鷹司松平家
鷹司松平家 → 吉井家 | |
---|---|
| |
本姓 | 藤原北家近衛流鷹司家支流 |
家祖 | 松平信平 |
種別 |
武家 華族(子爵) |
出身地 | 山城国平安京 |
主な根拠地 |
上野国多胡郡吉井 東京市麹町区上二番町 東京市世田谷区代田 千葉県市川市真間 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
鷹司松平家(たかつかさまつだいらけ)は、五摂家鷹司家の庶流で武家・華族だった家。本姓は藤原氏。江戸時代には紀州徳川家御連枝一門として、徳川家一門待遇の親藩・定府の大名上野国吉井藩主だった。明治維新後は吉井(よしい)に改姓し、華族の子爵家に列した[1]。
歴史
[編集]江戸時代(鷹司家→松平家)
[編集]慶安3年(1650年)、鷹司信平は江戸幕府3代将軍徳川家光の御台所であった姉の孝子(本理院)を頼り、家臣1人だけを伴って江戸へと下った。家光と孝子の間柄は非常に険悪であったが、家光は信平を歓迎して1000俵の廩米と月俸200人扶持を与え、寄合に入れた。その後、承応2年(1653年)に4代将軍徳川家綱の配慮により、和歌山藩主徳川頼宣の次女・松姫を正室に迎える。翌承応3年(1654年)には従四位下・左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の御連枝一門として松平姓を与えられて松平信平と名乗り、鷹司松平家が創始された。
延宝2年(1674年)には上野と上総両国内において7000石の知行を与えられ、寄合旗本となった。その後、5代将軍綱吉の御台所信子(浄光院)が鷹司家出身だったことから、宝永6年(1709年)[注釈 1]に信平の孫・松平信清は信子の信頼を得て上野国多胡郡など3000石を加増され、合計1万石で矢田藩を立藩、大名諸侯に列した。その後、拠点を吉井に移し、吉井藩主となる。1万石の極小藩ながら、五摂家庶流の出自で御台所の親類、さらに御三家連枝のため、徳川家一門にして国主格という高い家格を有した。さらに江戸城内では、御三家、加賀前田家などと同じ大廊下(下之間)の待遇を幕末まで受けた。また官位も国主大名と同位の従四位下・侍従に叙されることを通例とした。歴代の藩主は江戸定府で参勤交代を免除され、領地である吉井には陣屋が設けられていた。現在、吉井陣屋の表門跡が残っている。
鷹司松平家の存在は非常に特異で、江戸時代を通して公家から大名に列した唯一の家である。立藩以前から宗家たる五摂家・鷹司家との養子縁組や婚姻関係はほとんどなく、8代当主・信充の正室に関白鷹司政熙の娘を迎えたのが唯一の例である。
歴代当主は家祖の信平以来「信」の通字を、庶子は「房」の通字を用いている。これらの通字の由来は信平の父・鷹司信房までさかのぼり、「信」については絶家となっていた鷹司家が織田信長の働きで再興された際、当主となった信房が信長から受けたとされるものである[注釈 2]。
4代当主・信友が一方の本家といえる紀州家から信有を養子に迎えて以降、信有の血筋と信友の直系とが交互に家督を相続したが、幕末までに双方の血筋とも断絶し、他家から養子を迎えて存続している。
元治2年(1865年)、米沢藩主上杉斉憲の五男である信謹(母方は鷹司信房の血筋[注釈 3])が11代当主・松平信発(津山松平家庶流出身)の隠居にともない家督を相続した。
明治以降(吉井家)
[編集]王政復古後の慶応4年(1868年)1月2日に元・将軍徳川慶喜ら旧幕府勢力が鳥羽・伏見の戦いを起こしたのを受けて、新政府は1月10日に慶喜追討令を下し、慶喜は朝敵となった。1月27日に政府は、本姓がありながら松平姓を受けた大名家に対して「徳川慶喜反逆二付テハ松平之苗字ヲ称シ居候族ハ(略)速二各本姓二復」すことを命じる布告を発した[2]。これを受けて当時の当主松平信謹は、2月22日に藩名と苗字をそろって吉井に改めた[3][1][4]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、吉井家も大名家として華族に列した[5]。6月24日に版籍奉還により吉井信謹は吉井藩知事に任じられたが、同年12月26日に依願して知事を免じられた[3]。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で216石[6][7][注釈 4]。明治9年(1876年)8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えで支給された金禄公債の額は、9780円99銭5厘[6]。当時の信謹の住居は東京市麹町区上二番町にあった[6]。
信謹は明治12年(1879年)8月4日、隠居して満3歳になる長男の信宝に家督を譲った[9]。信謹は同月28日に吉井家を離籍して[4]、上杉家に戻り、同年9月2日に上杉家分家(鷹司上杉家)を建てた。上杉信謹は1908年(明治41年)11月22日に56歳で死去した[10]。
1884年(明治17年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、7月8日に吉井信宝は旧・小藩知事[注釈 5]として子爵に叙された[12]。信宝夫人の喜和は、本庄宗武子爵の六女である[4]。
