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代田 (世田谷区)

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日本 > 東京都 > 世田谷区 > 北沢地域 > 代田 (世田谷区)
代田
世田谷代田駅 駅舎(2015年9月)
世田谷代田駅 駅舎(2015年9月)
代田の位置(東京都区部内)
代田
代田
代田の位置
北緯35度39分28.73秒 東経139度39分37.59秒 / 北緯35.6579806度 東経139.6604417度 / 35.6579806; 139.6604417
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 世田谷区
地域 北沢地域
面積
 • 合計 1.36 km2
人口
2019年(令和元年)9月1日現在)[1]
 • 合計 23,246人
 • 密度 17,000人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
155-0033[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 世田谷

代田(だいた)は、東京都世田谷区町名。現行行政地名は代田一丁目から代田六丁目。郵便番号155-0033[2]

地理

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世田谷区の北部に位置し、同区北沢地域に属する。北で大原、東で北沢代沢、南で若林、西で松原羽根木梅丘と接する。北沢川が地区南部を西から東に流れるが暗渠化されている。地形は北沢川に向かって下る傾向があるが、北端の六丁目には南北に長い窪地があり、東西それぞれに上がる傾向も見られる。

若林、世田谷との結びつきの強い一丁目、代田八幡宮、世田谷代田駅がある二丁目、三丁目、羽根木公園があり、梅丘、松原との結びつきの強い四丁目、北沢との結びつきの強い五丁目、六丁目と様々な側面を持ち、区域内の一体としての印象は希薄さが見られる。

環状7号線、梅丘通りに沿った路線商業地、下北沢駅に近い近隣商業地などの商業地の他に共同住宅地、戸建住宅地等が混在している。

河川

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歴史

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代田の町としての始まりは、天正18年(1590年)、後北条氏豊臣秀吉との戦いで負け(小田原征伐)、北条側であった世田谷城城主吉良氏朝が上総国に逃れた後、その家臣の代田七人衆(秋元・大場・齋田(当時より二家系有)・清水・柳下・山田)がこの地に帰農、現在の代田1〜3丁目付近を開墾したのが始まりと伝えられている[4][5]

元々、代田という地域名(呼び名)は現在の代沢の一部、大原をも含む範囲を指す概念であった。新編武蔵風土記稿には代田村について「東は下北沢村ならびに上目黒・池尻の三村にとなり、西は松沢村・赤堤村に接し、南は若林・三宿・太子堂の三村に及び、北は多磨郡和泉村及び豊嶋郡幡ヶ谷村の境につらなれり。東西十余・南北十五六丁。東より北のかたへ釣ばりの如く横たはられり」と記述されている。[6]

その後町村制の施行に伴い、明治22年に世田ヶ谷村が発足し、代田は世田ヶ谷村の大字となった。逓信協会による大正14年発行の荏原郡世田ヶ谷町の地図によれば、少なくともこの時点で東側は飛び地となっており、この飛び地との間で下北沢村の元々の中心部(現在の代沢三丁目、五丁目付近)を東西から挟み込むような形であった。[7]その後、甲州街道に接する大原が独自の発展をし、昭和7年の世田谷区の発足時に代田と別れて大原町となった。この時東の飛び地も下代田町となっている。昭和39年の住居表示の実施の際には、境界の整理(環状七号線より西且つ京王井の頭線より北の部分が羽根木一丁目に編入され、羽根木町のうち井の頭線東松原-新代田間よりも南の部分が代田四丁目に編入され、かつて羽根木町の飛び地であった部分の一部(現在の羽根木公園の西側)が松原四丁目から代田四丁目に編入された)が行われ現在の形となった[8]

旧版地図等によると、小田急線、井の頭線、現在の環状7号線の開通を契機に世田谷代田駅、新代田駅周辺を中心に宅地化が進んでいった。第二次世界大戦末期に世田谷代田~代田二丁目(新代田)に車両搬出入用の線路(代田連絡線)が一時敷設されたことがあるが、それ以後の急速な宅地化の影響により連絡線の痕跡などは一切残っていない。

地名の由来

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地名は、巨人伝説に由来するという説がある。昔この辺りには大きな窪地があったが、それが想像上の巨人「ダイダラボッチ」の歩いた足跡だ、というものである。

柳田國男は著書『ダイダラ坊の足跡』(1927年昭和2年))の中で、「代田村」の名の由来について次のように考察している。

ダイタの橋[9]から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研[10]になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建つてその傍に湧き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。

2021年に完成した世田谷代田駅の駅前広場は巨大な足跡の意匠を採り入れているが、この伝承にちなんだものである。

経済

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産業

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企業

世帯数と人口

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2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
代田一丁目 2,268世帯 3,916人
代田二丁目 2,073世帯 3,521人
代田三丁目 3,143世帯 5,364人
代田四丁目 2,280世帯 3,859人
代田五丁目 2,029世帯 3,180人
代田六丁目 2,125世帯 3,406人
13,918世帯 23,246人

小・中学校の学区

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区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11]

丁目 番地 小学校 中学校
代田一丁目 全域 世田谷区立代沢小学校 世田谷区立富士中学校
代田二丁目 全域 世田谷区立代田小学校
代田三丁目 全域 世田谷区立山崎小学校 世田谷区立世田谷中学校
代田四丁目 全域 世田谷区立代田小学校 世田谷区立梅丘中学校
代田五丁目 1~30番
その他 世田谷区立下北沢小学校 世田谷区立北沢中学校
代田六丁目 1~16番
その他 世田谷区立梅丘中学校

交通

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鉄道の駅は、小田急小田原線世田谷代田駅京王井の頭線新代田駅が設置されている(京王線代田橋駅大原に所在)。道路は環七通りが南北に通り、梅丘通りが東西に通る。 環七通りと区道が交わる宮前橋交差点は交通事故(人身事故)が多く、例年、危険な交差点ランキング上位に顔を見せることがある[12]

名跡・施設等

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出身・ゆかりのある人物

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居住者

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舞台となった作品

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脚注

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  1. ^ a b c 世田谷区の町丁別人口と世帯数”. 世田谷区 (2019年9月3日). 2019年9月29日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月27日閲覧。
  4. ^ 第1回 代田の街づくり学習会 - 《テーマ》” (PDF). 世田谷区. 2023年4月26日閲覧。
  5. ^ 駅周辺まちづくりニュースNo.9” (PDF). 世田谷区. 2023年4月26日閲覧。
  6. ^ 『世田谷区史料 第一集』、1958年1月10日、388頁”. 世田谷区. 2024年11月4日閲覧。
  7. ^ 東京逓信局編纂『東京府荏原郡世田ヶ谷町』”. 逓信協会 (1925年7月10日). 2024年11月4日閲覧。
  8. ^ 三田義春編・著『世田谷の地名 区域の沿革・地誌・地名の起源(上)』、1984年3月10日、198 - 216頁”. 世田谷区教育委員会. 2023年4月26日閲覧。
  9. ^ 代田橋=現在の代田橋駅の北西で甲州街道玉川上水を越えていた橋。
  10. ^ 薬研のような形、つまり小さなV字谷を成していたということ。
  11. ^ 通学区域”. 世田谷区 (2018年4月1日). 2019年9月29日閲覧。
  12. ^ 東京都 令和4年の交差点事故状況”. 日本損害保険協会 (2023年). 2023年9月18日閲覧。
  13. ^ 笹川 博義(ささがわ ひろよし)衆議院公式サイト。2022年6月24日閲覧。
  14. ^ 「斉藤茂吉略年譜」 財団法人 斎藤茂吉記念館

関連項目

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