ(インゲルガリウス)という名のフランク族の貴族である[1]。後世、この一族の子孫は、アンジェルジェをテルチェル(トルチェルフ)とペトロニラの息子であると信じていた[2]。877年頃、アンジェルジェは西フランク王シャルル2世禿頭王が発行したキエルジィの勅令集により自身の領地を獲得した。これ等の中にはシャトー=ランドンの聖職禄が含まれており、アンジェルジェはガティネとフランキアのcasatus(聖職禄などを給された不自由身分の家臣) であった。同時代の記録はアンジェルジェを最高の戦士(ミレース・オプティマス)つまり偉大なる軍人であると言及している[3]。
アンジェルジェは西フランク王ルイ2世によって、当時、オルレアン司教によって支配されていたオルレアンの副伯(ヴィコント)に任命された[3] 。オルレアンでアンジェルジェはアンボワーズの領主でネウストリアの有力者の一族で、トゥール大司教アダラルドゥス(アダラール)とアンジェ司教レギノ(レジノン)を母方の叔父に持つアドレース・ド・ビュザンセ(Aelendis,エレンディス)と結婚した。後にアンジェルジェはトゥールの知事(軍事守備)に任じられたが、当時そこは、アダラルドゥスによって統治されていた[3]。
同時にアンジェルジェはアンジュー伯に任じられたが、当時伯領は最も西でマイエンヌ川までにしか伸びていなかった。後世の資料はアンジェルジェはヴァイキングから守備するために任じられたと記録しているが[4]、近代以降の学者はアンジェルジェの妻の影響力のある親族のおかげらしいと見なしている[3]。アンジェルジェはシャトーヌフ=シュル=サルト(en)の聖マルティヌス教会に埋葬され、息子のフルク1世(赤毛のフルク)が後を継いだ[4]。アンジュー伯領は1060年にジョフロワ2世が嗣子無くして没するまで同家によって継承され、伯領はその後、ジョフロワ2世の甥(妹の息子)でガティネ伯ジョフロワの息子であるジョフロワ3世が継承した(ガティネ家)。
アンジュー伯一覧
[編集]- アンジェルジェ(870年 - 898年)
- フルク1世(赤毛伯)(898年 - 941年)
- フルク2世(善良伯)(941年 - 958年)
- ジョフロワ1世グリズゴネル(灰衣伯)(958年 - 987年)
- フルク3世ネラ(黒伯)(987年 - 1040年)
- ジョフロワ2世マルテル(鎚伯)(1040年 - 1060年)
系図
[編集]アンジェルジェ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フルク1世 アンジュー伯 | ロシーユ (ロシュ領主ガルニエ娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロシーユ (c.904-) | アラン2世 ブルターニュ公 | ロシーユ (ブロワ伯ティボー1世妹) | フルク2世 アンジュー伯 | ジェルベルジュ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アデール (ヴェルマンドワ家モー伯ロベール1世娘) | ジョフロワ1世 アンジュー伯 | ギー ル・ピュイ=アン=ヴレ司教 | アデライード=ブランシュ 1=ジェヴォーダン伯エティエンヌ 2=トゥールーズ伯レーモン(5世) 3=西フランク王ルイ5世 4=プロヴァンス伯ギヨーム1世 5=ブルゴーニュ伯オット=ギヨーム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルマンガルド=ジェルベルジュ =ブルターニュ公コナン1世 =アングレーム伯ギヨーム4世 | エリザベート・ド・ヴァンドーム (ヴァンドーム伯 モントワール伯 ラヴァルダン伯 コルベイユ伯 ムラン伯 パリ伯ブシャール1世娘) | フルク3世 アンジュー伯 | イルドガルド (上ロレーヌ公ティエリー1世娘他諸説有) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アデール =ヴァンドーム伯ボドン・ド・ヌヴェール | ギヨーム5世 アキテーヌ公 | アニェス (ブルゴーニュ伯オット=ギヨーム娘) | ジョフロワ2世 アンジュー伯 | エルマンガルド | ジョフロワ2世 ガティネ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アキテーヌ公家 | ジョフロワ3世 ガティネ伯 アンジュー伯 | フルク4世 アンジュー伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ガティネ家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ Vauchez, Encyclopedia of the Middle Ages, 65.
- ^ 12世紀に書かれた『Gesta Consulum Andegavorum』には、彼の父親についてTertullus nobilem duxとしている。しかし、Tertullus(テルチェル)という名もduxの身分も他では見られない。他の12世紀の文献『Chronicon Turonensis』 (1180年頃)ではアンジェルジェのことをnepos Hugonis ducis Burgundiæ(ブルゴーニュ公ユーグの甥/孫)としている。このユーグは年代的にユーグ黒公よりも、西フランク王ルイ2世およびルイ3世に影響を及ぼしたサン=ジェルマン修道院長ユーグ(Hugues l'Abbé、古ヴェルフ家コンラート1世の子)ではないかと考えられている(後の文献ではこのユーグをカール大帝の子ユーグと混同しており、このためいくつかの19世紀の文献でもペトロニラをカール大帝の孫と誤って記載している)。最近の研究者はテルチェルとペトロニラについて史実ではないとしている。
- ^ a b c d Bernard S. Bachrach (1993), Fulk Nerra, the Neo-Roman Consul, 987 - 1040: A Political Biography of the Angevin Count (Berkely: University of California Press, ISBN 0 520 07996 5), 4 - 5.
- ^ a b Anjou: Chapter 1. Comtes d'Anjou atFoundation for Medieval Genealogy: Medieval Lands Project.