信宝は大正12年(1923年)11月14日に死去し、長男の信康が爵位と家督を相続した[4]。信康夫人の槇子は、宮地栄次郎の次女である[4]。
歴代当主と後嗣たち
[編集]- 初代当主 松平信平(上野国・上総国内合計7000石)
- 2代当主 松平信政(信正)(和歌山藩祖・徳川頼宣の外孫)
- 信清(3代当主)
- 千代二郎
- 初代藩主 松平信清(3000石の加増を受けて計1万石となり吉井藩を立藩) - 以降、当主としては藩主の代数に2を足す。
- 信友(2代藩主)
- 2代藩主 松平信友
- 峰丸
- 信明(4代藩主)
- 吉十郎
- 房恭
- 3代藩主 松平信有(和歌山藩6代・徳川宗直の四男) - 以後、7代藩主信敬まで、信友の子・孫と信有の子・孫が交互に継承している。
- 信成(5代藩主)
- 房矩
- 房堅
- 辰五郎
- 繁次
- 4代藩主 松平信明
- 信充(6代藩主)
- 5代藩主 松平信成
- 亀之丞
- 房府
- 信敬(7代藩主)
- 6代藩主 松平信充
- (実子なし)
- 7代藩主 松平信敬
- (実子なし)
- 8代藩主 松平信任(5代藩主・信成の次男松平房府の長男。正室は7代藩主・信敬の娘)
- (実子なし)
- 9代藩主 松平信発(美作津山藩5代・松平康哉の四男である松平維賢の三男。正室は7代藩主・信敬の娘) - 明君として知られる。
- (実子なし)
- 10代藩主 吉井信謹(出羽米沢藩12代・上杉斉憲の五男。吉井藩最後の藩主。のちに吉井家から離縁して上杉家に戻る)
- 信宝(13代当主)
- 信照
吉井子爵家
[編集]系譜
[編集]二条晴良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川秀忠 | 九条兼孝 | 二条昭実 | 鷹司信房 | 徳川頼宣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川家光 | 鷹司孝子 | 鷹司信尚 | 松平信平1 | 松姫 | 松平頼純 | 徳川光貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川家綱 | 鷹司教平 | 松平信政2 | 竹中定矩 | 徳川宗直 | 徳川吉宗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川綱吉 | 鷹司信子 | 鷹司房輔 | 松平信清3 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平信友4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平信明6 | 松平房恭 | 松平信有5 | 徳川治貞 | 徳川宗将 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平信充8 | 松平信成7 | 松平房矩 | 松平房堅 | 松平繁次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平信敬9 | 松平房府 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鋭姫 | 松平信任10 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | 松平/吉井信発11 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平/吉井信謹12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉井信宝13 | 吉井信照 | 上杉謹一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉井信康14 | 高橋徳恵 | 岡田信光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 379.
- ^ 井戸田博史(著)、国学院大学栃木短期大学史学会(編)「平民苗字必称令 : 国民皆姓」(PDF)『法政論叢』第21巻、日本法政学会、1985年、40 - 41頁、NAID 110002803974。
- ^ a b 新田完三 1984, p. 891.
- ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 825.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13 - 14.
- ^ a b c 石井孝太郎 1881, p. よ之部.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 4/26.
- ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 浅見雅男 1994, p. 150.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 342.
参考文献
[編集]- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年) 。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。